表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/25

第十五話 書き留める人

 境見町役場の二階、いちばん奥に、異文化相談窓口という部署がある。


 名前は立派だが、実態は机が三つと本棚が二つだけの小さな部屋だ。涌井はそこで、朝から判を押していた。


「涌井さん、これ回覧」


「はい」


「あと、下の受付から。マナー帳の在庫が切れそうだって」


「もう? 先月刷ったばかりですよ」


「改訂版だからでしょ。みんな新しいの欲しがるんだよ」


 同僚がそう言って笑った。

 六月に入って配布が始まった改訂版は、これまでで一番よく出ている。理由は分かっている。第百一条と第百二条が、初めて載った版だからだ。


「今回は二条増えたな、って言われましたよ、昨日」


「言われますよね、それ」


「毎回言われる」


 住民は、この帳面が増えることを楽しみにしている。第九十二条にもそう書いてある。書いたのは涌井ではない。何代か前の担当者だ。


 窓口には、朝から数人が訪ねてきた。

 ドワーフの職人が「うちの新人が挨拶しないんだが、これはエルフの文化なのか」と聞きに来た。涌井が「いえ、その方の性格だと思います」と答えると、納得して帰っていった。

 次に来た老婦人は、特に用件がなかった。天気の話を十五分して帰った。

 異文化相談窓口には、こういう人の方が多い。相談ではなく、世間話をしに来る。それでも追い返さない。第十九条にそう書いてある。



 昼を過ぎた頃、一人の女性が入ってきた。


 エルフだった。年齢は分からない。エルフの年齢はいつも分からない。

 手に、配られたばかりの改訂版を持っていた。


「異文化相談窓口は、こちらですか」


「はい。どうぞ、おかけください」


 女性は椅子に座って、しばらく黙っていた。それから、帳面を机の上に置いた。


「これの、百二条を、取り下げていただけませんか」


 涌井は、一瞬だけ動きを止めた。

 第百二条。ハーフの家には、一年の始まりが二度来ることがある。どちらも本気でやること。面倒だが、その分うまいものが二度食える。


 三か月前、この部屋で自分が清書した条文だった。


「……理由を、お聞かせいただけますか」


 涌井はそう言った。

 規則ですので、とは言わなかった。窓口に立って七年、その言葉を使ったことは一度もない。第四十六条にそう書いてある。書いたのは、涌井の二代前の担当者だ。


 女性は少し驚いた顔をした。


「取り下げられない、とは言わないんですね」


「まだ、判断できませんので。先に事情を伺います」


 女性は膝の上で手を組んだ。


「……気持ちのいい話ではありませんよ」


「構いません」


 窓口の外で、雨が降り始めた音がした。



「夫は、人間です」


 女性は、静かにそう切り出した。


「結婚して、三十年になります。この町に来たのは、二十年ほど前です」


「はい」


「子どもは、いません」


 涌井は、ペンを持つ手を止めなかった。メモを取り続けた。相槌も打たなかった。話している人の言葉を、途中で自分の反応で切らないようにする。これは条文には書いていない。窓口で覚えたことだ。


「エルフは、あまり子どもができません。ご存じですか」


「存じています」


「人間の方と一緒になると、もっとできません。何十年に一人、というくらいです」


「はい」


「私たちも、そうでした」


 女性は帳面の表紙を指でなぞった。


「悔やんではいません。夫とも、ずいぶん前に話しました。もう終わった話です」


「はい」


「ただ」


 そこで、初めて声が小さくなった。


「百一条と百二条ができたと聞いて、読みました。町がハーフの人のことを考え始めたのだと思いました。いいことです。本当に、いいことだと思います」


 涌井は黙っていた。


「でも、私の家には、一年の始まりは一度しか来ません」


 雨音が、少しだけ強くなった。


「二度来る家のための条文が、この町の決まりになりました。私はそれを読んで……なんと言えばいいんでしょうね。取り残されたような気持ちになりました」


 女性は少し笑った。


「勝手な話です。分かっています。だから取り下げてくれというのも、おかしな話です」


「おかしくはありません」


 涌井が言うと、女性は顔を上げた。


「条文が誰かを傷つけることは、あります。過去にもありました」


「……そうなんですか」


「はい。何度か作り直しています」



 涌井は立ち上がって、本棚から古い綴じ帳を取り出した。


 背が擦り切れた、分厚い綴じ帳だった。それを机の上に開く。

 中は、条文ではなかった。走り書きだった。日付と、名前の頭文字だけと、誰かの言葉が、びっしりと並んでいる。


「これは何ですか」


「編纂ノートです。歴代の担当者が、窓口で聞いた話を書き留めたものです」


 女性は覗き込んだ。


「条文になっていないものが、ほとんどです。ここにある話の百分の一くらいが、条文になります」


「残りは」


「残ります。ノートの中に」


 涌井はページをめくった。何十年も前の、知らない誰かの筆跡が続いている。


「たとえばこれは、ドワーフの方が『葬式で笑ったら怒られた』と言いに来た記録です。二十年後に、第三十三条になりました」


「二十年」


「そういうものです。書き留めておかないと、条文にはなりようがないので」


 涌井はノートの一番前を開いた。

 最初の頁に、一行だけ書いてある。


 ――この町の決まりは、住んでいる人が作る。役場は書き留めるだけである。


「これは、誰が書いたんですか」


「分かりません」


 涌井は正直に答えた。


「私が引き継いだときには、もうありました。前任者も知りませんでした」


 女性は、その一行をしばらく見ていた。



「取り下げは、できません」


 涌井はそう言った。


「百二条は、ある人の実感から生まれたものです。それを消すと、その人の実感がなかったことになります」


「……はい」


「でも、あなたの話は、まだどこにも書かれていません」


 涌井はペンを持ち直した。


「記録させてください」


 女性は、少し目を見開いた。


「条文になるんですか」


「分かりません」


「分からないのに、書くんですか」


「書かないと、なりようがないので」


 女性は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと話し始めた。


「うちには、一年の始まりが一度しか来ません」


 涌井は書いた。


「でも、その一度を、三十年やってきました」


 ペン先が、紙の上で少し止まった。


「夫は人間ですから、正月です。私は正月というものをよく分かっていませんでしたが、三十年やれば覚えます。今では私の方が段取りがいいくらいです」


「はい」


「新緑の日は、夫が休みを取ってくれます。山を見に行くだけですけれど」


 涌井は書き続けた。


「二度来る家は、うらやましいです。でも、一度しかない家にも、三十年分の一度があります」


 女性はそこで言葉を切った。


「……こんなことを言いに来たつもりは、なかったんですけどね」


「よくあります」


 涌井は書き終えて、顔を上げた。


「窓口に来る方は、だいたい、来たときと違うことを話して帰られます」



 女性が帰ったあと、涌井は綴じ帳を閉じた。


 条文にするかどうかは、今日は決めない。決められない。

 第百一条には「正解は書かない」と書いてある。あれを起草したのは自分だが、元の言葉は高校生のものだった。決めていいのは本人である、と。

 今日の話も、たぶんそうだ。誰かが決めるものではない。


 窓の外は、まだ雨だった。



 夜、涌井は『ハーフ&ハーフ』の暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ。あ、涌井さん」


 樹が迎えた。カウンターに座ると、水が出てくる。


「今日、マルゲリータで」


「はい」


 それきり、樹は何も聞かなかった。

 涌井は少しだけ、ありがたいと思った。窓口では一日中、人の話を聞いている。聞くのは仕事だから構わないが、自分が話す側に回るのは、今日はしんどかった。


 石窯の火の音がする。千夏が奥で何か言い、誠司が言い返している。


 ピザが出てきて、涌井はそれを食べた。

 半分ほど食べたところで、樹がぽつりと言った。


「あの、百二条って、評判どうですか」


 涌井は少し考えてから、答えた。


「好評ですよ」


「そうですか」


「反対の意見もあります」


 樹が顔を上げた。


「……そうなんですか」


「条文というのは、そういうものです」


 涌井はそれ以上言わなかった。今日の話をここでするのは違う気がした。あの女性が話したことは、あの部屋に置いておくものだ。


「でも、書いてよかったと思っています」


「はい」


 樹は少しだけ安心したような顔をして、皿を下げに行った。


 涌井は残りを食べながら、壁の古い写真を見た。

 いつからあるのか分からない写真が、何枚か混ざっている。この店は町より古いという。町の記録にも、創業年は残っていない。

 ――誰かが、書き留めなかったのだ。


 涌井はそう思って、少しだけおかしくなった。

 書き留めるのが仕事の人間からすると、それは、ずいぶん惜しいことだった。



【境見町 異文化生活マナー帳 第四十六条より】

役場の窓口で「規則ですので」と言うのは簡単だが、

境見町ではまず「事情を聞かせてください」から始めるのが暗黙のルール。

今回もお読みいただきありがとうございます(・∀・)


涌井さん、初めての主役回でした。

判を押して、話を聞いて、書き留める人です。


条文というのは、誰かを救うために作られて、

別の誰かを取り残すことがあります。

それでも作るし、それでも聞く。


編纂ノートの一番前の一行。

「この町の決まりは、住んでいる人が作る。役場は書き留めるだけである」

……誰が書いたんでしょうね。


次回、七月です。

そろそろ梅雨が明けますかね。

晴れるみたいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ