第十話 打った物、決めた物
四月の商店街は、冬の間の縮こまった空気が抜けて、少しだけ賑やかになる。
千夏は仕込みの合間に窓の外を眺めていた。通りを歩く人の上着が薄くなり、八百屋の店先に並ぶ野菜の色が変わっている。町全体が、ゆっくりと季節を入れ替えていくのが分かる。
「千夏さん、そろそろですね」
カウンターを拭きながら、樹が言った。新しい学年になって、制服のネクタイの色が変わっている。
「何が」
「新緑の日です。うち、父がカレンダーに丸を五つ打ってて」
「ああ、あれか。今年はいつになりそうなんだ」
「分かりません。母は『まだですねえ』って毎年言うので」
「気の長い話だな」
千夏は笑った。エルフの一年の始まりは、緑が開いた日に決まる。決まった日付がない行事のために、樹の父は毎年五日分の休みを確保している。
その話を聞いたのが正月だから、もう三か月以上前になる。
扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、作業着の男だった。相変わらず無精髭で、袖に金属の粉がついている。
「岩田さん」
千夏が声をかけると、豪太はカウンターまで来て、立ったまま短く言った。
「明日、取りに来い」
「は?」
「昼過ぎなら開けてる」
「いや、何をだよ」
「打った」
それだけ言って、豪太は踵を返した。
「おい、注文しろよ! 客じゃねえのかお前!」
「今日は忙しい」
扉が閉まった。
千夏はしばらくその扉を見ていた。それから、思い出した。
――道具の一つでも打ってやる。安くしとく。
正月明けに、作業台を運ぶのを手伝ったときの話だ。三か月も前の、その場の勢いのような言葉だった。千夏の方はとっくに忘れていた。
「約束、覚えてたんですね」
樹が言った。
「ドワーフだからな」
千夏は肩をすくめた。
「あいつら、三年前の口約束でも覚えてんだよ。忘れる機能がついてねえんだ」
「千夏さんもですか」
「私は半分だから、半分忘れる」
樹が笑った。
翌日の昼過ぎ、千夏は商店街の外れまで歩いた。
「なんで付いてくるんだ、お前」
「店長が『見てこい』って」
半歩後ろを歩く樹が答えた。
「あと、僕も見たいので」
「素直でよろしい」
空き店舗だった建物の前に着いて、千夏は足を止めた。
看板が出ていた。木の板に、焼き印で文字が入っているだけの、飾り気のない看板だった。
――岩田鍛冶
「地味だな」
「読めりゃいい」
中から声がした。開け放した戸口の奥で、豪太が炉の前にしゃがんでいる。
そして、その周りに人がいた。
「おう千夏ちゃん、来たか」
「棚、そこでいいか?」
「釘が足りねえぞ、うちから持ってくる」
商店街の店主が四、五人、勝手に上がり込んで作業をしていた。八百屋の旦那、金物屋の親父、そして名前を知らない古株のドワーフが二人。
豪太は炉の前から動かず、心底困った顔をしている。
「……頼んでない」
「知ってる」
金物屋の親父が笑った。
「頼まれてねえから来てんだよ。頼まれてから行くのは仕事だ」
千夏はその光景を見て、少しおかしくなった。
商店街でドワーフが新しく店を始めると、こうなる。古株が道具を持ち寄って、勝手に手伝いに来る。断っても帰らない。理由を聞いても答えない。
豪太は境見町に来て三か月あまりで、まだこの町の作法を知らなかったらしい。
「これだ」
人だかりが一段落した頃、豪太が布に包んだものを差し出した。
開くと、ピザカッターだった。
柄は木で、握りの部分が少しだけ膨らんでいる。刃は円盤で、思っていたより厚い。全体が、店で使っているものより一回り重かった。
「重いな」
「軽いと逃げる」
「逃げる?」
「生地が。刃が薄いと引っかかって、切り口が汚くなる。重い方が真っ直ぐ落ちる」
千夏は柄を握ってみた。手のひらの膨らみが、指の付け根にちょうど収まる。
握りやすい。明らかに、握りやすい。
「……これ、私の手に合わせたのか」
「作業台運んだとき、見た」
豪太はそっぽを向いたまま言った。
「一回見りゃ分かる」
千夏はしばらく黙って、カッターを眺めた。
それから、右の拳を左の手のひらに軽く打ち付けた。何かを決めたときや、やる気が出たときに、昔から自然に出る癖だ。
「よし。いくらだ」
「いらん」
「安くしとくって言っただろ」
「安くしとくとは言った。ただにしないとは言ってない」
「屁理屈だろそれ」
「約束は守った。それで終わりだ」
千夏は財布を出しかけて、やめた。
ドワーフの約束は、金で清算するものではない。そういうことにしておく方が、この男には通りがいい。
「じゃあ、うちで飯食え。ただにしとく」
「……それは、いい」
「安くしとくとは言ってない。ただにするって言ってんだよ」
豪太が黙った。
金物屋の親父が奥で吹き出した。
「なあ」
帰りかけた千夏に、豪太が声をかけた。
「あ?」
「その髪、地毛じゃねえだろ」
「よく分かったな」
「根元が違う」
千夏は自分の毛先を一房つまんだ。明るい金色のツインテール。根元には、確かに深いえんじ色が覗いている。
「染めてる。元は臙脂だよ」
「なんで金にした」
「ピザ屋のバイトっつったら、金髪ツインテールだろ」
「……は?」
「様式美だよ、様式美」
豪太が本気で理解できないという顔をした。後ろで樹が小さく笑っている。
「客が店に入ってくるだろ。で、私を見て『あ、ピザ屋だ』って思うわけ。それでいいんだよ」
「意味が分からん」
「分からなくていい」
千夏はそう言って、毛先を離した。
「似合ってねえよ」
「知ってる」
あっさり返されて、豪太が言葉に詰まった。
千夏は少しだけ笑って、それから続けた。
「でもな。これは私が決めたんだ」
「……」
「髪の色も、血の割合も、生まれたときのは私が決めたわけじゃねえ。エルフでもドワーフでも人間でも、そこは誰も選べない」
炉の火が、低い音を立てていた。
「だから、決められるところは自分で決める。それだけだ」
豪太は、何も言わなかった。
正月明けのあの日、この男は千夏に「どっちの血が強いんだ」と聞いた。千夏が答えようのない質問だった。量ったこともないし、量る意味もない。
あのとき答えられなかったことの、これが答えだった。三か月遅れの。
「……そうかよ」
豪太はそれだけ言って、炉の方へ戻っていった。
背中を向けたまま、付け足すように言う。
「刃、鈍ったら持ってこい。研ぐ」
「金取るのか」
「安くしとく」
千夏は笑って、店を出た。
帰り道、樹がぽつりと言った。
「百一条ですね」
「あ?」
「マナー帳の。ハーフに関する定めは、これより始まる。ただし、正解は書かない。決めていいのは本人である、っていう」
千夏は少し考えて、それから顔をしかめた。
「……お前、私の髪を条文にすんな」
「してないです。似てるなと思っただけで」
「似てねえよ。あれは涌井さんが立派に書いたやつだろ。こっちはただの様式美だ」
「そうですか」
樹は納得していない顔で頷いた。
千夏は手の中のカッターを見た。柄の膨らみが、歩きながら握っても指に馴染む。
――一回見りゃ分かる、か。
あの男は、人の手の形を一度見ただけで覚えて、三か月かけて形にした。無愛想で、無遠慮で、初対面で失礼なことを聞いてくる男が、そういうことをする。
この町は、だいたいそういう奴らでできている。
「おー、いいの作ってもらったなあ」
店に戻ると、誠司がカッターを手に取って感心していた。
「重いですね、これ」
「軽いと逃げるんだと」
「なるほどな。……よし、じゃあ早速使うか」
その日の夜、焼き上がったピザの最初の一枚に、千夏がその刃を入れた。
思っていたより、するりと落ちた。引っかかりも、押し戻される感触もない。真っ直ぐに、丸い生地が二つに分かれる。
「おお」
カウンターの蜂谷が声を上げた。
「切れ味いいな、それ」
「岩田鍛冶。商店街の外れだ。行ってやってくれ」
「宣伝までしてやるのかよ」
「常連が増えりゃ、研ぎ代が安くなるかもしれねえだろ」
千夏はそう言って、二つになった半分を、それぞれ別の皿に移した。
半分と、半分。
この店の名前と同じ形だった。
窓の外は、もう暗い。四月の夜は、まだ少しだけ冷える。
新緑の日は、たぶんあと二週間ほど先だ。樹の父が打った五つの丸の、どれか一つに当たる日が、そろそろやってくる。
【境見町 異文化生活マナー帳 第十五条より】
ドワーフの「約束は絶対」を甘く見ないこと。
三年前の些細な口約束でも覚えている。
お読みいただきありがとうございます(≧∇≦)
ドワーフは約束を忘れません。
三か月前の、その場の勢いのような一言でも、律儀に覚えています。
僕は……メモらないとすぐに忘れます。
気をつけなきゃ。
千夏の髪は、本人が決めたものです。
似合っているかどうかは、また別の話ですが(笑)
設定資料としての彼女のビジュアルは決めていますが、いつか皆様にお見せできたらいいなと思います。
もう少し、お時間をくださいね。
次回、いよいよ新緑の日が近づきます。
エルフにとっての特別な日。
どんな日常が待っているのでしょうか。




