邪神竜の復活
レナック王国の王都近郊。
その場所は突如として危険地帯と化した。
王都近郊に立つ巨大な漆黒。
それは建造物ではなく、ただ一匹の竜であった。
王城にも匹敵する巨躯を持つ『邪神竜ヴァルノス』。
その出現は平穏な夕刻を絶望の色に染め上げた。
「なんだあれは……? ドラゴン?」
「いきなり出てきたぞ!」
「王都を壊しに来たのか!? 逃げろ!」
「騎士団は何をやってるんだ!」
市民たちはパニックに陥り逃げ惑う。
あまりの恐怖に足が竦み、その場にへたり込む者も少なくない。
その圧倒的な質量と禍々しいオーラは生物としての格の違いを無慈悲に突きつけていた。
王城のバルコニー。
国王は手すりを強く握りしめ天を仰いだ。
「ああ。間に合わなんだか……」
国王の声は震えていた。
ラファエルたちの奮闘も虚しく、最悪のシナリオが現実のものとなってしまった。
「邪神竜ヴァルノス……! まさか、これほどまでの威圧感とは……」
伝承にある姿よりも遥かに強大で、そして邪悪だ。
見ているだけで魂が削られるような錯覚に陥る。
王都近郊に現れたヴァルノスは、ゆっくりと己の身体を見下ろした。
黒曜石のように輝く鱗、鋼鉄をも引き裂く爪、そして世界を蹂躙するためにある強靭な翼。
『久々の空気は……実に美味い。三百年ぶりだ』
重低音の声が聞こえる。
それは物理的な音波ではなく、魔力を介して直接生物の脳内に響く念話。
それが王都の人間全員に届く。
『手も。足も。自在に動く』
ヴァルノスは手を握り、開き、その感触を確かめる。
封印されていた長い年月、意識だけの存在として闇の中を漂っていた苦痛が嘘のようだ。
『これが自由か!! 実に素晴らしいぞ!!』
ただ歓喜に叫ぶだけで凄まじい魔力の波動が迸る。
衝撃波となって周囲の建物の窓ガラスが砕け散り、街路樹がなぎ倒される。
『ははははは!! ディオスよ、よくやった!! これで我は自由だ!! もはや我に恐れるものは無い!!』
ヴァルノスは高らかに笑う。
邪魔な勇者も、忌々しい聖剣も、今の彼を止められまい。
『まずはこの地を支配し、愚かな人間どもを……うん?』
ヴァルノスの視線が足元に向けられる。
そこには蟻のように小さな人間たちが集まり、何やら騒いでいた。
ミザリー商会跡地。
地上に戻ったラファエルとエルセインが必死に騎士団を指揮している。
「怯むな! 陣形を取れ! 王都を、民を守るために!」
ラファエルが剣を抜き、声を張り上げる。
その姿には王族としての矜持と決して諦めない不屈の闘志がある。
「強化の加護をありったけ掛けるんだ! 奴に魔法は通じない! 鱗が完全魔法耐性を備えている!」
エルセインもまた、杖を振るいながら指示を飛ばす。
「どれほど強力な魔法も効かない! ならば剣を、槍を、弓を強化しろ! 物理で殴るしかないんだ!」
「「「おおおおおッ!!」」」
二人の声に呼応して騎士や魔術師たちが動く。
恐怖を押し殺し、それぞれの役割を果たそうとする。
それを見たヴァルノスは嘲笑うように鼻を鳴らした。
『勇者ラファエルとエルセインか……面白い。少しからかってやるとするか』
猫が鼠を甚振るように。
圧倒的強者の余裕を持ってヴァルノスは彼らに語り掛けた。
『随分と頑張っているようだなァ、勇者ラファエル。そしてエルセイン』
ドクンッ。
頭に響く声にラファエルは思わず頭を押さえる。
脳を直接掻き回されるような不快感。
「この声は……!」
「邪神竜ヴァルノスの念話だ。心に直接語り掛けているんだ……!」
エルセインもまた頭を押さえ、ヴァルノスは二人の様子を嘲笑いながら言葉を続けた。
『何やら兵を指揮して我とやりあおうとしているようだが、本気か? 蟻が巨象に挑むようなものだぞ?』
「当然だ! お前を野放しにするわけにはいかない……!」
ラファエルは空を睨みつける。
『ほう、それはまた何故だ? 我はまだ何もしていないぞ?』
「決まっている。お前は人の命を弄び、玩具として扱う……! お前を野放しにすれば多くの人が悲しむ。それを止めるためだ……!」
ラファエルの声には迷いがない。
王族として、人として、この邪悪を許容することはできない。
『ククク……正義感か。美しいものだ。……ならば、我がここを退くと言えば?』
「何……?」
思わぬ提案にラファエルが訝しげに眉をひそめる。
退く?
本当に?
『我とて愚かではない。お前の指揮する一軍とやりあえば、我とて無傷では済むまい。ならばここは我が譲歩しようと言っているのだ』
「譲歩だと……?」
あの傲慢な竜が?
あり得ない。
罠だ。
頭ではそうわかっている。
だが、ヴァルノスの声には不思議な説得力を感じる。
『そうだ。我はお前の勇気に感服した。この世の全てをお前に譲ろう。勇者ラファエル』
甘く、とろけるような声。
心の隙間にスルスルと入り込んでくる。
「この世の全てを……?」
『そうだ。お前の勇気、知恵、武力。その全てはこの世の王になるに相応しいと我は考える』
ヴァルノスの言葉がラファエルの深層心理にある欲望や劣等感を刺激する。
運命に、勇者に選ばれなかった自分。
もっと力が欲しい、認められたいという渇望。
『お前こそ、この世を統べるに相応しい。我はそんなお前を補佐しようではないか』
「俺が、この世の王……」
ラファエルの瞳が次第にうつろになっていく。
彼自身は、そんな己の状態に気付くことはない。
『その通りだ。この世の全てを手に入れるための大戦。その戦いに勝てるように手を回し、お前の偉大さを世界全土に知らしめてやる。どうだ? 悪い話ではあるまい?』
ラファエルの中でヴァルノスに対する認識が歪み始める。
こいつは本当に恐ろしく凶悪なのだろうか?
俺のことを一番理解してくれているのではないか?
こいつは俺の味方なのではないか?
こいつの力を借りれば、俺はもっと偉大になれるのではないか?
(そうだ……こいつとなら……)
剣を下ろしそうになった、その時。
「ラファエル!!」
バヂッ!!
鋭い声と共に、肩に衝撃が走った。
エルセインがラファエルの肩を掴み、強引に魔力を流し込んだのだ。
清浄な魔力が体内を巡り、頭の中に巣食っていた靄を吹き飛ばす。
「はっ……!?」
ラファエルの目に光が戻る。
「今のは……」
「ヴァルノスの精神汚染だ。奴は念話越しに相手の精神を支配し、いいように操る力を持つ。まともに耳を傾けるな!」
エルセインが厳しい表情で告げる。
「なるほど……」
ラファエルは冷や汗を流す。
危なかった。
あと少しで、自ら剣を捨てて奴の軍門に下るところだった。
同時にヴァルノスに操られた者たちの気持ちが理解できた。
あの甘美な声、甘美な誘惑。
自分の心の弱さを的確に突き、望む言葉を囁く。
何故こんな奴に従うのか疑問だったが――今それを身を以て知った。
言葉によって人を破滅させる邪神竜ヴァルノス。
その本質は力ではなく、この狡猾さにあるのだ。
『ふふん。我が精神支配を拒むか。愚かな……』
ヴァルノスがつまらなそうに呟くが、エルセインが挑発的に言い返す。
「本気で惑わそうとしたわけじゃないだろう? 本気なら私を自由にしていたはずがない」
もしヴァルノスが本気でラファエルを傀儡にするつもりなら、邪魔なエルセインを真っ先に精神破壊していただろう。
それをしなかったのは、あくまで「遊び」だからだ。
『ククク、バレたか。そのまま掛かりが良ければお前を勇者に斬らせるのも一興かと思ったがな。思ったより掛かりが弱かった。高潔な精神を持っているな、つまらん』
ヴァルノスは興醒めしたように吐き捨てる。
おもちゃが壊れなかったことに不満げだ。
その時、後方からどよめきが起こった。
「ラファエル!」
「父上!?」
ラファエルが振り返ると、そこには国王の姿があった。
城に残っていた近衛兵や王都中の冒険者たちを引き連れ、自ら剣を帯びて駆けつけたのだ。
「何故ここに!! 父上は城で指揮を……」
「お前だけを置いて城にいるわけにはいかんだろう! この国の王として、そして父として、共に戦う!」
「いけません父上! 安全なところに……」
「この王都に今、安全なところなどあるまい!」
国王が一喝する。
「邪神竜を倒さねばこの国は終わりだ! ならばすべての兵力を持って打倒するのみ! 皆の者、怯むな! 王家が先陣を切るぞ!」
「「「おおおおおッ!!」」」
王の登場により、兵士たちの士気が跳ね上がる。
恐怖が勇気に変わる。
『役者は揃ったようだなァ?』
ヴァルノスが楽しげに笑う。
国王の援軍はしかし、彼にとっては数が増えたところで蟻が増えた程度にしか感じない。
むしろ、まとめて踏み潰せるぶん好都合ですらある。
『では始めるか。勇敢な国王と王子の率いる王国軍と、神に近しい力を持つ竜。このヴァルノスの戦いをな!!』
「撃てぇぇぇッ!!」
ラファエルの号令と共に無数の矢と魔法が空へと放たれる。
火球、氷槍、雷撃。
王国軍の総力が込められた攻撃の雨がヴァルノスへと殺到する。
魔法は効かずとも、せめて牽制になれば。
だが。
キンッ、キンッ、カンッ!
硬質な音が響くだけだった。
矢は鱗に弾かれ、魔法は触れた瞬間に霧散する。
ダメージは、無い。
『くだらぬ』
ヴァルノスが鼻を鳴らす。
そして、太い尻尾を無造作に振るう。
ただそれだけの動作が暴風となって地上を襲う。
「防御ォォォッ!!」
エルセインが叫び、全魔術師が展開した多重魔力障壁で受け止める。
バリバリバリバリッ!!
「ぐああああッ!?」
「ま、魔力が……持ってかれる……!」
衝撃と共に障壁を維持する魔術師たちが次々と膝をつく。
たった一撃。
物理的な尻尾の一振りを受け止めただけで、彼らの魔力は底をつきかけていた。
「魔法攻撃は魔法完全耐性の鱗の前に意味はなく、物理攻撃も通じない……! どうすればいいんだ!」
ラファエルが歯噛みする。
『弱い。弱すぎる』
ヴァルノスが口を大きく開ける。
その奥で、どす黒い光が収束していく。
竜の吐息――破壊のブレスだ。
「来るぞ! 最大防御!」
エルセインが前に出る。
自身の持つ全ての魔力を注ぎ込み、王都を守るための巨大な光の盾を展開する。
カッッッ!!!!
極太の熱線が放たれる。
それは光の盾と衝突し、激しい閃光と爆風を巻き起こす。
「ぐ、ぬぅぅぅぅッ!!」
エルセインの身体から血が噴き出す。
命を削るほどの魔力行使。
数秒の拮抗の末、光線は軌道を逸れて空の彼方へと消えていった。
「はぁ、はぁ……!」
エルセインが膝をつく。
杖を支えにして辛うじて立っている状態だ。
たった二撃。
それだけで王国軍は満身創痍となった。
戦力差は歴然。
とても敵わない。
「まるで歯が立たない、とは……」
国王が剣を握る手を震わせる。
「くそ、ここまでなのか……?」
エルセインが悔しげに空を睨む。
『頑張ったようだがな。全く話にならん』
ヴァルノスがつまらなそうに告げる。
そして、右手を高く振り上げた。
その爪には先ほど以上の膨大な魔力が集束している。
あれを振り下ろせば王都の半分は消し飛ぶだろう。
「……」
ラファエルは剣を下ろした。
諦めたわけではない。
だが、為す術がないことを悟ってしまった。
脳裏に浮かぶのは旅先で出会った愉快な友人たちの顔。
「スフィア、ブル、メリアさん……」
ラファエルは静かに呟く。
「すまない。城に呼んで歓迎するのは、難しそうだ……」
城に来てくれれば美味しい肉をご馳走しようと思ったが。
それももう果たせそうにない。
ヴァルノスが爪を振りかぶる。
『では、さらば……?』
その時。
ヴァルノスの動きが止まった。
彼は振り上げた手を止め、海の方角へと視線を向けた。
『……なんだ?』
彼が感じ取ったのは、異質な気配。
そして「何か」が猛スピードで接近してくる音。
「国王様! そしてラファエル王子に伝令!」
後方から一人の騎士が馬を飛ばして駆け込んできた。
空気を読まない大声だ。
「……? 伝令?」
ラファエルが呆気にとられる。
この絶体絶命の状況で、何を伝えに来たというのか。
「何事だ! 申せ!」
国王が問うと騎士は息を切らしながら、信じられない報告を口にした。
「はい! 海側から津波が発生! 陸の上を滑ってこちらに接近中です!」
「は?」
国王とラファエルの声が重なり、国王が聞き返す。
「陸の上を? 津波が? 何を言っているんだお前は」
「しかし、事実そのように! しかもその津波の上には見たことが無い豪奢な船と、商業連合傭兵団の船と旗が!」
「商業連合傭兵団!?」
国王が目を見開く。
「あの空飛ぶ竜に遭遇すれば狩りとって商品にしてしまうという、あの商業連合最強の戦力か!? 何故ここに!?」
商業連合傭兵団。
その名は他国にも轟いている。
海上の商業連合に所属し、金さえ積めばどんな危険な輸送任務もこなし、その実力は近隣諸国最強と謳われる猛者たちだ。
だが、彼らがレナック王国の危機に駆けつける義理も理由もないはずだ。
「船を乗せた津波が陸を滑って……?」
ラファエルとエルセインは顔を見合わせる。
この意味の分からなさ。
常識を無視したハチャメチャな登場。
そして絶望的な状況をひっくり返すような予感。
どこか既視感がある。
「……まさか」
「まさかね」
ラファエルが呟き、エルセインが苦笑する。
彼らの脳裏に浮かんだのは蒼い鎧を着た猫獣人と禍々しい漆黒の鎧を着た牛獣人、そして銀髪の少女の姿。
その想像通り。
現在、王都近郊の陸地を津波に乗って爆走している豪奢な船の上には、彼らが乗っていたのだった――。
明日からスフィアパートです。




