大方針確定とオールイン
時間は少しだけ巻き戻る。
王都方面から放たれた漆黒の輝きが夕陽の残滓を飲み込み、世界を夜の帳よりも深い闇で塗り潰した直後のこと。
カジノ客船『クレセント号』の甲板は先ほどまでの祝祭的な空気から一転、凍り付いたような静寂と戦慄に支配されていた。
波の音さえも遠慮するかのように静まり返り、ただ王都近郊の大地に佇む「絶望」だけが圧倒的な存在感を放っている。
「いったい……何が起こっているんだ……?」
船長が帽子を握りしめ、呆然と呟いた。
その視線の先には王城にも匹敵する巨躯を持つ黒竜。
距離にして数キロは離れているはずの洋上にまで、その禍々しいプレッシャーは肌を刺すように届いている。
直前に冒険者ギルドから入った緊急入電。
『王都近郊に正体不明の特級指定災害魔獣が出現』
『第一位冒険者マーガレット、準二位冒険者スフィア、第三位冒険者ブルズウルグス。以上三名は至急王都へ向かい、謎の黒竜討伐に尽力されたし』
その内容は理解できた。
だが、事態のスケールが常識を逸脱しすぎている。
『特級指定災害魔獣』それは国家存亡の危機と同義だ。
この場の誰一人として黒竜が伝説の『邪神竜ヴァルノス』であるとは知る由もない。
ただひとつ確かなことは、あれが「人知を超えた何か」であるという事実のみ。
「ひっ……」
「あんなの、勝てるわけがない……」
乗客たちが震え上がり船員たちも動揺を隠せない。
海賊を撃退した安堵感など、黒い翼の一振りで吹き飛んでしまった。
そんな絶望的な空気の中、甲板の手すりに寄りかかって優雅に佇む女性が一人。
『女帝』マーガレットだ。
彼女は瞳を細め、遠くの黒竜を品定めするように見つめている。
(凄まじい威圧感だ。並の竜ではないな)
マーガレットの感性が、あの竜の危険性を正確に計測する。
生物としての格が違う。
ただそこに在るだけで周囲を恐怖させ、支配下におく王の如き振る舞い。
(あれとやるとなれば、骨が折れるどころの話ではないな。地形が変わるぞ)
マーガレットは小さく溜息をついた。
興味はある。
魔術師として、あのような超越的存在の解明には知的好奇心が疼く。
だが、それ以上に「面倒くさい」という感情が勝っていた。
せっかく久々に愛娘と再会し、海賊も片付けて一息ついたところなのだ。
あんな泥沼になりそうな災害に関わるのは御免である。
「やれやれ。王都の騎士団と宮廷魔術師たちが総出で当たれば、追い払うくらいはできるか……? 正直、高みの見物と洒落込みたいところだが……」
ギルドからの強制招集が出ている以上、無視を決め込むと後がうるさい。
どうしたものか、と彼女が思考を巡らせていた時。
隣で同じく海を眺めていた銀髪の少女、メリアが嫌な予感に眉をひそめた。
「……」
メリアの視線は黒竜ではなく、そのさらに手前に向けられている。
そこには手すりに身を乗り出し、食い入るように黒竜を見つめる猫獣人の姿があった。
スフィアだ。
彼の瞳孔は極限まで開き、瞬きすら忘れて黒い影を凝視している。
その表情は恐怖か、驚愕か。
いや、違う。
その口元から、一筋のよだれが垂れているのを見て、メリアは確信した。
(あ、これダメなやつだ)
次の瞬間、スフィアの口から漏れた言葉は、この場の誰の予想をも裏切るものだった。
「食いてえ……」
「……は?」
周囲の船員たちが我が耳を疑って振り返る。
今、この猫は何と言った?
怖い?
逃げたい?
いいや、確かに「食いたい」と言った。
スフィアは恍惚とした表情で、喉を鳴らす。
「間違いない。あのオーラ、あの威圧感……。今まで食ったどんな魔獣よりも上だ。あんなの、絶対に極上の味がするに決まってる……!」
彼の脳内では、既に黒竜は災害ではなく食材として認識されていた。
黒い鱗を剥いだ下の肉はどんな色だろうか。
焼けばどんな香りがするだろうか。
刺身でいけるか、ステーキか、それとも煮込みか。
想像するだけで胃袋が暴れ出しそうだ。
その狂気的な食欲に、流石のマーガレットも呆れ果てた声を出す。
「待て、猫の。お前……正気か? まさかあれを食う気なのか? あの凄まじい気配を感じただろう? あれは生物というより災害そのものだぞ」
「だからだよ! メリアの母ちゃん!」
スフィアがバッと振り返り、力説する。
その目は血走っており、野生の捕食者の如き輝きを放っている。
「竜ってのはな、格が高ければ高いほど美味いんだ! あの超凄い竜なら、きっと信じられねえくらい美味いぜ! 頬っぺたが落ちるどころか昇天しちまうかもしれねえ!」
食べることしか頭にない。
恐怖心など、食欲の前ではスパイスにもならないのか。
マーガレットが助けを求めるように娘を見る。
「おいメリア。こいつの思考回路はいったいどうなっているんだ? 私も長く生きてきたが、これほどの変人は初めて見るぞ。さすがの私も正気とは思えん」
だが、メリアは諦観の混じった苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「あはは……まあ、こうなるだろうなーとは思ってたんだよねえ……」
「予測済みだと?」
「うん。以前、温泉街イドラに行った時もそうだったの。竜が出たって聞いたら普通は逃げるか対策を練るでしょ? でもスフィアさん、即座に『竜肉パーティだ!』って突っ込んでいったから」
「……まことかぁ」
マーガレットは額に手を当てる。
「なかなかイカレているな」
長く生き、様々な魔術師や研究者など相応にイカレている連中を数多く見てきて、何より当人もそれなりにイカレていると自覚しているマーガレットがそう言うのだ。
スフィアの食欲は、そんな彼女が呆れるほどヤバい。
「やれやれ。おい、牛の」
マーガレットが、もう一人の仲間である牛獣人に水を向ける。
漆黒の鎧を纏った巨漢、ブル。
彼はスフィアのように涎を垂らしてはいない。
仁王立ちで黒竜を睨みつけ、その拳をギリギリと握りしめている。
全身が小刻みに震えているのは武者震いか、あるいは義憤か。
「お前は止めなくていいのか。あのバカ猫が自殺行為に走ろうとしているぞ」
「……許せない」
ブルが低く、地を這うような声で唸る。
「ほう? 王都を攻撃し、民を脅かすあの竜が許せんと?」
マーガレットが感心しかけた、その時。
ブルが顔を上げて涙目で絶叫した。
「王都には! 港には!! 僕の楽園があるんだぞおおおおおお!!!」
「……あ?」
「さっきの踊り子さんが言ってたんだ! 王都の港近くのパブに出向してるって! 『♡ホルスタウロスパブ・ミルクホール♡』は!! 僕が守る!! 絶対に守るんだあああああ!!!」
彼の背後に灼熱の炎が見えるようだった。
それは正義の炎ではない。
煩悩と執念の、ドス黒くも純粋な欲望の炎だ。
楽しみにしていたパブを破壊されかねないという危機感が、温厚な牛獣人を修羅へと変えた。
「アホ一名追加か……」
マーガレットは深く、深く溜息をついた。
頭痛がしてくるような気さえもする。
そんなカオスな状況下でメリアの頭脳は冷静に、かつ高速で回転していた。
(……止められない)
彼女の計算が出した答えはシンプルだった。
おそらく、この二人のやる気を止めるのは不可能だ。
スフィアは目の前の極上肉を諦めないし、ブルは自身の楽園を守るためなら命も惜しまないだろう。
どう説得しても、二人はあの竜に突っ込んでいく。
(なら、中途半端にブレーキをかけるのは悪手。むしろさらに勢いをブーストさせて、あの竜を確実に『狩れる』ようにアシストした方が、生存率は上がる)
普段のメリアなら、もう少しリスク計算をするはずだ。
だが、今の彼女は少し違っていた。
先ほど、海賊三人リンチ大会の際にマーガレットがばら撒いた『微弱な興奮毒』。
その後遺症とも言える高揚感がメリアの脳内ブレーキを甘くさせていた。
加えて、目の前にある「利益」の皮算用が止まらない。
(あの格の竜……素材としての価値は計り知れない。鱗一枚で相当な利益。もし倒せれば、その素材は討伐者である私たちのもの。スフィアさんは肉さえあればいいし、ブルさんはお店が無事ならそれでいい。つまり……素材の売却益は、ほぼ私の総取り!?)
チャリーン。
メリアの瞳の奥で金貨の音が鳴り響いた。
安全よりも利益。
ハイリスク・ハイリターンの大博打。
なあに、負けたら死ぬだけさ!
(やろう。持ち得る手札全てでオールイン!)
メリアは覚悟を決め、ニッコリと笑ってマーガレットに向き直った。
幸い、ここには最強のジョーカーがいる。
上手くやる気を引き出せば力を貸してくれる公算は高い。
「お母さん」
「なんだ。付き合ってられん。私は乗らんぞ。あんなわけのわからん化け物を相手にするような行為に加担する気はない。英雄的行為にも興味が無い」
マーガレットはにべもなく断る。
当然だ。
何のメリットもない。
だがメリアは怯まない。
メリアは小首をかしげ、上目遣いで甘えるような猫撫で声を出した。
「え~? でもぉ……私、お母さんのかっこいいところ、もっと見たいなぁ~?」
「……」
「あの竜は海賊よりずっと強いでしょ? 私、世界一強いお母さんが、あの竜を倒すの手伝ってくれたら一生の自慢にするんだけどなぁ……」
マーガレットはわざとらしく咳払いをした。
「と、思ったが……まあ、そう言われてしまっては……仕方がないな」
「えっ、いいの!?」
「愛娘の願いとあらば、無碍にするわけにもいかんだろう。まったく、人使いの荒い娘だ」
マーガレットは髪をかき上げ、不敵な笑みを浮かべる。
「いいだろう。少しばかり手を貸してやる。あの程度のトカゲ、躾けてやるのも一興よな」
周囲の人間は思った。
(変わり身早っ!!)
さっきまでの興味ないという態度はどこへ行ったのか。
愛娘の一言で世界最強の女帝が動く。
「やった! ありがとうお母さん!」
メリアが無邪気に喜ぶ。
これで最強の手札は手に入った。
だが、マーガレットは冷静に戦力分析を始める。
「しかしだ、メリア。手を貸すにしても流石に戦力が足りんぞ」
マーガレットが黒竜を指し示す。
「あれは単独で国を落とせるレベルだ。今は見えんが、あの格なら取り巻きを呼ぶ可能性もある。私とお前たち三人で挑んでも勝てる保証はない。どうするつもりだ?」
確かに、スフィアとブルは個の戦闘力は高いが、あの巨体を相手にするには手数が足りない。
囮となる軍勢など隙を作るサポートが必要だ。
王国軍は既に動いているだろうが、連携が取れるかわからない。
「ふふん。大丈夫だよ。ちゃーんと考えてあるから」
メリアは自信ありげに胸を張る。
「友達の手を借りようかなって」
そう言って、彼女は懐から一つの魔道具を取り出した。
それは青い宝石のように美しくカットされた、高価な通信用魔道具。
内部には複雑な魔法陣が刻まれており、特定の相手とのみ通話が可能となっている特注品だ。
「通信魔道具? 誰とのだ? ギルドか?」
マーガレットが怪訝そうに尋ねる。
「ううん。もっと偉い人」
メリアは悪戯っぽく笑う。
「お母さんって、魔法国のピエール王子って知ってる?」
「は? そりゃ知っているが……」
マーガレットの眉が跳ね上がる。
ピエール・アルファトリス・メギストス。
魔法国の第一王子でありながら、奇抜な言動と放蕩ぶりで知られる変わり者。
「どこぞに武者修行に出ていた放蕩王子だろう? 最近、父親である国王の容態を聞いて城に戻ったとは聞いているが……」
「うん。そのピエール王子との、直通連絡用魔道具」
「は? 直通……?」
マーガレットが目を見開く。
一国の王子、それも次期国王候補とのホットラインを持っている?
ただの冒険者である娘が?
なんで?
「なんでそんなものを持っているんだ……?」
「まあ、色々あってね。お友達になったの」
メリアはあっけらかんと言うと魔道具に込められた魔力を動かし、起動させる。
先日、温泉街イドラで渡された連絡手段。
『僕の専用通信機に直通になってる。そっちも何かあったらすぐに呼んでくれ。絶対に力になる』
それは絶望を覆すための最強のカード。
メリアは躊躇なく、そのカードを切った。
海賊との戦いは終わったが、ここからが本番。
このカジノ船で、メリアはここまで積み上げた手札を全てオールインし、最強の竜に挑む――!
ここで繋がる。




