マッシュ・ボア
鬱蒼と茂る木々が頭上を覆い、昼でもなお暗い山中の獣道をスフィアたちは慎重に進んでいた。
足元の腐葉土は湿って柔らかく、歩くたびに微かな音を立てる。
どこか甘ったるいような湿気を含んだ植物の匂いが鼻をくすぐっていた。
「今のうちに、マッシュ・ボアの情報共有をしとこうぜ」
先頭を歩くスフィアが、後ろに続くメンバーに声をかける。
その視線は油断なく周囲を巡り、三角の耳は微かな物音も聞き逃さないよう小刻みに動いている。
「ああ。接敵してからでは遅いからね」
エルセインが同意し、歩きながら解説を始めた。
――マッシュ・ボア。
その名の通り、背中や頭部に巨大なキノコを寄生、あるいは共生させている中型の猪型魔獣である。
ずんぐりとした体躯は通常の猪よりも一回り大きく、硬質な毛皮に覆われている。
猪といえば猪突猛進で獰猛なイメージが強いが、このマッシュ・ボアの性質は正反対だ。
極めて臆病で用心深い。
スフィアがギルドで仕入れた情報を付け加える。
「なんでも、危機感を抱くと胞子をまき散らして逃げようとするらしい。胞子は小さくて視認しづらい上に、空気に紛れて漂う。だんだん体内に蓄積されて、気が付けば強力な幻惑状態になるんだってよ」
幻惑状態に陥れば敵味方の区別がつかなくなるどころか、目の前の現実さえも歪んで認識してしまうという。
その胞子こそが、この魔獣を厄介な存在にしている最大の要因だった。
「厄介だね。気が付いたら幻惑されてるんだ」
ブルが不安そうに眉を寄せる。
力自慢の彼だが、目に見えない搦め手は苦手のようだ。
「ただし、対処法はいくつかある」
エルセインが指を立てて説明を引き継ぐ。
「まず、胞子であるがゆえに風や火に弱い。風魔法で吹き飛ばせるし、火魔法で簡単に燃やし尽くせる。広範囲に散布される前に焼き払うのが定石だね。あとはそうだな……」
エルセインは歩きながらスフィアの装備に視線を落とし、確信を込めて言った。
「予想だが、スフィア君には恐らく胞子は効かない」
「え、なんで?」
スフィアが歩みを止めずに振り返る。
「君のリヴァイアサンの鎧は、常に水の魔力が膜のように薄く身体の表面を覆っているだろう? 『浄化の加護』だ。微細な胞子が鎧や皮膚に付着しようとしても、常に循環する水の膜がそれを洗い流してしまうんだよ」
「めちゃめちゃピンポイントで効果ありますね……」
メリアが感心したように思わず声を出す。
水嫌いのスフィアのために水場での活動を補助し、水を弾くために作られた特注の鎧。
確かに『浄化の加護』はヒュドラの毒すら浄化する強力なものだが、胞子の付着を防ぐ防護服の役割も果たすとは。
「流石に偶発的なものだろう。相性勝ちというやつだね」
エルセインは微笑む。
世の中、何が幸いするか分からないものだ。
「姿を見かけたら、私も全員に『水の加護』をかけよう。短時間なら同様の効果が得られるはずだ。それで胞子は無効化できる」
「聞いていると楽勝な気がしてくるな……」
ラファエルが剣の柄に手を置きながら呟く。
宮廷魔術師長がいて、事前に情報を集めて対策も万全。
ただの臆病な魔獣相手なら遅れを取る要素が見当たらない。
「先陣は僕が切ろう! 勇猛さを見せる時だ!」
回復薬とどんぐりパンですっかり元気を取り戻したピエールが、意気揚々と剣を抜いて宣言する。
最後の冒険を華々しく飾りたいという意欲が全身から溢れ出ているようだ。
スフィアは肩をすくめる。
「人員も多いしな……あっさり終わるのも味気なくなっちまうが……まあ、食えりゃいいか」
苦戦したいわけではないが、あまりに手応えがないのも狩りとしては面白くない。
そんな贅沢な悩みを抱きつつ、一行は鬱蒼とした森の中を進んでいく。
湿度は高く、風はほとんどない。
胞子が滞留しやすい環境だ。
ふと、スフィアの耳に、ガサリという音が届いた。
何かが落ち葉を踏む音ではない。
もっと柔らかい、衣擦れのような音。
スフィアは立ち止まり、後ろを振り返った。
「メリア? どした?」
最後尾近くを歩いていたはずのメリアが、なぜか地面にしゃがみこんでいる。
彼女は湿った腐葉土に両手を突き刺し、一心不乱に何かを掘り返していた。
「……見てください、スフィアさん!」
メリアが顔を上げる。
その瞳は、かつてないほど爛々と輝き、頬は紅潮していた。
彼女は泥だらけになった両手を、宝物でも見せびらかすかのようにスフィアに突き出す。
手のひらに乗っているのは、ただの黒い泥と腐りかけた落ち葉の残骸。
「砂金です! こんなに! 見てください、この輝き!」
「……は?」
スフィアの思考が停止した。
砂金?
どこをどう見ても、それは泥だ。
輝きなど欠片もない、ただの湿った土塊だ。
「この山は金脈だったんですね! うひょー! これで一生遊んで暮らせますよ!」
メリアは泥を愛おしそうに頬擦りし、気色の悪い笑い声を上げ始めた。
普段の「金にがめついけれど常識人」という彼女の姿はそこにはない。
何かがおかしい。
「おい、メリア。お前何言って……」
スフィアが駆け寄ろうとした、その時だった。
「おお、あの背中のキノコは! これがマッシュ・ボアだな! 僕と勝負だ!」
前方から、ピエールの勇ましい叫び声が響いた。
スフィアが弾かれたように振り向くと、ピエールが剣を構え、道端にある苔むした巨岩に向かって戦意を滾らせていた。
「出たな魔獣め! その巨大なキノコごと両断してくれよう!」
「援護しますピエール様! 隙を作ります!」
ピエールの隣で、アレッタが短剣を構えて岩の側面に回り込もうとしている。
彼女の目もまた、焦点が合っていないように虚ろだ。
「……二人とも? 何を言ってるんだ? それは岩だぞ!」
ゼノが困惑しきった声で叫ぶが、二人の耳には届いていないらしい。
ピエールは「はぁっ!」と気合の声を上げて無抵抗の岩に剣を叩きつけた。
ガキン! という硬質な音が響き、火花が散る。
「くっ、流石に硬いな! だが負けんぞ!」
「ピエール様素敵です!」
「…………」
スフィアの背筋に、冷たいものが走った。
総毛立つような悪寒。
(胞子……!?)
いつの間にか、吸い込んでいたのだ。
視認できない微細な胞子が、この森の空気に満ちていたのだ。
そして、それは音もなく匂いもなく、彼らの精神を侵食していた。
「エルセイン!」
スフィアが叫ぶ。
事態を察知したエルセインの反応は速かった。
「『水の加護よ――アクアエンチャント』!」
エルセインが杖を掲げると、清涼な水飛沫のような光が弾け、周囲にいた全員の身体を包み込んだ。
薄い水の膜が皮膚や衣服の表面を覆い、付着していた見えない胞子を洗い流していく。
「スフィア君、無事なのは!?」
「俺は平気だ! 鎧のおかげだな!」
「私も大丈夫だ! 即座に自己浄化の術式も展開した!」
エルセインが杖を構え直す。
元々強い彼の魔力抵抗力と、即座の対応が功を奏したようだ。
「俺も大丈夫だと思う!」
ラファエルが剣を抜きながら答える。
王族として様々な毒や状態異常への耐性訓練を受けている彼も、正気を保っていた。
「僕も多分大丈夫!」
ブルが棍棒と斧を構える。
今のところ混乱の兆候はない。
彼も恐らく大丈夫だろう。
「プラス、ゼノってとこか……? 敵はどこにいる!?」
スフィアが周囲を見渡す。
胞子が漂っているということは、本体が近くにいるはずだ。
風のないこの森で、これほど濃い幻覚を見せる濃度を保つには至近距離にいなければならないだろう。
「範囲は大きくないはずだ! 目視できる距離のはず……」
エルセインが魔力探知を行い、視線を鋭く巡らせる。
「いたぞ、あそこだ!」
ラファエルが叫び、剣先で指し示した。
少し先の開けた場所。
木々の切れ間から差し込む一筋の陽光が、スポットライトのようにその場所を照らしている。
そこに、それはいた。
体長は二メートルほど。
丸々と太った身体は灰色の剛毛に覆われている。
そして何より目を引くのは、その背中に生えた巨大なキノコだ。
傘の直径は一メートルを超え、鮮やかな黄金色に輝いている。
陽光を浴びて神々しいまでにきらめくその姿は、まさに「王冠」の名にふさわしい威容を誇っていた。
「マッシュ・ボア……しかも王冠個体!」
スフィアが喉を鳴らす。
黄金のキノコ。
あれこそが、極上の美味とされる幻の食材だ。
「あれが獲物か……! いくぞブル! 逃がすなよ!」
スフィアは地面を蹴り、矢のように飛び出した。
幻惑に囚われた仲間たちを正気に戻すためにも、元凶を絶つしかない。
ブルもまた、地響きを立てて追随する――はずだった。
ガシャン。
背後で、重い金属音が響いた。
スフィアが驚いて振り返ると、ブルが両手の武器――手斧と棍棒を、地面に取り落としていた。
「……ブル?」
スフィアが足を止める。
ブルの様子がおかしい。
その大きな瞳は、マッシュ・ボアの方に釘付けになったまま、とろけるように潤んでいる。
頬は真っ赤に染まり、口元はだらしなく緩んでいた。
「な、な、な……」
ブルの口から、震える声が漏れる。
「なんて……」
「なんて?」
「なんて美人のお姉さんなんだ!!!!」
「お前も幻惑されとったんかいィ!!!」
スフィアの渾身のツッコミが森にこだまする。
多分だが、水の加護が間に合っていなかった。
混乱していなかったように見えたのは偶然のタイミングだったのか。
ブルの目には、あの灰色のずんぐりむっくりした猪が光り輝く絶世の牛獣人美女に見えているらしい。
「うおおおおおっ! 運命の出会いだ!」
ブルは武器を捨て、両手を広げて走り出した。
その速度は、戦闘時の突進力を凌駕している。
恐るべしスケベパワー。
「お姉さん! お名前教えてください! できればお友達になってください!!」
三メートルを超える巨躯のミノタウロスが漆黒の凶悪な鎧を着込んだまま、愛の言葉を叫びながら突っ込んでくる。
その迫力は暴走した地竜の如し。
対するマッシュ・ボアは。
「ピギィィィィィ!?」
悲鳴を上げた。
本気で怯えていた。
臆病な性格の魔獣にとって、自分より遥かに巨大で、しかも明らかに正気ではない目をした怪物が迫ってくる状況は恐怖以外の何物でもないだろう。
マッシュ・ボアは脱兎のごとく逃げ出した。
まあ猪なのだが。
短い足を必死に回転させ、なりふり構わず走り回る。
「待ってー! 怖がらないでー! 僕は怪しいものじゃなーい!」
「いや怪しいだろ」
スフィアのツッコミはブルには届かない。
「お茶でもどうですかー! ミルクもありますよー!」
「ピギィィィッ! フゴッ! フゴッ!」
マッシュ・ボアは必死に逃げるが、ブルの脚力もまた凄まじい。
開けた場所で二頭の獣による命がけの追いかけっこが始まった。
マッシュ・ボアが右へ曲がればブルも右へ、左へ切り返せばブルも左へ。
その場でぐるぐると円を描くように逃走劇が続く。
「……」
そのあまりにもシュールな光景に、スフィア、ラファエル、エルセイン、ゼノの四人は、武器を構えたまま立ち尽くしていた。
ラファエルが、ぽつりと呟く。
「そういえば臆病で攻撃性は低いんだったか?」
「あの巨体があの格好で、愛を叫びながら突進してくりゃ、そりゃあ怖いだろうな。魔獣だろうが人間だろうが関係ねえわ」
スフィアが遠い目で答える。
今のブルは、ある意味で最強の恐怖の対象だ。
「なんだか気が抜けてしまったな……」
エルセインが杖を下ろす。
緊迫した戦闘になるかと思いきや、まさかの一方通行ラブコメ展開。
しかも片方は幻惑の世界にいる。
「ピエール様たちを正気に戻したいんだが……」
「そういえば幻惑は治癒魔法の他に、強い魔力のショックでも目を覚ますんだったかな。やってみよう」
ゼノが呟き、エルセインが思い出すように言う。
すっかり戦闘の空気ではなくなってしまった。
スフィアが気を取り直し、混乱に乗じてマッシュ・ボアを狩ろうと剣を握り直した。
逃げ回る獲物の背後を取るのは容易い。
「ピエールが正気じゃねえのは残念だが、まあいい。さっさと仕留め……」
その時だった。
ゾワリ。
スフィアの首元の毛が、一斉に逆立った。
「スフィア?」
ラファエルが不思議そうに声をかけるが、スフィアは見向きもしない。
本能が警鐘を鳴らす。
チリチリとした不快な感覚が背筋を這い上がってくる。
「……!」
スフィアは動きを止め、鋭く周囲を見渡した。
(殺気……? マッシュ・ボアじゃねえ)
あの逃げ惑う豚に、こんな鋭利な殺気は出せない。
もっと獰猛な。
もっと冷酷な。
純粋な肉食の狩人が、こちらを――獲物として狙っている感覚。
風が、不自然に止まった。
「上!」
スフィアが叫ぶと同時に山道の上空から巨大な影が落ちてきた。
バサァッ!!
空気を叩きつけるような重い羽ばたきの音。
木々の枝葉が激しく揺れ、突風が巻き起こる。
「うわっ!」
突然の強風にゼノが身構える。
突風に煽られ、地面の土煙が舞い上がった。
「あれは……」
エルセインが目を細める。
土煙の向こうに現れたのは息を呑むほどに美しい、そして恐ろしい姿をした鳥。
翼を広げれば五メートルはあろうかという巨体。
その羽毛は、赤、青、緑、黄金と、見る角度によって色を変える極彩色に彩られている。
長く伸びた尾羽は孔雀のように優美だが、その先端はナイフのように鋭く尖っている。
そして何より、その瞳。
宝石のように美しい瞳には獲物を慈しむような、残忍な捕食者の色が宿っていた。
「なんだと……?」
ラファエルが呻く。
その魔獣が放つ魔力の質は、先ほどのマッシュ・ボアとは比較にならない。
明らかに格上の存在だ。
極彩色の羽根が、キラキラと光の粒子を撒き散らしながら周囲に舞う。
「おいおい、ここに生息してんのかよ……」
スフィアが剣を構え直し、油断なく相手を見据える。
彼には見覚えがあった。
いや、聞き覚えがあった。
『なんだよそれ! 材料違うとか反則だろ!』
『道理の知らんやつだネ。良い料理には良い素材が必要なのだヨ』
『あれはグラーノ氏の自腹で用意された品で、今回の料理勝負のために特別に取り寄せたものだそうです』
かつての料理勝負。
鶏肉対決で敵の貴族料理人グラーノが用意した、鳥の魔獣。
「極楽鳥!!」
美しくも凶暴な空の狩人。
それが今、彼らの目の前に降臨したのだった――。




