第十一話 開いた日
その年の新緑の日は、四月の二十八日だった。
朝、樹が起きると、家の中がやけに静かだった。
台所に行くと、母のアイリスが窓の外を見て立っている。まだ寝間着のままだった。手には湯呑みも何も持っていない。ただ、立って、外を見ている。
「母さん」
「おはようございます」
振り返った母は、いつも通りの顔で笑った。
「今日ですね」
「え」
「開きました」
樹は窓の外を見た。
庭の向こうに、山の裾が見える。冬の間ずっと灰色だったその斜面が、確かに、色を変えていた。薄い緑が、上から下へ流れ落ちるように広がっている。
昨日も見た景色のはずだった。昨日は、まだこうではなかった。
「一晩でですか」
「一晩です。だから面白いんですよ」
母はそう言って、台所の戸棚を開け始めた。
「お父さん、起きてます?」
「まだ寝てると思うけど」
「起こしてきてください。休みを取っているはずですから」
樹は廊下を歩いて、父の部屋の前で立ち止まった。
――四月の二十八日。
台所のカレンダーに打たれた五つの丸。その二つ目が、今日だった。
「父さん」
襖の向こうで、布団が動く音がした。
「……開いたか」
起こす前に、そう聞かれた。
相原家の新緑の日は、驚くほど何もしない。
朝、母が赤飯を炊く。人間の行事から借りてきたものらしいが、母の実家でもこうしていたそうだ。それを食べたら、家族で山を歩く。歩いて、緑を見て、帰る。それで終わりだ。
祖父母は「腰が痛い」と言って毎年留守番をする。もっとも、二人とも留守番の間にきっちり庭の草を抜いているので、本当に痛いのかどうかは分からない。
「行ってきます」
「気をつけてなー」
祖母に見送られて、三人で家を出た。
父は作業着ではない、少しだけましなジャンパーを着ていた。母はいつもの服だ。特別な格好はしない。
町の南の外れから、山へ入る道がある。舗装が途切れて、土の道になる。両側の木の枝先に、小さな葉が開いていた。
母が先に歩いて、樹が続いて、父が最後を歩く。この順番も毎年同じだった。
「今年は少し早いですね」
母が言った。
「去年は五月に入ってました」
「そうだっけ」
「そうです。お父さん、去年は三日目の丸まで使いましたから」
樹は後ろを振り返った。
父は何も言わずに歩いている。表情は変わらない。
「……父さん、丸のこと、母さん知ってたんだ」
「知ってますよ」
母はあっさりと答えた。
「毎年、五日分お休みを取ってくださってますから」
「言ったこと、ある?」
樹は父に聞いた。父は前を向いたまま、短く答えた。
「ない」
「じゃあ、なんで知ってるの」
「そりゃあ、分かりますよ」
母が幸せそうに笑った。
「二十年『も』一緒にいるんですから」
樹は、少し黙って歩いた。
父は一度も言わない。母は一度も聞かない。それでも、毎年ちゃんと成立している。
自分は正月に初めてあの丸に気づいて、それを大きな発見のように思った。母はとっくに知っていた。
山の中腹に、開けた場所がある。
大きな岩が一つあって、そこに腰かけると、境見町が見下ろせる。毎年ここで休憩するのが決まりだった。
母が持ってきた水筒からお茶を注いで、三人で飲む。
町が見えた。駅前の建物、商店街の屋根の連なり、その先の荒れた通り。さらに向こうに、検問所の白い建物が小さく見える。北の山際が、独立自治区だ。
そして町の北寄りに、『ハーフ&ハーフ』の屋根があった。
「あそこ、店ですね」
母が指さした。
「よく分かるね」
「屋根の形が違いますから。あの建物だけ、古いんです」
樹は目を細めた。
言われてみれば、確かに違った。周りの建物は四角い屋根が並んでいるのに、あの一軒だけ、勾配が急で、形が古い。
この町ができるより前から、あそこにあると言われている。
誰も創業年を知らない。長寿のエルフでさえ「昔からあった」としか言わない。二月に見つけた寄せ書きの、切り取られた最初の頁のことを、樹はまだ誰にも話していなかった。
「樹くん」
母の声で、我に返った。
「今日は、誰か笑ってくれましたか」
樹は少し考えた。まだ昼前で、今日は家族としか会っていない。
「まだ誰にも会ってないよ」
「そうですね」
母は笑って、お茶を一口飲んだ。
「じゃあ、これからですね」
その言い方に、樹は引っかかった。
母はいつも、樹が落ち込んでいるときにこの質問をする。今日は落ち込んでいない。それでも聞いてきた。
「母さん」
「はい」
「その質問、なんでいつも聞くの」
母は少しだけ目を丸くして、それから、ゆっくりと町の方を見た。
「私は、あと千年以上生きるかもしれません」
樹の隣で、父が茶を飲む手を止めた。
「お父さんは、そんなに生きません。あなたは……どうでしょう。ハーフエルフの寿命はまだ明らかではないですから」
「……うん」
「だから、私が数えられるのは、日数じゃないんです」
風が吹いて、開いたばかりの葉が一斉に揺れた。
「千年を数えたら、気が遠くなります。でも、今日誰かが笑ったかどうかなら、数えられます。それを毎日聞いていれば、私は今日を生きられるんですよ」
樹は、何も言えなかった。
「私は、優しくてこうしているんじゃありませんよ」
母はそう言って、少し照れたように笑った。
「自分のためです──でも」
「でも?」
母は父に目線を向けて続けた。
「この人がいなくなってからも、後悔がないようにしたい。良い日々だったなって。──やっぱり自分のためですね」
父は何も言わなかった。ただ、水筒の蓋を開けて、母の湯呑みにお茶を足した。
帰り道、樹は少し後ろを歩いていた。
前で母と父が並んで歩いている。会話はほとんどない。母がときどき何か言って、父が短く返す。それだけだ。
樹は、九話の卒業式の日に考えたことを思い出していた。
白瀬は言った。あの人の速度に、私が合わせます、と。二千年ある人が、百年しかない人に合わせるのは、たぶんそういうことなんだと。
あのとき樹は、母も同じことをしているのかもしれないと思った。
半分は当たっていた。半分は違った。
母は、父に合わせているのではない。合わせないと自分が保たないから、そうしているのだ。楽観的な性格でも、優しさでもない。この先の千年以上を正気で歩くための、母なりの方法だった。
「父さん」
樹は少し早足で追いついて、隣に並んだ。
「なんだ」
「僕、来年もこれ、行っていい?」
父が、樹の顔を見た。それから、また前を向いた。
「勝手にしろ」
いつも通りの返事だった。
だが樹は、その直後に父が小さく息を吐いたのを聞いた。ほとんど笑ったような音だった。
――急がなくていいことと、始めなくていいことは、違う。
三月に自分でそう考えた。考えただけで、何も始めていなかった。
将来の夢はまだない。何になりたいかも分からない。それは急いで決めるものではないと思う。
でも、来年も一緒に山を歩きたいと言うことは、今日でも言えた。
夕方、店に出勤すると、千夏が暖簾を出しているところだった。
「おう、今日休みだったろ。なんで来たんだ」
「休みですけど、夜だけ入ろうかと」
「山、行ったんじゃねえのか」
「行きました。午前中で終わったので」
「早いな」
「歩いて、見て、帰るだけなので」
千夏は「何だそりゃ」と笑って、樹に暖簾を渡した。
「じゃあ、あと頼むわ。私、仕込み残ってる」
「はい」
樹は暖簾を受け取って、店の前に立った。
布を掛けて、皺を伸ばす。振り返ると、四月の夕方の空が、町の屋根の上に広がっていた。
新緑の日が終わる。母の一年が、今日から始まった。
自分の一年がいつ始まるのかは、まだ分からない。分からなくていい、と今日は思えた。
店の中から、石窯に火が入る音がした。
【境見町 異文化生活マナー帳 第八十一条より】
エルフは花見よりも紅葉狩りを大切にする。
散っていく美しさの方に価値を見出すため。
今回もお読みいただきありがとうございます(≧∇≦)♪
新緑の日は、毎年日付が変わります。
だから待つしかありません。
待って、ある日、開きます。
……何が開くのでしょうね。
きっと、エルフや、エルフとの縁が深い人たちだけが分かる『何か』なのかもしれません。
お父さんの丸(有休)は、五つあります。
今年使ったのは、2日分の有休だったわけです(笑)
人間であるお父さん、エルフへの理解については流石としかいいようがありませんね。
次回、千夏の話に戻ります。




