第十三話 傘を持たない人
五月の終わりの空は、朝から重かった。
樹が家を出るとき、母のアイリスが玄関まで追いかけてきた。
「樹くん、傘」
「今日、降らないよ。予報も見た」
「そうですか。まあ、なんとかなりますね」
母はあっさり引き下がって、手に持っていた傘を下駄箱に戻した。
人間の天気予報は、母にとってはあまり信用のならないものらしい。当たるかどうかではなく、そもそも一日単位で天気を当てようとする発想が、母にはよく分からないのだそうだ。
教室に入ると、白瀬が窓際の席で本を読んでいた。
三月に一度だけ、その手から本が消えた日があった。今は元通りだ。ページをめくる速度も、姿勢も、以前とまったく変わらない。
樹は自分の席に座って、鞄を置いた。
「相原くん、おはよう」
早坂だった。同じクラスのまま、二年生になっている。
「おはよう」
「ねえ、白瀬さんのあれ、どうなったか知ってる?」
「あれ?」
「柏木先輩」
樹は少し困った。知っていることはある。三月のあの夜、店に来た白瀬が「渡しました」と言った。それだけだ。その後のことは聞いていない。
「知らない」
「本当に?」
「本当に。聞いてないから」
早坂は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「相原くんって、そういうとこあるよね」
「そういうとこ?」
「知ってても言わなそう」
樹は返事に困った。図星ではあった。
早坂は笑って、自分の席に戻っていった。
昼休み、樹は購買の列に並んでいた。
三か月経っても、この学校での樹の過ごし方は変わっていない。誰かと一緒に昼を食べることもあるし、一人のこともある。今日は一人だった。
パンを買って教室に戻る途中、廊下の窓から外を見た。
空が、朝より暗くなっている。
「降りますね」
声がして、樹は振り返った。白瀬だった。同じように外を見ている。
「予報だと降らないって」
「降ります」
白瀬は断言した。
「湿った匂いがします。あと二時間くらいでしょうか」
「……分かるんだ」
「エルフはだいたい分かります。というより、人間が分からないことの方が不思議です」
白瀬は少し首を傾げた。
「みなさん、どうやって明日の予定を決めているんですか」
「天気予報を見て決めてる」
「当たらないのに?」
「当たらないこともあるけど……まぁ、だいたい当たるから」
「だいたい」
白瀬はその言葉を、珍しいものを見るように繰り返した。
樹は少しおかしくなった。母と同じ反応だった。
「白瀬さんは、傘持ってるの」
「持っていません」
「え」
「降ったら、止むまで待ちます」
あまりに自然に言うので、樹は一瞬言葉に詰まった。
「……何時間かかっても?」
「はい。急ぐ用事はありませんから」
樹は、三月のことを思い出した。
あの日、彼女は急いだ。校庭を横切って、走らないまま、樹が見たどのエルフよりも速く歩いていった。
急ぐ用事があるときは、この人も急ぐのだ。
午後の授業中に、雨が降り始めた。
白瀬の予告から、一時間半ほどだった。
最初は窓に点が散る程度だったのが、六時間目の途中には本降りになった。教室のあちこちで、傘を持ってきていない生徒がざわつき始める。
「うわ、降ってきた」
「傘ないんだけど」
「予報外れじゃん」
放課後、昇降口は人だかりになっていた。
傘を持っている者が、持っていない者を入れて二人で帰る。走って帰ると言い出す者もいる。ドワーフの生徒が「濡れても風邪なぞひかん」と言って、そのまま雨の中へ出ていった。
樹は下駄箱の前で、鞄を持ったまま立っていた。
当然、傘はない。母に言われたのに、置いてきた。
「相原くん」
早坂が、折りたたみ傘を持って立っていた。
「傘、ないでしょ」
「うん」
「駅まで一緒に行く?」
樹は少し迷った。断る理由はない。ただ、自分が入ることで早坂が濡れるのが分かっていた。折りたたみ傘は小さい。
「大丈夫。走るよ」
「濡れるよ」
「濡れても大丈夫」
早坂は少し困った顔をして、それから息を吐いた。
「相原くん、そういうとこもあるよね」
「そういうとこ?」
「自分が入ると誰かが濡れるって、たぶん考えてる」
樹は黙った。当たっていた。
「言っとくけど、それ、私が損してるみたいになるから。やめて」
「あ」
初めて言われた指摘だった。
断ることで相手に気を遣わせている。そういう考え方を、樹はしたことがなかった。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。入って」
樹は傘に入れてもらった。案の定、二人とも肩が濡れた。
昇降口を出て少し歩いたところで、樹は足を止めた。
中庭の軒下に、白瀬が座っていた。
膝の上に鞄を置いて、雨を見ている。焦っている様子はない。本も読んでいない。ただ、雨を見ている。
「白瀬さん」
「相原くん」
「帰らないの」
「止むのを待っています」
早坂が横で目を丸くした。
「白瀬さん、これ夜まで降るよ」
「そうですか」
「そうですかって……」
「では、夜まで待ちます」
早坂が助けを求めるように樹を見た。
樹は少し考えて、それから言った。
「白瀬さん、傘って知ってる?」
「知っています。持っていないだけです」
「なんで持ってないの」
白瀬は、少し黙った。
「必要だと思ったことがありませんでした」
その言い方に、樹は引っかかった。過去形だった。
「……今は?」
白瀬は雨を見たまま、答えた。
「三月から、少し変わりました」
樹は何も言わなかった。
「あの人は、待ちません。雨が降ったら走ります。用事があるからです」
白瀬の声は、いつもと同じ落ち着き方をしていた。
「私が止むまで待っている間に、あの人はもう次のところへ行っています。私は、それをずっと『速い人だ』と思って見ていました」
「うん」
「でも、待っているだけの人と一緒にいるのは、たぶん、疲れます」
樹は、そこで初めて、白瀬が困っているのだと気づいた。
この人は今、傘を買うかどうかで悩んでいる。三か月かけて、まだ結論が出ていない。
――エルフにとって、それは早い方なのかもしれない。
「白瀬さん」
「はい」
「傘って、待たないための道具じゃないと思う」
白瀬が、初めて樹の方を見た。
「濡れないための道具だよ。待つかどうかは、別の話じゃないかな」
「……別の話」
「うん。傘を持ってても、待ちたいときは待てる。持ってなかったら、待つしかない」
樹は自分でも、うまく言えている気がしなかった。
「選べる方が、いいと思う」
白瀬は、しばらく黙っていた。
雨音だけが、軒下に響いていた。
「相原くん」
「はい」
「私、傘を買ったら、あの人に合わせるために買ったことになりますか」
その質問に、樹は少し驚いた。
この人は、自分を明け渡すことを恐れている。二千年の側から百年の側へ降りていくことが、自分を失うことなのではないかと、たぶんずっと考えている。
樹は、四月の山のことを思い出した。
母は言った。私は優しくてこうしているんじゃありません、自分のためです、と。
「たぶん、逆だと思う」
「逆?」
「合わせるために買うんじゃなくて、選べるようにするために買うんだと思う」
白瀬は、まばたきをした。
「……なるほど」
「僕の母がエルフなんだけど」
「はい」
「今朝、傘を持っていけって言われた。僕が断ったら、『まあ、なんとかなりますね』って引き下がった」
「エルフらしいです」
「うん。でも、母は傘を持ってる」
白瀬が、少しだけ目を見開いた。
「持ってて、使わない日もある。使う日もある。持ってるから、選べる」
樹は、それだけ言った。
白瀬はしばらく雨を見ていた。それから、静かに立ち上がった。
「駅前に、傘を売っている店はありますか」
「あるよ。商店街の入口の金物屋さん」
「……濡れて行くことになりますね」
「うん」
「傘を買いに行くのに、傘がないんですね」
白瀬がそう言って、少しだけ笑った。
樹が見た中で、たぶん一番はっきりした笑い方だった。
「相原くん、傘、入れてください」
「あ、うん」
早坂が慌てて言った。
「三人は無理だって」
結局、三人で肩を濡らしながら商店街まで歩いた。
その日の夜、店に出勤すると、千夏がカウンターで洗い物をしていた。
「おう、濡れてるじゃねえか」
「傘、忘れて」
「アホか」
千夏はタオルを投げてよこした。
「今日、暇だぞ。雨だからな」
実際、客はまばらだった。雨の日の店は静かになる。石窯の火だけが、いつもと同じ音を立てている。
「千夏さん」
「なんだ」
「傘って、持ってますか」
「持ってるに決まってんだろ」
「使いますか」
「使うときは使う。使わねえときは走る」
あっさりした答えだった。
「……それ、いいですね」
「なんだそりゃ」
千夏は不思議そうな顔をして、洗い物に戻った。
樹は窓の外を見た。
雨は、まだ降っている。夜まで降ると早坂は言っていたが、その通りになりそうだった。
商店街の金物屋で、白瀬は一番地味な傘を選んだ。透明でも、花柄でもない、濃い紺色の傘だった。
「長く使いますから」と彼女は言った。
二千年生きる人が言う「長く」は、たぶん樹の想像しているものとは違う。それでも、あの傘は今日から使われる。
【境見町 異文化生活マナー帳 第十二条より】
エルフの「ちょっと待ってください」は、人間の体感で一ヶ月を意味することがある。
今回もお読みいただきありがとうございます(*´꒳`*)
エルフは天気が分かります。
分かるのに、傘は持ちません。
「降ったら止むまで待てばいい」からです。
……最長二千年生きる人の「待つ」は、私たちの「待つ」とはたぶん別物ですね。
白瀬さんは紺色の傘を買ったそうです。
長く使います、と。
その「長く」とは、何年くらいでしょうね。
そして相原樹くん。
自分が濡れることは平気なのに、自分のせいで誰かが濡れることは平気じゃないタイプです。
早坂さんに怒られてしまいました。
コミュニケーションって難しい。
でも、これがコミュニケーションの面白さでもありますね。
次回、店の話に戻ります。
また次回のご来店、お待ちしております( ・∀・)




