マーガレット商会での交渉
時間はほんの少しだけ巻き戻る。
王都近海のカジノ船でメリアが通信魔道具を使い、魔法国のピエール王子と交渉を行っている、まさにその時刻。
舞台は変わって、海の上に浮かぶ船が集まった巨大な人工島――商業連合。
富と情報と商品が集まるこの場所に『マーガレット商会』の本店である船と執務室はあった。
船の最上層にある執務室の窓からは眼下に広がる青い海と、行き交う無数の貿易船が一望できる。
だが、この部屋の主はその絶景に目をくれることなく、手元の書類と格闘していた。
「……次の商談で使う契約書はこれで。不備はないな」
サラサラと羊皮紙の上を走る羽ペンの音が止まる。
男は優雅な手つきでペンをペン立てに戻すと、ふぅ、と小さく息を吐きながら背もたれに身体を預けた。
「少し休憩にするか」
「お疲れ様です、オーナー」
控えていた部下がタイミングよく淹れたてのコーヒーを差し出す。
男――マーガレット商会のオーナーにしてメリアの実父であるロゼは、コーヒーの香りを楽しみながら眉間を揉み解した。
かつて『三大商会』の一角に数えられたグランディア商会の元オーナー。
その美貌は健在で、男装の麗人と見紛うほどの整った顔立ちと流れるような金髪は歳を重ねてなお衰えるどころか、円熟した色香を纏っている。
ただそこに座っているだけで絵画になるような、そんな男だ。
彼がコーヒーを一口啜り、大きく伸びをしたその時だった。
フォン、フォン、フォン……。
机の引き出しの奥から聞き慣れない音が響いた。
ロゼは一瞬きょとんとして、すぐにその音の出所に思い至る。
「ん? ……まさか」
彼は引き出しを開け、豪奢な装飾が施された通信用の魔道具を取り出した。
それは彼が妻であるマーガレットに渡した専用のホットラインだ。
「マーガレット用の通信魔道具? 珍しいな」
ロゼは眉をひそめる。
彼の妻である『女帝』マーガレットは、極めて筆まめな性格だ。
「やり取りするなら後に残せて、何度でも読み返せる手紙が良い」と言って、即時性のある通信魔道具よりも情緒のある手紙での連絡を好む。
実際、この魔道具が鳴ったことは数えるほどしかない。
「となれば余程の緊急事態か、あるいは……」
ロゼはすぐさま通信を繋ぐ。
彼の口元には愛しい妻への甘い微笑みが浮かんでいる。
「どうしたマーガレット。寂しくなって俺の声でも聴きたくなったか? 愛してるぞ」
軽口と共に愛を囁く。
しかし返ってきたのは冷ややかで、かつ切迫した妻の声だった。
『茶化すな。まあ、声が聞けたのは嬉しいが……本題はそこではない』
「……む?」
ロゼの表情からふざけた色が消える。
長年連れ添った夫婦だ。
声のトーンひとつで相手の真剣度はわかる。
今のマーガレットは冗談を言っている雰囲気ではない。
『単刀直入に言う。今、私はレナック王国の王都近海のカジノ船にいるんだがな。……未知の竜が王都近郊に出現した』
「……なに?」
ロゼの目が細められる。
マーガレットは長命種であるハーフエルフであり、人間よりも遥かに長く生きている。
その知識量は凄まじく、魔獣に関する知識で彼女の右に出る者はいないだろう。
その彼女が『未知』と言う。
それは、ただ事ではない。
「どういう竜だ? お前の知識にない新種か?」
『わからん。だが、冒険者ギルドが特級指定災害魔獣に認定したという緊急入電が入った。……あの魔力の質量、そして禍々しさ。相当な厄ネタだ』
通信越しのマーガレットの声がわずかに沈む。
『私一人では手に余るレベルだろう』
「……それはまた」
ロゼは絶句した。
妻の強さは夫である彼が誰よりもよく知っている。
単身で地形を破壊し、高位の魔獣など指先一つで消し炭にする規格外の魔女。
その彼女が「手に余る」と弱音に近い評価を下す相手。
事態の深刻さが、その一言だけで痛いほど伝わってきた。
ロゼは瞬時に商人の顔になる。
頭の中で情報を整理し、最適解を探る。
「それで、なんで俺に連絡をよこした? お前が手に余るってんなら、討伐してその素材をこっちに卸すって話じゃないな?」
勝てるかわからない、あるいは負ける可能性が高い相手の素材など皮算用以前の問題だ。
マーガレットがそんな無意味な話をするはずがない。
ならば要求は別にある。
『うむ。実はな、諸事情あってこっちにメリアがいるんだが……』
「なに? メリアもそっちにいるのか?」
ロゼが驚く。
娘のメリアは今頃、以前会った仲間連中とどこかの街で地道に商売と冒険をしていると思っていたのだが、まさか母親と合流していたとは。
『ああ。それでそのメリアがな、竜を倒すと言い出した。ついては商会の資金で商業連合の傭兵団をできるだけ雇い入れて、援軍として送ってくれと頼まれた』
「……はぁ?」
ロゼは呆れ果てた声を出し、そして鼻で笑った。
「メリアに伝えろ。『ふざけんな』ってな」
『……ふむ』
「なんでマーガレットでさえどうにかできるかわかんねーもんの皮算用で商会の大事な資金を動かさなきゃなんねーんだよ。しかも傭兵団の雇い入れだと? どんだけ金掛けさせるつもりだよ」
ロゼは机を指先で叩きながら、まくし立てる。
「頼みごとをするんなら、もっと明確なメリットを提示しろってんだ。親子の情で商売ができるか。商人舐めんな」
当然の反応だ。
ロゼは娘を愛しているが、それ以上に冷徹な商人である。
商会は彼一人のものではなく多くの従業員と顧客の生活を背負っている。
勝算の薄い博打に、娘の頼みだからという理由だけで公私混同してのめり込むわけにはいかない。
いくら貴重な素材が手に入るかもしれないと言っても所詮は捕らぬ狸の皮算用。
そんな空手形で動くほど、この男は甘くない。
『まあ、そう言うと思ったよ』
マーガレットは予想通りといった風に呟く。
そして少し言いにくそうに、しかし爆弾となる言葉を投下した。
『で、それなんだがな……。メリアは今、魔法国メギストスの次期国王であるピエール王子と通信をしている』
「…………は?」
ロゼの思考が一瞬停止した。
「ピエール王子と? ……なんで?」
魔法国メギストス。
魔法技術と軍事力において最強の一角を占める大国だ。
その次期国王と、一介の冒険者である娘が通信している?
意味が分からない。
『わからん……。だが、どうやら友誼を結んでいるらしい。今、ピエール王子から防御兵器と……なにやら乗り物を借り受ける相談がまとまったようだ』
「メギストスの兵器を借りただと!?」
ロゼが椅子から立ち上がる。
話の次元が変わった。
「おい待て、それは本当か? 魔法国が軍事介入するということか?」
『いや、あくまで王子個人の私物としての貸与らしいが……実質的な支援には違いない。王子の直属が動くようだぞ』
ロゼの脳内で高速の算盤が弾かれる音がした。
メリアたちとマーガレットだけで竜を狩るというなら、それは無謀な賭けだ。
だが、そこに魔法国メギストスの協力、それも王族直々の支援があるとなれば話は劇的に変わる。
まず勝率が跳ね上がる。
そして何より政治的・商業的な意味が生まれる。
(魔法国の次期国王が支援するパーティ……。そこからの救援要請を、実家である我が商会が断ったとなればどうなる?)
「金が惜しくて娘と王子を見捨てた商会」というレッテルは、今後の魔法国進出において致命的な足枷となるだろう。
逆に、ここで全力を挙げて支援して共に竜を討伐したとなれば――。
『さらに、だ』
マーガレットが追い打ちをかける。
『メリアが言っていたんだが、今回商会の支援をくれるなら魔法国メギストスの王族たるピエール王子に、うちの商会を売り込むことも考える、と……』
「……!」
『上手くやれば、王室御用達商人に食い込めるんじゃないかな、と言っていたが……どうだ?』
ロゼは天井を仰いだ。
そして口元を手で覆い、肩を震わせた。
(……あいつ、やりやがった)
何もかも愛娘の手のひらの上だ。
こちらの断り文句を想定して絶対に断れない、いや、断れば損をするという状況を作り上げてから交渉を持ち掛けてきた。
魔法国メギストスの王室御用達商人。
それは商人にとって喉から手が出るほど欲しい「最強の看板」だ。
そのパイプを作れるチャンスが目の前にぶら下げられている。
しかも娘の手によって。
「……気に食わねえ」
ロゼは低く唸る。
「何もかも愛娘の手のひらの上ってのは、父親として非常に気に食わねえ」
だが。
「……いいぜ。そのプラン、乗ってやらあ」
ロゼはニヤリと、凶悪なまでに美しい笑みを浮かべた。
彼は商人だ。
一時の感情で判断を誤らない。
父親としてのプライドや感情論で目の前の莫大な利益を逃すような真似はしない。
利益と不利益、その天秤が傾いたのなら全速力で走るのが彼の流儀だ。
商人の勘が告げている。
ここは「全賭け」だと。
中途半端な支援では意味がない。
恩を売るなら相手が引くほど徹底的に売る。
そして、勝つ。
勝たなければ全てが水泡に帰す。
どうせやるなら持てる手札を全て晒して勝負に出る。
それは奇しくも、カジノ船でメリアが下した判断と全く同じ思考だった。
やはり、この父にしてこの娘ありである。
ロゼは通信機を手に持ったまま、控えていた部下に向かって怒鳴った。
「おい! 総員配置につけ! 緊急業務だ!」
「は、はい! オーナー、何を!?」
部下が慌てて背筋を伸ばす。
「金庫を開けろ! 底まで攫え! うちの商会の流動資産、いや、すぐに動かせる金なら予備費も含めて全部だ!」
「ぜ、全部ですか!?」
「おうよ! その金で商業連合にいる傭兵団を片っ端から雇い入れろ! 『竜狩り』だ! 報酬は言い値でいい! その代わり今すぐ出せる最高の船と最強の装備を持って集まらせろ!」
ロゼの目は血走っていた。
常軌を逸した命令に部下が青ざめる。
「し、しかしオーナー! 失敗したら商会が傾きます!」
「知ったことか! 負けた時のことは考えねえ! こういう時は全部突っ込んで勝率を1%でも上げるべきってもんだ!!」
未知の竜素材の大部分は、あっちにマーガレットとメリアがいる以上は間違いなくうちに卸される。
魔法国上層部とのパイプも手に入る。
リターンは莫大だ。
ならばリスクも莫大でなければ釣り合わない。
「今ある資金を全部注ぎ込む! 注ぎ込んで、最強の戦力を送り込んで、意地でも勝ってもらう! できなきゃ俺たちは破滅するだけさ! シンプルでいいじゃねえか!」
ロゼは高らかに笑う。
その姿は冷徹な商人から、一世一代の大勝負に挑むギャンブラーへと変貌していた。
以前スフィアは「商売と賭博って関係ねえよな?」と言っていたが、本当に関係ないのだろうか。
突き詰めると両者は実は似ているのかもしれない。
「マーガレット商会万歳だ! この大波、ここで乗れなきゃ男じゃねえ! 行けぇッ!!」
「は、はいぃぃッ!!」
部下が転がるようにして部屋を飛び出していく。
執務室にロゼの荒い息遣いと、通信機からのノイズだけが残る。
これで交渉成立だ。
あとは結果を待つのみ。
そう思って通信を切ろうとした、その時。
『……ああ。そうだ、思い出した』
マーガレットの声色が、ふと変わった。
先ほどまでの真剣な、あるいは楽しげなものではない。
地獄の底から響くようなドスの利いた低い声。
「え、なに? どうしたマーガレット」
ロゼの背筋が凍り付く。
本能的な恐怖。
「未知の竜」の話を聞いた時よりも遥かに強い、生命の危機を感じる。
『マーガレット商会、という名のことだ』
「…………」
『いい加減、問い詰めねばと思っていたところだ。私の名を勝手に冠したそのふざけた商会名について、な』
グランディア商会崩壊後、ロゼが立ち上げた新興商会。
その名は愛する妻の名前をそのまま使った『マーガレット商会』。
愛妻家といえば聞こえはいいが妻の許可は取っていない。
そして妻は自分の名前がデカデカと看板になっていることを快く思っていない。
恥ずかしがっているとも言うが。
その件について、ロゼは報いを受ける時が来た。
『この一件が終わったら、そっちに行くので話し合おうか。……膝を突き合わせて、色々となァ……』
「あ、いや、それはその、愛ゆえの……」
『逃げるなよ? 逃げれば殺す』
プツン。
通信魔道具の光が消えた。
一方的に、慈悲なく切断された。
「…………」
ロゼは光の消えた通信魔道具をじっと見つめていた。
静寂が部屋を支配する。
通信越しとはいえ、物凄い殺気に思わず戻ってきた部下が恐る恐る声をかける。
「オーナー……? 傭兵団の手配、進めておりますが……」
ロゼはゆっくりと顔を上げた。
その表情は覚悟を決めた男の顔だ。
「……おい」
「はい」
「傭兵雇い入れる時でいいから、ついでに最高級のワインを仕入れといてくれ」
「ワイン、ですか? 戦勝祝い用で?」
「違う」
ロゼは真剣な目をして言った。
「マーガレットに平謝りする時に贈る、貢物だ」
部下は察した。
このオーナー、また奥様に怒られるようなことをしたな、と。
「……それだけでいいんですか? 逃げる準備とか、シェルターの手配とかは?」
「何言ってんだ」
ロゼは自嘲気味に笑う。
「愛する妻が戻ってくるのに出迎えねえ夫がどこにいる? 真正面から謝るさ」
ロゼは立ち上がり、頭をボリボリと掻く。
この程度はマーガレットを嫁にしたときに既に覚悟済みだ、なんてことはない。
「やれやれ、今回は半殺しで済みゃいいが」
「……ご武運を」
「ほら、早く行ってこい! 金をばら撒いてこい!」
「りょ、了解しました!」
部下は敬礼し、再び廊下へと走る。
走りながら、彼は小さく呟いた。
「あの夫婦、すげえな……」
最強の嫁との命がけの夫婦漫才。
そしてそれを当然のように受け入れる度量。
そのスケールと覚悟の大きさに、ただただ呆れるしかなかった。
こうして商業連合最強の傭兵団と、魔法国の技術の粋を集めた馬車が動き出す。
あとは開演の合図を待つばかりだ――。
どんどん繋がっていく。




