第九話 誤差ではない三年
三月の体育館は、驚くほど寒い。
樹は在校生席の後ろの方で、背筋を伸ばして座っていた。折りたたみ椅子は冷たく、足元から冷気が上がってくる。壇上では校長が長い話をしている。内容は、半分も頭に入ってこなかった。
卒業式というものに、樹はまだ実感がない。今日この場を出ていく人たちが、明日からこの校舎にいなくなる。それだけのことのはずなのに、体育館の空気は朝からずっと張り詰めていた。
前の方の席で、誰かがすすり泣きを始めた。
「……早いなあ」
隣に座った男子が、小声で漏らした。人間の生徒だ。目の縁が少し赤い。
その二つ隣では、エルフの女子生徒が姿勢を崩さずに前を向いていた。表情は動いていない。泣いてもいないし、堪えているわけでもない。
「白瀬さん、泣かないの?」
誰かが小さく聞いた。
「なぜ泣くんですか?」
「なぜって……卒業だし」
「また会えますから」
あっさりした返事だった。悲しんでいないわけではない。ただ、彼女にとって「今日で終わり」という感覚が存在していないのだ、と樹は思った。
その空気を、真後ろから来た音が破壊した。
「うおおおおおおおお!!」
ドワーフの男子生徒だった。
両手で顔を覆って、体育館中に響く声で号泣している。肩が上下し、椅子が軋み、隣の生徒が慌てて背中をさすっている。
「先輩ィィィーー!」
「うるさい!」
「泣くなら静かに泣け!」
前の列から小声の抗議が飛ぶが、本人にはまったく届いていない。壇上の校長が一瞬言葉に詰まり、それから何事もなかったように話を続けた。
樹は口元を押さえて、笑いを堪えた。
ドワーフは感情を溜めない。溜めるという発想がない。悲しければその場で全部出す。三月の体育館で号泣することを、恥ずかしいとも思っていない。
人間は静かに泣き、エルフは泣かず、ドワーフは全力で泣く。
同じ式に出て、同じ人を送り出しているのに、外に出てくるものがまるで違う。
境見町の卒業式は、毎年こうなるらしい。
式が終わって、生徒たちは校庭に出た。
三月の光は、二月よりずいぶん明るい。卒業生たちが写真を撮り、後輩に囲まれ、名前を呼び合っている。花束が至るところにあって、それだけで空気の色が違って見えた。
樹は昇降口の前に立って、その光景を眺めていた。自分が何かをする場面ではない。こういうとき、樹はいつも少し離れた場所にいる。
「相原くん」
声をかけてきたのは早坂だった。同じクラスの、あの調理実習の。
「あ、早坂さん」
「ねえ、あれ」
早坂が顎で示した先に、動かない人がいた。
白瀬だった。
校庭の隅の、桜のまだ咲かない木の下に立っている。両手で鞄の持ち手を握っていた。握りしめている、と言った方が近い。
視線の先には、卒業生の輪がある。
「もう一時間くらい、あそこにいる」
「一時間」
「三年生に渡すものがあるらしいんだけど」
早坂が言い終わらないうちに、人間の女子が二人、白瀬に駆け寄っていった。バレンタインのときにも彼女を囲んでいた二人だ。
「白瀬さん、今日しかないよ! 柏木先輩、もう出ちゃうよ!」
「行こう、ね、一緒に行こう」
白瀬は、静かに首を振った。
「まだ早い気がします」
女子二人が同時に脱力した。
「三年言ってるそれ!」
「はい」
「今日で終わりなんだよ!?」
「そうですね」
白瀬の声は、いつも通り落ち着いていた。焦りも照れもない。バレンタインのときとまったく同じ調子だった。
女子二人は、なだめたり急かしたり脅したりしたあげく、最後には諦めて他の友達に呼ばれていった。
白瀬は、その場に残った。
「エルフの子って、ああなんだよね」
早坂が小さく言った。責める調子ではなかった。
「時間の感じ方が違うから、私たちが急かしても意味ないんだって」
「……うん」
樹は曖昧に頷いた。
それは正しい。母のアイリスもそうだ。何かを決めるのに時間がかかるし、そのことに本人はまったく困っていない。エルフにとって三年は誤差だ。白瀬自身がそう言っていた。
でも。
樹は、白瀬の方をもう一度見た。
――本、持ってない。
白瀬はいつも本を読んでいる。休み時間も、昼休みも、放課後も。教室で見かける白瀬は、必ず本を開いていた。それが今日は、朝から一度も開いていない。
そして今、鞄の持ち手を握っている指が、白くなっている。
誤差なら、そんな手にはならない。
早坂が友達に呼ばれて行ってしまってから、樹はしばらく迷った。
自分が何かを言う立場ではない。話したこともほとんどない相手だ。急かす資格もないし、そもそも急かしたいわけでもない。
人間の女子二人が一時間かけてできなかったことを、自分ができるとも思わない。
それでも樹は、桜の木の下へ歩いていった。
「白瀬さん」
「……相原くん」
「寒くない?」
我ながら、間の抜けた第一声だった。だが白瀬は、それに少し肩の力を抜いたようだった。
「寒いです」
「うん」
それきり、樹は何も言わなかった。
聞きたいことはあった。バレンタインの日に、渡さなかったこと。三年目だと言われていたこと。今、彼女が何を見ているのか。
でも、聞かなかった。
風が吹いて、白瀬の束ねた髪が少し揺れた。
しばらくして、彼女の方から口を開いた。
「私、あの日、なんて言いましたっけ」
「あの日?」
「バレンタインの」
樹は思い出した。忘れるはずもない。
「……三年は、誤差です、って」
「そうです。そう言いました」
白瀬は、自分の言葉を確かめるように繰り返した。
「私たちは二千年生きます。だから三年なんて、本当に誤差なんです。急ぐ理由が、どこにもなかった」
「うん」
「でも」
そこで、初めて彼女の声が揺れた。
「あの人は、人間なんです」
樹は、息を止めた。
「あの人の三年は、誤差じゃなかった」
白瀬は、卒業生の輪を見つめたまま言った。
「私が『まだ早い』と思っていた三年で、あの人は中学を出て、高校に入って、今日、卒業しました。同じ三年なのに、あの人はこんなに遠くまで行った」
樹は、何も言えなかった。
二千年を生きる者にとっての三年と、百年に満たない者にとっての三年。長さは同じで、重さがまったく違う。
誰も悪くない。白瀬は怠けていたわけではない。彼女の速度で、ちゃんと考えていた。
ただ、相手の時計が違った。それだけだ。
「間に合わなかったんですね、私」
「……分からない」
樹は正直に答えた。
「間に合ったかどうかは、渡してみないと分からないんじゃないかな」
白瀬が、ゆっくりと樹を見た。
「渡していいと思いますか」
「それは、僕には決められないです」
樹は言葉を選んだ。押したくなかった。押していい場面ではないと思った。
だから、知っていることだけを言った。
「でも、三年生はそろそろ校門を出ます。この学校、後夜祭とかないので」
白瀬はしばらく黙っていた。
それから、鞄の持ち手を握り直した。
「……行ってきます」
「うん」
彼女は校庭を横切っていった。
走りはしなかった。エルフは走らない。だがその歩き方は、樹が今まで見たどのエルフよりも速かった。
樹はその背中を見送って、それ以上は見なかった。振り返らずに昇降口へ入る。見届ける権利は、自分にはない。
その日の夕方、『ハーフ&ハーフ』は卒業生とその家族で少し混んでいた。
花束を抱えた学生服が何組かいて、店の中がいつもより華やかだった。誠司が上機嫌で生地を回している。千夏はドワーフの卒業生に絡まれて、腕相撲を挑まれていた。
「はい負けー。次」
「まだだ! もう一回!」
「めでたい日に泣くなよ」
その騒ぎの隅、扉のベルが小さく鳴った。
入ってきたのは、制服姿の白瀬だった。一人だった。
「いらっしゃいませ」
樹が声をかけると、白瀬はカウンターの端に座った。
「マルゲリータを、一枚」
「はい」
注文を通して、水を注いだ。
樹は、何も聞かなかった。
白瀬は水を一口飲んで、正面を向いたまま、ぽつりと言った。
「渡しました」
樹の手が、ほんの少し止まった。
「そう」
「それだけです。何も言えませんでした。ただ、渡しただけです」
「うん」
「三年考えて、渡すだけでした」
白瀬はそう言って、少しだけ笑った。自嘲ではなかった。呆れているような、けれど悪くない、という顔だった。
「でも、始まりました」
「え?」
「私にとっては、今日が始まりです。三年は、準備でした」
樹は、その言い方に少し驚いた。
「終わりじゃないんだ」
「終わりにしたら、本当に間に合わなくなりますから」
白瀬は水のグラスを両手で包んだ。
「あの人の速度に、私が合わせます。二千年ある人が、百年しかない人に合わせるのは、たぶんそういうことなんだと思います」
その言葉は、樹の中の思いがけない場所に落ちた。
母のことを、思い出していた。
アイリスは、いつも今日を全力で楽しむ人だ。困ったことがあれば笑い、失敗すれば笑う。何も気にしていないように見える。樹はずっと、それを母の性格だと思っていた。楽観的な人だから、そう生きているのだと。
違うのかもしれない。
母は毎日、父の速度まで歩いて降りてきているのかもしれない。二千年の側から、百年に満たない側へ。それを一度も、恩着せがましく言わないだけで。
焼き上がったピザが、カウンターに置かれた。運んできたのは千夏だった。
「はい、お待たせ。……あれ、あんた一人?」
「はい」
「今日、卒業式だろ。家族は」
「私は在校生なので」
「あー、そっか」
千夏は納得したように頷いて、それから何を思ったのか、皿にフォークをもう一本足した。
「これ、なんですか」
「気分。一人で食う日に一本だけ置いてあると、なんか寂しいだろ」
白瀬は、しばらくその二本目のフォークを見ていた。
「……使いませんよ」
「使わなくていいよ。置いてあるだけでいい」
千夏はそう言って、さっさと厨房に戻っていった。事情は何一つ聞いていない。今日この子がどこで何をしてきたかも知らない。
樹はその背中を見ながら、思った。
この人は、いつもこうだ。理由を聞かずに、すべきと思ったことをする。そして大体、それは良いことなのだった。
閉店後、樹は一人で床を掃きながら、そのことを考えていた。
急がなくていい、と言われて育ってきた。母がそうだった。千夏にも「何年かかってもいい」と言われた。
その言葉に、樹はずっと安心していたのだと思う。急がなくていいなら、今日始めなくてもいい。今日始めなくていいなら、明日でもいい。
でも今日、白瀬は言った。誤差だと思っていた三年が、誰かにとっては誤差ではなかったと。
樹には期限がない。誰にも急かされていない。将来何になりたいかも、考えたことがない。
急がなくていいことと、始めなくていいことは、たぶん、違う。
樹は箒を止めて、しばらくその場に立っていた。
「おい、樹。閉めるぞ」
「あ、はい」
厨房から千夏の声がした。いつも通りの声だった。
樹は箒を片付けて、店の明かりを落とした。
外に出ると、二月の頃より風がやわらかくなっていた。まだ寒いが、鋭さがない。
新緑の日は、あと一か月と少し先だ。
父のカレンダーに打たれた五つの丸を思い出して、樹は少しだけ足を速めた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十三条より】
人間とエルフのカップルには、いずれ必ず「寿命の話」をする日が来る。
それを避け続けるのは、本当の意味で誠実ではない。
お読みいただきありがとうございます(≧∇≦)
同じ三年でも、人によって重さが違いますよね。
白瀬さんにとっては誤差でした。
柏木先輩にとっては、高校生でいられる時間のすべてでした。
どちらも間違っていません。
ただ、時計が違っただけなのです。
人によってそれぞれ基準が違う。
人間同士でもそうなんですから、異種族では余計に難しいですよね。
次回のお話もまた春。
ハーフ&ハーフは、あなたのお帰りをお待ちしています✨




