第十二話 言わなかった十七年
五月の連休は、飲食店にとって稼ぎ時だ。
昼から客が途切れず、千夏は朝から石窯の横に立ちっぱなしだった。誠司が生地を伸ばし、樹がホールを回し、千夏が焼き上がりを切って運ぶ。連休中はこの並びが固定される。
「千夏さん、五番テーブルあがりました」
「はいよ」
岩田豪太の打ったカッターが、生地の上を真っ直ぐ落ちていく。もう一か月使っているが、まだ一度も刃を研ぎに出していない。
「よく切れるなあ、それ」
カウンターの蜂谷が、缶ビール片手に感心している。連休で交番も忙しいはずだが、休憩の一杯だけは欠かさない。
「商店街の岩田鍛冶な。宣伝しといたぞ」
「聞いた聞いた。うちの署長も包丁研ぎに出したってさ」
「あいつ、そのうち手が回らなくなるぞ」
言いながら、千夏は次の一枚に刃を入れた。
その時、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
樹の声が、途中で止まった。
千夏が顔を上げると、入口に立っていたのは消防の制服姿の男たちだった。四人。全員ドワーフだ。
その先頭に、父がいた。
「……なんで」
千夏の手が止まった。
「非番だ」
ゲンゾーは短く言って、店内を見回した。
「連休は詰所が回らん。交代で飯を食えと言われた」
「じゃあ他の店行けよ」
「近い」
身も蓋もない理由だった。
後ろの三人が、面白そうに千夏を見ている。
「真壁さん、娘さんここで働いてたんすか」
「知らんかったんですか」
「聞いてないっすよ」
「言ってない」
千夏は厨房の奥に引っ込みたくなった。
父が店に来たことは、これまで一度もなかった。相原家には毎年酒を贈るくせに、この店には来ない。忙しいからだと思っていた。
四人は丸テーブルに座った。
千夏が水を運ぶと、若い署員が興味津々で聞いてきた。
「千夏さん、いつからここで?」
「高校出てすぐだから、二年」
「へえ。真壁さん、娘さんの職場来たことなかったんすか」
「ない」
「なんで」
「必要がない」
父はメニューも見ずに「一番でかいのを四枚」と注文した。人数分より一枚多い。ドワーフの卓では、これが標準になる。
焼いている間、署員たちは仕事の話をしていた。
「昨日の現場、真壁さんが一番に入ったんすよ」
「またっすか」
「あの人、煙見ると足が勝手に動くんだから」
「歳を考えてくださいよ」
「うるさい」
ゲンゾーはコップの水を一気に飲んだ。
千夏はカウンターの内側から、その様子を見ていた。
――家では見たことのない顔だ。
家の父は、豪快で、頑固で、不器用で、拳骨が飛ぶ。仕事の話はするが、それは報告であって会話ではない。
ここにいる父は、若い連中に軽口を叩かれて、うるさいと返している。それだけの違いなのに、まるで別人のようだった。
ピザが焼き上がる頃、店の空気が少し変わった。
入口の方で、声が上がっている。
「だから、そういうつもりじゃなくてだな」
「じゃあどういうつもりだよ」
連休で入った客同士が、揉めていた。片方は人間の若い男が三人、もう片方はドワーフの職人風が二人。テーブルが隣同士で、どちらもかなり飲んでいる。
樹がすぐに動いた。水を運ぶふりをして、間に入ろうとする。
「あの、お水どうぞ」
「今いいんだよ」
人間の男の一人が、樹の腕を払った。トレイが傾いて、水がこぼれる。
千夏の足が動いた。
――だが、それより早く動いたものがあった。
ゲンゾーだった。
椅子から立ち上がる音すらしなかった。気づいたときには、揉めていた両方のテーブルの間に立っている。
「座れ」
声は大きくない。だが、店の端まで届いた。
「なんだよ、おっさ……」
言いかけた男が、途中で黙った。
ゲンゾーは何もしていない。手も出していないし、身構えてもいない。ただ、そこに立っているだけだ。
それでも、全員が座った。
「連休だ。どこも混んでる。腹が減ってりゃ気も立つ」
ゲンゾーは両方のテーブルを見た。
「だが、ここは飯を食う場所だ。それ以外のことをするなら、外でやれ」
誰も何も言わなかった。
「あと、そこの若いの」
男の一人が肩を震わせた。
「店の人間に手を出したな」
「……いや、当たっただけで」
「当たっただけでも、こぼれた水は誰かが拭く」
ゲンゾーは自分のテーブルに戻りかけて、立ち止まった。
「拭くのはあんたじゃない。そこの兄ちゃんだ」
男は樹の方を見た。樹は困った顔で、こぼれた水を布巾で押さえている。
「……すんませんでした」
「言う相手が違う」
「あ、いや、あの、すみません」
樹は慌てて「大丈夫です」と首を振った。
ゲンゾーは何も言わずに席へ戻り、運ばれてきたピザに手を伸ばした。
署員の一人が、感心したように呟いた。
「相変わらず、殴らないっすね」
「殴ったら、また皿洗いになる」
「え、あるんですかそれ」
「昔な」
千夏は、その言葉を聞き逃さなかった。
閉店後。
署員三人は先に帰り、ゲンゾーだけが残っていた。会計を済ませたあとも、なぜかカウンターの端に座っている。
「父さん、閉めるぞ」
「ああ」
立つ気配がない。千夏は仕方なく、その隣に立った。
「さっきの、なんだよ。皿洗いって」
「昔、ここで暴れた」
千夏は目を丸くした。
「は?」
「二十代の頃だ。酒を飲んで、他所のドワーフと喧嘩した。テーブルを一つ壊した」
「……嘘だろ」
「翌日、皿を洗わされた。一日中だ」
千夏は、店内ルールの第三条を思い出した。酒で暴れた者は、翌日皿洗い。
あれは、そういう出来事の積み重ねでできた条文なのだ。
「だから、この店には来ない」
「え?」
「顔向けできん」
ゲンゾーは水を一口飲んだ。
「昔のことだ。もう誰も覚えてない。それでも、来にくいものは来にくい」
千夏は、何と言えばいいのか分からなかった。
この人が、そんなことを気にする人だとは思っていなかった。豪快で、頑固で、細かいことは忘れる人だと思っていた。
――約束は絶対、なんだったな。
ドワーフは覚えている。良いことも、悪いことも、全部。
「じゃあ、なんで今日来たんだよ」
「連休だからだ」
「そうじゃなくて」
千夏が食い下がると、ゲンゾーはしばらく黙った。
「……見ておこうと思った」
「何を」
「お前が働いてるところを」
千夏は言葉に詰まった。
「二年経った。そろそろいいだろうと思った」
「二年って」
「一年目に来たら、口を出す。二年目でも出したかもしれん。三年待とうかと思ったが、連休で口実ができた」
千夏は、笑うべきなのか怒るべきなのか分からなくなった。
「回りくどいんだよ、あんた」
「そうだな」
ゲンゾーはあっさり認めた。
カウンターの向こうで、樹が最後の皿を片付けている。誠司は石窯の火を落としに行った。
千夏は、隣に座った父の横顔を見た。
――言うなら、今なんじゃないか。
節分の夜、母に言われた。あんたが自分で言うべきことだからだよ、と。あれから三か月が経っている。急がなくていいと言われた。だから急がなかった。
だが今日、千夏は初めて、この人が「言わずに待つ人」だと知った。
二年待った。皿洗いのことを、四十年も覚えていた。何も言わないまま、勝手に待っていた。
「父さん」
「なんだ」
千夏は口を開いて、閉じた。それから、もう一度開いた。
「私、三歳から少林寺拳法やってる」
ゲンゾーの手が、コップの上で止まった。
店の中が静かだった。厨房の樹が、皿を持ったまま動かなくなったのが分かる。
「今もやってる。母さんは知ってた。あんたにだけ言ってなかった」
「……」
「小さい頃からぶん殴られてたから。あんたを超えたくて始めた。それだけの理由だ」
長い沈黙があった。
ゲンゾーはコップを置いて、ゆっくりと娘の方を見た。
千夏は、殴られるか怒鳴られるかを覚悟していた。
「知ってた」
「は?」
「十七年前からな」
千夏の頭が真っ白になった。
「なんで」
「拳だこだ」
ゲンゾーは自分の右手を持ち上げて、指の付け根を親指で示した。
「三歳の子どもの手に、こんなものはできん」
「……十七年」
「ああ」
「なんで、何も言わなかったんだよ」
ゲンゾーは、少しの間、黙っていた。
「言ったら、やめると思った」
千夏は、息が止まりそうになった。
「隠してやってるということは、隠す理由があるということだ。俺が知ったと分かれば、お前はきまりが悪くなる。きまりが悪くなれば、続かん」
「……」
「だから、知らんふりをした。十七年」
ゲンゾーはコップの水を飲み干した。
「それだけだ」
千夏は、何も言えなかった。
十七年。三歳から二十歳までの、すべてだ。
庭で拳を突くたび、道場に通うたび、父に隠していると思っていた。隠せていると思っていた。
この人は、最初から全部知っていて、知らないふりを十七年続けた。娘が続けられるように。
「……ずるいだろ、それ」
声が震えた。
「ずるくはない」
「ずるいよ」
千夏は袖で目を擦った。
「私、ずっとあんたに勝つつもりで」
「知ってる」
「知ってるなら言えよ」
「言ったら、やめると言っただろう」
ゲンゾーは立ち上がって、上着を取った。
「勝ちたければ、勝ちに来ればいい。逃げはせん」
それだけ言って、扉に向かった。
千夏は慌てて呼び止めた。
「父さん」
振り返らずに、ゲンゾーは足を止めた。
「言うのが遅くなって悪かった」
「二年待った俺が言えることじゃない」
扉が閉まった。
五月の夜気が、一瞬だけ店に入ってきた。
カウンターの向こうで、樹がまだ皿を持ったまま立っていた。
「……聞いてました」
「聞いてただろ、そりゃ」
「すみません」
「別にいい」
千夏はカウンターに突っ伏した。しばらくそのまま動かなかった。
「千夏さん」
「なんだ」
「よかったですね」
千夏は顔を上げなかった。
「うるせえ」
声がまだ震えていた。
樹は何も言わずに、皿を片付けに戻った。理由を聞かず、そっとしておく。この店で働く人間は、だいたいそれを覚える。
千夏は突っ伏したまま、自分の右手を見た。
指の付け根の、硬くなった皮膚。
三歳のときから、この人はここを見ていたのだ。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十九条より】
ドワーフの家庭で子どもを叱るときは、拳骨より先に理由を三回言う。
理由なき拳骨は教育ではなく八つ当たりとされる。
今回もお読みいただきありがとうございます(∩´∀`)∩
真壁ゲンゾー、やってくれましたね。
十七年です。十七年、知らないふりです。
ドワーフは約束を忘れません。
そして、どうやら「言わない」と決めたことも忘れないようです。
ちなみにこのお父さん、お話でも語られたように、若い頃にハーフ&ハーフでテーブルを壊しています。
店内ルール第三条「酒で暴れた者は、翌日皿洗い」──
あの条文の向こう側には、こういう人が何人もいるのでしょうね。
そして暴れる人たちに向けて容赦なく罰を与えるハーフ&ハーフ。
素直にそれを受けるお客さんたち。
多少、気性が荒くても、良い人たちが多いってことですね。
今回は千夏の事情に深く踏み込んだお話でしたが、次回はまた日常に戻ります。




