表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/15

第九話 誤差ではない三年

 三月の体育館は、驚くほど寒い。


 樹は在校生席の後ろの方で、背筋を伸ばして座っていた。折りたたみ椅子は冷たく、足元から冷気が上がってくる。壇上では校長が長い話をしている。内容は、半分も頭に入ってこなかった。

 卒業式というものに、樹はまだ実感がない。今日この場を出ていく人たちが、明日からこの校舎にいなくなる。それだけのことのはずなのに、体育館の空気は朝からずっと張り詰めていた。

 前の方の席で、誰かがすすり泣きを始めた。


「……早いなあ」


 隣に座った男子が、小声で漏らした。人間の生徒だ。目の縁が少し赤い。

 その二つ隣では、エルフの女子生徒が姿勢を崩さずに前を向いていた。表情は動いていない。泣いてもいないし、堪えているわけでもない。


「白瀬さん、泣かないの?」


 誰かが小さく聞いた。


「なぜ泣くんですか?」


「なぜって……卒業だし」


「また会えますから」


 あっさりした返事だった。悲しんでいないわけではない。ただ、彼女にとって「今日で終わり」という感覚が存在していないのだ、と樹は思った。

 その空気を、真後ろから来た音が破壊した。


「うおおおおおおおお!!」


 ドワーフの男子生徒だった。

 両手で顔を覆って、体育館中に響く声で号泣している。肩が上下し、椅子が軋み、隣の生徒が慌てて背中をさすっている。


「先輩ィィィーー!」


「うるさい!」


「泣くなら静かに泣け!」


 前の列から小声の抗議が飛ぶが、本人にはまったく届いていない。壇上の校長が一瞬言葉に詰まり、それから何事もなかったように話を続けた。

 樹は口元を押さえて、笑いを堪えた。

 ドワーフは感情を溜めない。溜めるという発想がない。悲しければその場で全部出す。三月の体育館で号泣することを、恥ずかしいとも思っていない。

 人間は静かに泣き、エルフは泣かず、ドワーフは全力で泣く。

 同じ式に出て、同じ人を送り出しているのに、外に出てくるものがまるで違う。

 境見町の卒業式は、毎年こうなるらしい。



 式が終わって、生徒たちは校庭に出た。


 三月の光は、二月よりずいぶん明るい。卒業生たちが写真を撮り、後輩に囲まれ、名前を呼び合っている。花束が至るところにあって、それだけで空気の色が違って見えた。

 樹は昇降口の前に立って、その光景を眺めていた。自分が何かをする場面ではない。こういうとき、樹はいつも少し離れた場所にいる。


「相原くん」


 声をかけてきたのは早坂だった。同じクラスの、あの調理実習の。


「あ、早坂さん」


「ねえ、あれ」


 早坂が顎で示した先に、動かない人がいた。

 白瀬だった。

 校庭の隅の、桜のまだ咲かない木の下に立っている。両手で鞄の持ち手を握っていた。握りしめている、と言った方が近い。

 視線の先には、卒業生の輪がある。


「もう一時間くらい、あそこにいる」


「一時間」


「三年生に渡すものがあるらしいんだけど」


 早坂が言い終わらないうちに、人間の女子が二人、白瀬に駆け寄っていった。バレンタインのときにも彼女を囲んでいた二人だ。


「白瀬さん、今日しかないよ! 柏木先輩、もう出ちゃうよ!」


「行こう、ね、一緒に行こう」


 白瀬は、静かに首を振った。


「まだ早い気がします」


 女子二人が同時に脱力した。


「三年言ってるそれ!」


「はい」


「今日で終わりなんだよ!?」


「そうですね」


 白瀬の声は、いつも通り落ち着いていた。焦りも照れもない。バレンタインのときとまったく同じ調子だった。

 女子二人は、なだめたり急かしたり脅したりしたあげく、最後には諦めて他の友達に呼ばれていった。

 白瀬は、その場に残った。


「エルフの子って、ああなんだよね」


 早坂が小さく言った。責める調子ではなかった。


「時間の感じ方が違うから、私たちが急かしても意味ないんだって」


「……うん」


 樹は曖昧に頷いた。

 それは正しい。母のアイリスもそうだ。何かを決めるのに時間がかかるし、そのことに本人はまったく困っていない。エルフにとって三年は誤差だ。白瀬自身がそう言っていた。

 でも。

 樹は、白瀬の方をもう一度見た。

 ――本、持ってない。

 白瀬はいつも本を読んでいる。休み時間も、昼休みも、放課後も。教室で見かける白瀬は、必ず本を開いていた。それが今日は、朝から一度も開いていない。

 そして今、鞄の持ち手を握っている指が、白くなっている。

 誤差なら、そんな手にはならない。

 早坂が友達に呼ばれて行ってしまってから、樹はしばらく迷った。

 自分が何かを言う立場ではない。話したこともほとんどない相手だ。急かす資格もないし、そもそも急かしたいわけでもない。

 人間の女子二人が一時間かけてできなかったことを、自分ができるとも思わない。

 それでも樹は、桜の木の下へ歩いていった。


「白瀬さん」


「……相原くん」


「寒くない?」


 我ながら、間の抜けた第一声だった。だが白瀬は、それに少し肩の力を抜いたようだった。


「寒いです」


「うん」


 それきり、樹は何も言わなかった。

 聞きたいことはあった。バレンタインの日に、渡さなかったこと。三年目だと言われていたこと。今、彼女が何を見ているのか。

 でも、聞かなかった。

 風が吹いて、白瀬の束ねた髪が少し揺れた。

 しばらくして、彼女の方から口を開いた。


「私、あの日、なんて言いましたっけ」


「あの日?」


「バレンタインの」


 樹は思い出した。忘れるはずもない。


「……三年は、誤差です、って」


「そうです。そう言いました」


 白瀬は、自分の言葉を確かめるように繰り返した。


「私たちは二千年生きます。だから三年なんて、本当に誤差なんです。急ぐ理由が、どこにもなかった」


「うん」


「でも」


 そこで、初めて彼女の声が揺れた。


「あの人は、人間なんです」


 樹は、息を止めた。


「あの人の三年は、誤差じゃなかった」


 白瀬は、卒業生の輪を見つめたまま言った。


「私が『まだ早い』と思っていた三年で、あの人は中学を出て、高校に入って、今日、卒業しました。同じ三年なのに、あの人はこんなに遠くまで行った」


 樹は、何も言えなかった。

 二千年を生きる者にとっての三年と、百年に満たない者にとっての三年。長さは同じで、重さがまったく違う。

 誰も悪くない。白瀬は怠けていたわけではない。彼女の速度で、ちゃんと考えていた。

 ただ、相手の時計が違った。それだけだ。


「間に合わなかったんですね、私」


「……分からない」


 樹は正直に答えた。


「間に合ったかどうかは、渡してみないと分からないんじゃないかな」


 白瀬が、ゆっくりと樹を見た。


「渡していいと思いますか」


「それは、僕には決められないです」


 樹は言葉を選んだ。押したくなかった。押していい場面ではないと思った。

 だから、知っていることだけを言った。


「でも、三年生はそろそろ校門を出ます。この学校、後夜祭とかないので」


 白瀬はしばらく黙っていた。

 それから、鞄の持ち手を握り直した。


「……行ってきます」


「うん」


 彼女は校庭を横切っていった。

 走りはしなかった。エルフは走らない。だがその歩き方は、樹が今まで見たどのエルフよりも速かった。

 樹はその背中を見送って、それ以上は見なかった。振り返らずに昇降口へ入る。見届ける権利は、自分にはない。



 その日の夕方、『ハーフ&ハーフ』は卒業生とその家族で少し混んでいた。


 花束を抱えた学生服が何組かいて、店の中がいつもより華やかだった。誠司が上機嫌で生地を回している。千夏はドワーフの卒業生に絡まれて、腕相撲を挑まれていた。


「はい負けー。次」


「まだだ! もう一回!」


「めでたい日に泣くなよ」


 その騒ぎの隅、扉のベルが小さく鳴った。

 入ってきたのは、制服姿の白瀬だった。一人だった。


「いらっしゃいませ」


 樹が声をかけると、白瀬はカウンターの端に座った。


「マルゲリータを、一枚」


「はい」


 注文を通して、水を注いだ。

 樹は、何も聞かなかった。

 白瀬は水を一口飲んで、正面を向いたまま、ぽつりと言った。


「渡しました」


 樹の手が、ほんの少し止まった。


「そう」


「それだけです。何も言えませんでした。ただ、渡しただけです」


「うん」


「三年考えて、渡すだけでした」


 白瀬はそう言って、少しだけ笑った。自嘲ではなかった。呆れているような、けれど悪くない、という顔だった。


「でも、始まりました」


「え?」


「私にとっては、今日が始まりです。三年は、準備でした」


 樹は、その言い方に少し驚いた。


「終わりじゃないんだ」


「終わりにしたら、本当に間に合わなくなりますから」


 白瀬は水のグラスを両手で包んだ。


「あの人の速度に、私が合わせます。二千年ある人が、百年しかない人に合わせるのは、たぶんそういうことなんだと思います」


 その言葉は、樹の中の思いがけない場所に落ちた。

 母のことを、思い出していた。

 アイリスは、いつも今日を全力で楽しむ人だ。困ったことがあれば笑い、失敗すれば笑う。何も気にしていないように見える。樹はずっと、それを母の性格だと思っていた。楽観的な人だから、そう生きているのだと。

 違うのかもしれない。

 母は毎日、父の速度まで歩いて降りてきているのかもしれない。二千年の側から、百年に満たない側へ。それを一度も、恩着せがましく言わないだけで。

 焼き上がったピザが、カウンターに置かれた。運んできたのは千夏だった。


「はい、お待たせ。……あれ、あんた一人?」


「はい」


「今日、卒業式だろ。家族は」


「私は在校生なので」


「あー、そっか」


 千夏は納得したように頷いて、それから何を思ったのか、皿にフォークをもう一本足した。


「これ、なんですか」


「気分。一人で食う日に一本だけ置いてあると、なんか寂しいだろ」


 白瀬は、しばらくその二本目のフォークを見ていた。


「……使いませんよ」


「使わなくていいよ。置いてあるだけでいい」


 千夏はそう言って、さっさと厨房に戻っていった。事情は何一つ聞いていない。今日この子がどこで何をしてきたかも知らない。

 樹はその背中を見ながら、思った。

 この人は、いつもこうだ。理由を聞かずに、すべきと思ったことをする。そして大体、それは良いことなのだった。



 閉店後、樹は一人で床を掃きながら、そのことを考えていた。


 急がなくていい、と言われて育ってきた。母がそうだった。千夏にも「何年かかってもいい」と言われた。

 その言葉に、樹はずっと安心していたのだと思う。急がなくていいなら、今日始めなくてもいい。今日始めなくていいなら、明日でもいい。

 でも今日、白瀬は言った。誤差だと思っていた三年が、誰かにとっては誤差ではなかったと。

 樹には期限がない。誰にも急かされていない。将来何になりたいかも、考えたことがない。

 急がなくていいことと、始めなくていいことは、たぶん、違う。

 樹は箒を止めて、しばらくその場に立っていた。


「おい、樹。閉めるぞ」


「あ、はい」


 厨房から千夏の声がした。いつも通りの声だった。

 樹は箒を片付けて、店の明かりを落とした。

 外に出ると、二月の頃より風がやわらかくなっていた。まだ寒いが、鋭さがない。

 新緑の日は、あと一か月と少し先だ。

 父のカレンダーに打たれた五つの丸を思い出して、樹は少しだけ足を速めた。


【境見町 異文化生活マナー帳 第五十三条より】

人間とエルフのカップルには、いずれ必ず「寿命の話」をする日が来る。

それを避け続けるのは、本当の意味で誠実ではない。

お読みいただきありがとうございます(≧∇≦)


同じ三年でも、人によって重さが違いますよね。

白瀬さんにとっては誤差でした。

柏木先輩にとっては、高校生でいられる時間のすべてでした。


どちらも間違っていません。

ただ、時計が違っただけなのです。

人によってそれぞれ基準が違う。

人間同士でもそうなんですから、異種族では余計に難しいですよね。


次回のお話もまた春。

ハーフ&ハーフは、あなたのお帰りをお待ちしています✨

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ