第十五話 書き留める人
境見町役場の二階、いちばん奥に、異文化相談窓口という部署がある。
名前は立派だが、実態は机が三つと本棚が二つだけの小さな部屋だ。涌井はそこで、朝から判を押していた。
「涌井さん、これ回覧」
「はい」
「あと、下の受付から。マナー帳の在庫が切れそうだって」
「もう? 先月刷ったばかりですよ」
「改訂版だからでしょ。みんな新しいの欲しがるんだよ」
同僚がそう言って笑った。
六月に入って配布が始まった改訂版は、これまでで一番よく出ている。理由は分かっている。第百一条と第百二条が、初めて載った版だからだ。
「今回は二条増えたな、って言われましたよ、昨日」
「言われますよね、それ」
「毎回言われる」
住民は、この帳面が増えることを楽しみにしている。第九十二条にもそう書いてある。書いたのは涌井ではない。何代か前の担当者だ。
窓口には、朝から数人が訪ねてきた。
ドワーフの職人が「うちの新人が挨拶しないんだが、これはエルフの文化なのか」と聞きに来た。涌井が「いえ、その方の性格だと思います」と答えると、納得して帰っていった。
次に来た老婦人は、特に用件がなかった。天気の話を十五分して帰った。
異文化相談窓口には、こういう人の方が多い。相談ではなく、世間話をしに来る。それでも追い返さない。第十九条にそう書いてある。
昼を過ぎた頃、一人の女性が入ってきた。
エルフだった。年齢は分からない。エルフの年齢はいつも分からない。
手に、配られたばかりの改訂版を持っていた。
「異文化相談窓口は、こちらですか」
「はい。どうぞ、おかけください」
女性は椅子に座って、しばらく黙っていた。それから、帳面を机の上に置いた。
「これの、百二条を、取り下げていただけませんか」
涌井は、一瞬だけ動きを止めた。
第百二条。ハーフの家には、一年の始まりが二度来ることがある。どちらも本気でやること。面倒だが、その分うまいものが二度食える。
三か月前、この部屋で自分が清書した条文だった。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
涌井はそう言った。
規則ですので、とは言わなかった。窓口に立って七年、その言葉を使ったことは一度もない。第四十六条にそう書いてある。書いたのは、涌井の二代前の担当者だ。
女性は少し驚いた顔をした。
「取り下げられない、とは言わないんですね」
「まだ、判断できませんので。先に事情を伺います」
女性は膝の上で手を組んだ。
「……気持ちのいい話ではありませんよ」
「構いません」
窓口の外で、雨が降り始めた音がした。
「夫は、人間です」
女性は、静かにそう切り出した。
「結婚して、三十年になります。この町に来たのは、二十年ほど前です」
「はい」
「子どもは、いません」
涌井は、ペンを持つ手を止めなかった。メモを取り続けた。相槌も打たなかった。話している人の言葉を、途中で自分の反応で切らないようにする。これは条文には書いていない。窓口で覚えたことだ。
「エルフは、あまり子どもができません。ご存じですか」
「存じています」
「人間の方と一緒になると、もっとできません。何十年に一人、というくらいです」
「はい」
「私たちも、そうでした」
女性は帳面の表紙を指でなぞった。
「悔やんではいません。夫とも、ずいぶん前に話しました。もう終わった話です」
「はい」
「ただ」
そこで、初めて声が小さくなった。
「百一条と百二条ができたと聞いて、読みました。町がハーフの人のことを考え始めたのだと思いました。いいことです。本当に、いいことだと思います」
涌井は黙っていた。
「でも、私の家には、一年の始まりは一度しか来ません」
雨音が、少しだけ強くなった。
「二度来る家のための条文が、この町の決まりになりました。私はそれを読んで……なんと言えばいいんでしょうね。取り残されたような気持ちになりました」
女性は少し笑った。
「勝手な話です。分かっています。だから取り下げてくれというのも、おかしな話です」
「おかしくはありません」
涌井が言うと、女性は顔を上げた。
「条文が誰かを傷つけることは、あります。過去にもありました」
「……そうなんですか」
「はい。何度か作り直しています」
涌井は立ち上がって、本棚から古い綴じ帳を取り出した。
背が擦り切れた、分厚い綴じ帳だった。それを机の上に開く。
中は、条文ではなかった。走り書きだった。日付と、名前の頭文字だけと、誰かの言葉が、びっしりと並んでいる。
「これは何ですか」
「編纂ノートです。歴代の担当者が、窓口で聞いた話を書き留めたものです」
女性は覗き込んだ。
「条文になっていないものが、ほとんどです。ここにある話の百分の一くらいが、条文になります」
「残りは」
「残ります。ノートの中に」
涌井はページをめくった。何十年も前の、知らない誰かの筆跡が続いている。
「たとえばこれは、ドワーフの方が『葬式で笑ったら怒られた』と言いに来た記録です。二十年後に、第三十三条になりました」
「二十年」
「そういうものです。書き留めておかないと、条文にはなりようがないので」
涌井はノートの一番前を開いた。
最初の頁に、一行だけ書いてある。
――この町の決まりは、住んでいる人が作る。役場は書き留めるだけである。
「これは、誰が書いたんですか」
「分かりません」
涌井は正直に答えた。
「私が引き継いだときには、もうありました。前任者も知りませんでした」
女性は、その一行をしばらく見ていた。
「取り下げは、できません」
涌井はそう言った。
「百二条は、ある人の実感から生まれたものです。それを消すと、その人の実感がなかったことになります」
「……はい」
「でも、あなたの話は、まだどこにも書かれていません」
涌井はペンを持ち直した。
「記録させてください」
女性は、少し目を見開いた。
「条文になるんですか」
「分かりません」
「分からないのに、書くんですか」
「書かないと、なりようがないので」
女性は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと話し始めた。
「うちには、一年の始まりが一度しか来ません」
涌井は書いた。
「でも、その一度を、三十年やってきました」
ペン先が、紙の上で少し止まった。
「夫は人間ですから、正月です。私は正月というものをよく分かっていませんでしたが、三十年やれば覚えます。今では私の方が段取りがいいくらいです」
「はい」
「新緑の日は、夫が休みを取ってくれます。山を見に行くだけですけれど」
涌井は書き続けた。
「二度来る家は、うらやましいです。でも、一度しかない家にも、三十年分の一度があります」
女性はそこで言葉を切った。
「……こんなことを言いに来たつもりは、なかったんですけどね」
「よくあります」
涌井は書き終えて、顔を上げた。
「窓口に来る方は、だいたい、来たときと違うことを話して帰られます」
女性が帰ったあと、涌井は綴じ帳を閉じた。
条文にするかどうかは、今日は決めない。決められない。
第百一条には「正解は書かない」と書いてある。あれを起草したのは自分だが、元の言葉は高校生のものだった。決めていいのは本人である、と。
今日の話も、たぶんそうだ。誰かが決めるものではない。
窓の外は、まだ雨だった。
夜、涌井は『ハーフ&ハーフ』の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。あ、涌井さん」
樹が迎えた。カウンターに座ると、水が出てくる。
「今日、マルゲリータで」
「はい」
それきり、樹は何も聞かなかった。
涌井は少しだけ、ありがたいと思った。窓口では一日中、人の話を聞いている。聞くのは仕事だから構わないが、自分が話す側に回るのは、今日はしんどかった。
石窯の火の音がする。千夏が奥で何か言い、誠司が言い返している。
ピザが出てきて、涌井はそれを食べた。
半分ほど食べたところで、樹がぽつりと言った。
「あの、百二条って、評判どうですか」
涌井は少し考えてから、答えた。
「好評ですよ」
「そうですか」
「反対の意見もあります」
樹が顔を上げた。
「……そうなんですか」
「条文というのは、そういうものです」
涌井はそれ以上言わなかった。今日の話をここでするのは違う気がした。あの女性が話したことは、あの部屋に置いておくものだ。
「でも、書いてよかったと思っています」
「はい」
樹は少しだけ安心したような顔をして、皿を下げに行った。
涌井は残りを食べながら、壁の古い写真を見た。
いつからあるのか分からない写真が、何枚か混ざっている。この店は町より古いという。町の記録にも、創業年は残っていない。
――誰かが、書き留めなかったのだ。
涌井はそう思って、少しだけおかしくなった。
書き留めるのが仕事の人間からすると、それは、ずいぶん惜しいことだった。
【境見町 異文化生活マナー帳 第四十六条より】
役場の窓口で「規則ですので」と言うのは簡単だが、
境見町ではまず「事情を聞かせてください」から始めるのが暗黙のルール。
今回もお読みいただきありがとうございます(・∀・)
涌井さん、初めての主役回でした。
判を押して、話を聞いて、書き留める人です。
条文というのは、誰かを救うために作られて、
別の誰かを取り残すことがあります。
それでも作るし、それでも聞く。
編纂ノートの一番前の一行。
「この町の決まりは、住んでいる人が作る。役場は書き留めるだけである」
……誰が書いたんでしょうね。
次回、七月です。
そろそろ梅雨が明けますかね。
晴れるみたいです。




