邪悪なる影
水平線に太陽が完全に没し、世界が夜の帳に包まれようとする頃。
海風が少し冷たさを帯び始めたクレセント号の甲板に、頼もしい援軍が到着していた。
レナック王国海軍の巡視艦だ。
船長の通報を受け、近海をパトロールしていた艦が急行してきたのだ。
甲板には整列した海軍兵士たちと、引き渡される海賊たちが並んでいる。
「それでは、主犯三名と護衛の男、そして海賊どもはこちらで引き取ります。破損した海賊船もこちらで曳航し、適切に処分しておきます――が」
引き渡し手続きを行っていた海軍の将校は困惑したように首を傾げた。
彼の目の前にいる罪人たちの様子が、あまりにも異常だったからだ。
「ありがとう! 来てくれてありがとう!」
「天の助けだ……! 頼む軍人さん! 早く、一刻も早く俺たちを連れて行ってくれ!」
「もうこんなところはこりごりだ! 牢屋でも独房でもいい、早く王都に連れて行ってくれぇ!」
副船長ヴァイル、海賊船長、そしてイグニス子爵。
彼らは涙を流しながら救世主を崇めるような目で軍人たちに縋り付いていた。
通常、逮捕される犯罪者というのは抵抗するか、あるいは絶望して俯くものだ。
これほどまでに逮捕を喜ぶ犯罪者を将校は見たことがない。
「何故、自分たちは彼らに感謝されているんでしょうか……? まるで地獄から救い出された亡者のようだ」
将校は訝しげに彼らを観察する。
「それに彼らの身体には傷一つない。なのに、なぜ衣服だけがこれほどボロボロなのですか? 一体どのような制圧を行えばこうなるのです?」
衣服は裂け、汗にまみれ、目は虚ろで時折ビクついている。
しかし肌はツルツルで健康そのもの。
このアンバランスさが得体の知れない恐怖を醸し出していた。
クレセント号の船長と船員たちは憑き物が落ちたようなスッキリとした笑顔で答えた。
「気にしないでくれ。ちょっと、本当にちょっとだけ色々あったんだ」
「はぁ……? まあ、暴れ出さないのは助かりますが」
将校は腑に落ちない顔をしつつも、船員たちに敬礼して彼らを連行させた。
「連れていけ!」
「よし! さあ歩け!」
「はい! もちろん!」
海賊一味と主犯格の三人は軍艦へと続くタラップを小走りで渡っていく。
その背中は「やっと終わった」という安堵感に満ちていた。
海軍の牢獄の方が、この船の甲板よりも安全で平和な場所だと信じて疑わない様子だ。
やがて、全員の収容を終えた軍艦が汽笛を鳴らす。
海賊船をロープで曳航し、夜の海へと去っていく彼らをクレセント号の人々は手を振って見送った。
船長が帽子を取り、深々と息を吐く。
そして傍らに立つマーガレットたちに向き直り、最敬礼を行った。
「ではマーガレット様、ならびにご一行様。本日は大変お世話になりました。皆様がいなければ、この船は……いや、我々の命運はどうなっていたか」
「気にするな。成り行きだからな」
マーガレットは肩をすくめながら素っ気なく答える。
だが、その表情は満更でもない。
「海賊連中が勝手をするのが不愉快だっただけだ。礼には及ばんよ」
「いえ、そうはいきません! 本日のお礼に今夜のディナーは船の総力を挙げて豪勢にいこうと思います! 特別室にて最高級のフルコースをご用意させますので、是非ご参加ください!」
その言葉に一番に反応したのは猫獣人だった。
「マジで!?」
スフィアの目が物凄く輝いた。
先ほどまで海賊をボコボコにしていた修羅の形相はどこへやら、今はただの食いしん坊な猫さんである。
「行く行く! 絶対行く! さっき食いっぱぐれた分も食ってやる!」
「あれだけ食べたのに、まだ食べるんだ……」
ブルが苦笑いする。
ビュッフェであれほどの量を平らげた胃袋は、どうやら無尽蔵のようだ。
「底なしですねえ……。まあ、スフィアさんが元気なら何よりですけど」
メリアも呆れつつ平和な空気に微笑んだ。
そして。
「あの……」
控えめな、しかし緊張に震える声が聞こえた。
ブルが振り返ると、そこには先ほど控室で助けた踊り子の一人、牛獣人の女性が立っていた。
煌びやかな衣装の上からショールを羽織っているが、その豊満なスタイルは隠しきれていない。
背後では、他の四人の踊り子たちが「行け!」「頑張れ!」と小声で応援しながら見守っている。
「あ、さっきの!」
ブルが人懐っこい笑顔を向ける。
「踊り子さんも怪我はありませんでしたか? もう怖い奴らはいませんからね」
「は、はい……! その節は、本当にありがとうございました……」
彼女は顔を真っ赤にしてモジモジと指を組み合わせている。
同じ牛獣人であるブルの巨躯を見上げ、その逞しさに改めて見惚れているようだ。
「それで……その、本日、ディナーのステージでまた私たちが踊りますので……もしよかったら、見ていただけないかと……」
上目遣いでの誘い。
それは明らかに、命の恩人に対する感謝以上の感情が含まれていた。
「本当に!! 絶対見ます!!」
ブルが即答する。
食い気味だ。
「うわあ、楽しみだなあ! さっきの剣舞、すごく感動したんですよ! 特にあなたの動きが!」
「えっ……み、見ててくださったんですか?」
「もちろんです! あのキレのあるステップ、最高でした!」
ブルは純粋にファンとして、そしてエンターテイメント好きとして興奮している。
恋愛感情的な機微に気づいているかは怪しいが、その真っ直ぐな称賛は乙女心を射抜くには十分すぎる威力を持っていた。
「よかった……! うれしい……!」
彼女はパァッと花が咲いたように笑う。
「それと、私……普段は魔法国に住んでるんですけど、最近は王都の港近くにあるパブに出向して働いているんです!……そっちにも、来ていただければ……」
「あー、そういえばありましたね、港のパブ」
メリアが思い出す。
王都の港区画を通る時に見かけた『♡ホルスタウロスパブ・ミルクホール♡』だ。
彼女はそこで働いているらしい。
「行きます! 絶対行きます! なんとしても!」
ブルが鼻息を荒くして決意を表明する。
美味しい酒、楽しいダンス、そして可愛い牛獣人の女の子。
彼にとっての楽園がそこにある。
「こりゃあ、しばらく王都に滞在かなあ」
スフィアがニヤニヤしながらブルの背中を見る。
「いいんじゃないですか? せっかくですし、都会の観光しましょうよ。美味しいものもいっぱいありますし」
メリアも賛成する。
カジノ船での一件も片付き、これから一週間洋上で回遊してから王都に戻れば久しぶりの陸地だ。
羽を伸ばすのも悪くない。
「ついでにラファエルたちにも会っとくか。あいつらも王都に向かうって言ってたし城に行けば会えるかな?」
スフィアが思い出したように言う。
以前、温泉街イドラで共闘したラファエル王子と宮廷魔術師長エルセイン。
彼らは一旦王都へ戻ると言っていたはずだ。
「そうですね。彼らは王族や上層部の人ですし、もしかしたらお城に行けば再会できるかもしれません。忙しい時じゃなければいいんですけどねえ……」
「ま、会えたらラッキーくらいでいいだろ」
平和な会話。
カジノ船の旅は美味しいディナーと王都での観光という、明るい未来への期待で締めくくられるはずだった。
――その時。
ズズズン……。
海が、空が、低く唸った気がした。
船の揺れではない。
大気そのものが震えるような不吉な振動。
「ん?」
スフィアが耳をピクリと動かす。
「なんだ!?」
スフィアが叫ぶと同時、王都の方面――東の空から、漆黒の輝きが迸った。
それは爆発のようであり、あるいは巨大な闇が噴出したようでもあった。
夕陽の残滓を飲み込み、一番星の光さえも塗り潰す圧倒的な闇の奔流。
「あれは……?」
メリアが息を呑む。
甲板にいた全員の視線が王都の近郊に出現した影に釘付けになる。
そこには、絶望が顕現していた。
巨大な翼。
長く太い尾。
そして、王城さえも小さく見えるほどの圧倒的な質量。
海の上に浮かぶこの船からでも、その威容ははっきりと見て取れる。
距離にして数キロは離れているはずなのに、その存在感は肌を刺すように届いてくる。
竜だ。
それも、ただの竜ではない。
世界を黒く染め上げるような禍々しいオーラを纏った黒竜。
「なんだありゃ……?」
スフィアの声が無意識に強張る。
今まで見た竜とは格が違う。
本能が警鐘を鳴らすレベルの格の竜。
「お母さんは何か知ってる?」
メリアがマーガレットを見上げる。
博識な母ならば、あの怪物の正体を知っているかもしれないと期待して。
しかし、マーガレットの表情もまた、険しいものだった。
「知らんな。私の知識にあるどの竜とも違う。……なんだ、あの禍々しい魔力は……?」
彼女をして「未知」と言わしめる存在。
それが意味する事実は決して軽くはない。
その時、一人の船員が血相を変えて甲板に駆け込んできた。
「船長! 船長! 入電です! 緊急入電!」
「なんだ!? あの竜と何か関係があるのか!?」
船長が怒鳴る。
「はい! 冒険者ギルド総本部より、全船舶および全通信機への一斉緊急放送です!」
船員は震える手でメモを読み上げた。
『――緊急召集。王都に滞在する高位冒険者へ告ぐ。現在、王都近郊に正体不明の特級指定災害魔獣が出現。繰り返す、特級指定災害魔獣が出現』
甲板が静まり返る。
特級。
それは、国家存亡の危機に関わるレベルの災害認定だ。
『そちらにいるという情報がある、第一位冒険者マーガレット。準二位冒険者スフィア。第三位冒険者ブルズウルグス。以上三名は至急王都へ向かい、謎の黒竜討伐に尽力されたし』
「――とのことです」
名指しだ。
船に乗っていることすら把握されている。
それほどまでに現在の事態は切迫しているのだ。
「どうやら王都近郊にいる高位冒険者全員に召集がかかっている模様です! 拒否権なしの最優先事項とのこと!』
「いったい……何が起こっているんだ……?」
船長の呆然とした呟き。
それは、この場にいる全員の代弁だった。
美味しいディナーも楽しい観光も甘いデートの約束も。
全てが黒い翼の下に塗り潰されていく。
黒竜の咆哮が遠く海を渡って轟く。
それは新たな戦いの幕開けを告げる鐘の音として彼らの耳に届いたのだった――。
珍しく地続きな終わり。
明日から最終章です。
第九話了
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