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第十四話 濡れない客

 六月に入って、境見町は梅雨に沈んだ。


 雨の日の店は静かだ。昼の家族連れが減り、夜の常連もいつもより早く帰る。千夏はカウンターを拭きながら、外の雨音を聞いていた。


「暇だなあ」


 誠司が石窯の前でしゃがんでいる。火の番をしているというより、暇を持て余して座り込んでいるだけだ。


「店長、それ、去年も言ってましたよ」


「言ったな。梅雨は毎年こうだ」


 樹はホールの椅子を拭き終えて、傘立ての整理を始めた。雨の日は客が傘を忘れていく。忘れ物の傘が、この時期は毎年増える。


「三本増えました」


「持ち主、来るかね」


「一本は蜂谷さんのです。名前書いてあるので」


「あの人、去年も忘れてったろ」


 千夏が笑った。

 その時、扉のベルが鳴った。



「いらっしゃいませ」


 樹の声が、途中で止まった。

 千夏は布巾を持ったまま、入口を見た。

 旅装の男が立っていた。


 千夏は覚えている。冬に二度ほど来た客だ。前夜祭の夜にも来ていた。それから顔を見ていなかったから、三か月以上は空いている。


「お久しぶりです」


 樹が言った。声が少しだけ硬い。


「ああ」


 男はカウンターの一番端に座った。誰も案内していない。前と同じ席だ。


「同じのを」


「マルゲリータですね」


 千夏は注文を通しながら、ふと引っかかった。

 ――濡れてない。


 外は本降りだ。今日は朝から一度も止んでいない。傘を差していても、肩や裾は必ず濡れる。この店の客は全員そうだった。

 だがその男は、旅装の外套が乾いていた。髪も濡れていない。


「お客さん、傘は?」


 千夏はタオルを差し出しながら聞いた。


「持っていない」


「濡れてないですけど」


「軒を伝ってきた」


 男はタオルを受け取らずに答えた。


「商店街のアーケードから、荒れた通りの庇を拾って歩けば、ここまでほとんど濡れずに来られる。三か所だけ、途切れているところがあるが」


 千夏は口を開けた。


「……そんな道あるか?」


「ある」


 男はそれ以上説明しなかった。

 千夏は、この町で二十年暮らしている。商店街も荒れた通りも、毎日歩いている。そんな道は知らない。


 厨房の樹が、皿を持ったまま動きを止めていた。



 ピザが焼き上がる頃、誠司がカウンターの向こうから声をかけた。


「お客さん、こないだぶりですね」


「そうだな」


「今日はどちらから」


「北だ」


 千夏の手が止まった。

 北は、独立自治区だ。


「あー、検問、混んでました?」


 誠司は、まったく調子を変えずに聞いた。


「いつも通りだ。並んだ」


「そうですか。ご苦労さまです」


 それだけだった。

 誠司はピザを切り分けて、皿に乗せた。

 千夏は、自分が身構えていたことに気づいて、少し恥ずかしくなった。マナー帳の第二十二条は「自治区帰りの客には、詮索しないこと」だ。第七十一条は「出身より、今どう生きているかを見る」。

 条文は覚えている。覚えているのに、体が先に反応した。


「お待たせしました」


 千夏が皿を運ぶと、男は短く「どうも」と言った。



 客が引けて、店内は男一人になった。


 誠司は仕込みに入り、樹は洗い物をしている。千夏はカウンターを拭きながら、なんとなくその男の近くにいた。


「兄ちゃん」


 男が、洗い場の樹に声をかけた。


「はい」


「あれ、まだ棚にあるか」


 樹の手が止まった。千夏には何のことか分からなかった。


「……あります」


「そうか」


「見ますか」


「いや」


 男は水を一口飲んだ。


「見ない方がいい」


 樹が黙った。

 千夏は布巾を止めて、二人を交互に見た。


「なんの話だ」


「寄せ書きです」


 樹が答えた。


「二月に、店長と棚の整理をしたときに出てきた帳面があって。常連が節目に書いていくやつです」


「ああ、あれか。私も書いたぞ」


「はい」


 千夏は思い出した。二月の暇な日、カウンターに出しっぱなしになっていた古い帳面。自分の名前と日付を書いて、それきりだった。

 あの日、この男は書かなかった。書くと話がややこしくなる、と言って。


「なんで、見ない方がいいんだ」


 千夏が聞くと、男はしばらく黙った。


「昔の字は、読めない方がいいこともある」


「どういう意味だ」


「読めると、答えが出る」


 男はピザの最後の一切れに手を伸ばした。


「答えが出ると、そこで止まる」


 千夏は、意味が分からなかった。分からないまま、それ以上聞けなかった。



 男が会計を済ませて、扉に向かう。

 千夏は、その背中に声をかけた。


「なあ」


 男が振り返った。


「あんた、この町の人か」


「違う」


「じゃあ、なんで軒の道なんか知ってるんだ」


 男は少し黙った。


「濡れるのが嫌いだからだ」


「答えになってねえよ」


「そうだな」


 男は否定しなかった。それから、店の中を一度だけ見回した。

 石窯、丸テーブル、壁の古い写真。カウンターの木目。

 視線が、少しだけ長かった。


「いい店だ」


「知ってる」


 千夏がそう返すと、男は初めて笑ったように見えた。


「――そうか」


 扉が開いて、雨の音が大きくなった。

 男は傘を差さずに出ていった。



「なあ、樹」


 閉店作業をしながら、千夏は聞いた。


「あの人、なんなんだ」


「分かりません」


「お前、なんか知ってるだろ」


 樹は皿を拭く手を止めた。少し迷ってから、口を開いた。


「一番古い寄せ書きの、最初の何頁かが、切り取られてるんです」


「は?」


「破ったんじゃなくて、丁寧に切ってあります。紙の端に沿って、真っ直ぐに」


「いつの話だ」


「分かりません。切り口も同じくらい黄ばんでるので、たぶん、ずっと前です」


 千夏は、しばらく黙った。


「なんで言わなかったんだ」


「言っても、誰も答えを持ってないので」


 樹はそう言って、また皿を拭き始めた。


「あの人、それを知ってるんだと思います。知ってるから、見ない方がいいって言ったんだと思います」


「……そうか」


 千夏は、自分がその話をどう受け止めればいいのか分からなかった。

 この店は、町より古い。誰も創業年を知らない。長寿のエルフでも「昔からあった」としか言わない。

 そういうものだと思って生きてきた。深く考えたことはなかった。


「気になるか」


「気になります」


 樹は素直に答えた。


「でも、聞かない方がいい気もします」


「なんでだ」


「あの人、たぶん、答えを持ってる人なので」


 樹は皿を棚に戻した。


「持ってる人が言わないってことは、言わない理由があるんだと思います」


 千夏は、思わず笑ってしまった。


「お前、それ、誰かに似てんな」


「え?」


「うちの親父だよ」


 千夏はモップを取りに行った。

 十七年、知らないふりをした男。理由は「言ったらやめると思ったから」だった。

 言わないことにも、理由がある。



 店を出ると、雨はまだ降っていた。


「傘、持ってきたか」


「はい。今日は忘れませんでした」


「偉い」


 千夏は自分の傘を開いて、ふと足を止めた。

 店の前から、荒れた通りの方を見る。古い建物が並んでいて、庇が続いている。

 ――ここから、商店街まで。


「なあ樹。あの人の言ってた道、あると思うか」


「分かりません」


「試してみるか」


「今からですか」


「濡れるだけだろ」


 千夏はそう言って、傘を差したまま歩き出した。

 庇を見上げながら歩くと、確かに、屋根が続いている場所があった。空き店舗の軒、古い商店の張り出し、アーケードの端。

 三か所ほど、途切れていた。


「……あるな」


「ありますね」


 千夏は傘を閉じてみた。庇の下は、確かに濡れない。


「なんで気づかなかったんだ、私」


「傘を持ってるからじゃないですか」


 樹がそう言った。


「傘があると、上を見ないので」


 千夏は、しばらくその言葉を考えた。

 毎日通っている道だ。二十年歩いている。それでも見ていなかったものがある。

 あの男は、傘を持たない。だから見えている。


「……なるほどな」


 千夏は傘を開き直して、歩き出した。

 六月の雨は、まだしばらく続きそうだった。



【境見町 異文化生活マナー帳 第二十二条より】

自治区帰りの客には、詮索しないこと。

聞かれたくないことは、たいてい聞かれたくない。

今回もお読みいただきありがとうございます( ˙▿˙ )


雨の日に濡れずに歩ける道。

たぶん、あなたの町にもあります。

気づいていないだけで。

……なんて。


旅装のお客さん、また来ました。

そして、また何も教えてくれませんでした。


「読めると、答えが出る」

「答えが出ると、そこで止まる」


……何が止まるんでしょうね。


次回、少しだけ晴れます☀

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