表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/26

第十六話 選ばなかった道

梅雨が明けた。


 七月最初の土曜日、境見町の空はいきなり夏になった。石窯の熱に外の暑さが重なって、厨房は朝から地獄になる。千夏は開店前から二本目の水を飲んでいた。


「もう無理だろ、この温度」


「まだ十時だぞ」


 誠司が扇風機の位置を変えながら答えた。


「今年、去年より暑くねえか」


「毎年言ってますよ、店長」


 樹がホールの窓を開けて回っている。学校は夏休みに入っていないが、今日は土曜で休みだ。


「千夏さん、氷、追加で頼まれてます」


「はいよ」


 千夏は製氷機の前でしゃがみ込んだ。夏場の仕込みは、半分が氷との戦いになる。



 昼の混雑が引けた頃、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、若い女が二人だった。片方は人間、片方はドワーフ。どちらも二十歳前後で、揃って大学生らしい格好をしている。


「あ」


 千夏が声を漏らした。

 人間の方が、こちらを見て目を丸くした。


「え、千夏? 真壁千夏?」


「……久しぶりだな」


「うそ、ここで働いてんの? やば、全然知らなかった」


 高校の同級生だった。名前は南。三年間、同じクラスだった年もある。もう一人のドワーフは一年下の後輩で、顔は覚えているが名前が出てこない。


「座れよ。何食う」


「え、いいの?」


「客だろ」


 二人は丸テーブルに座った。



 注文を通して、水を運ぶ。

 南はよく喋る。高校の頃からそうだった。


「あたし今、隣の市の大学。教育学部」


「へえ」


「教員免許取ろうと思って。でもさー、実習がキツくて」


「そうか」


「千夏は? ずっとここ?」


「高校出てすぐだから、二年ちょい」


「そっかー」


 南は少し間を置いてから、続けた。


「千夏、頭よかったのにね」


 悪気はない。それは分かった。千夏も特に何も感じなかった。事実、成績は悪くなかった。


「まあな」


「もったいなくない?」


「別に」


「大学、行きたくなかったの?」


 千夏は水差しを持ったまま、少しだけ答えに詰まった。


「……行きたくなかったな」


 嘘だった。

 南は「そっか」と言って、次の話題に移った。後輩の子が実習の話を始めて、テーブルは元の賑やかさに戻った。


 千夏は厨房に戻った。



 夕方、二人は帰っていった。


「またね、千夏」


「おう」


 扉が閉まって、店内が静かになる。

 千夏は空いた皿を下げて、洗い場に運んだ。それから、蛇口をひねって、しばらく水の音を聞いていた。


「千夏さん」


 樹が横に来た。


「なんだ」


「氷、もう一回追加しますか」


「ああ、頼む」


 樹は製氷機に向かった。それ以上は何も言わなかった。

 千夏は、その背中を少し見た。


 ――こいつは聞かねえんだよな。


 二年前のあの春、千夏は担任に呼び出された。

 進路希望調査の紙に、何も書かずに出したからだ。



 真壁家は、裕福ではない。


 父は消防士で、母はパートで働いている。生活に困ったことはない。飯は毎日出るし、道場の月謝も止められたことはない。

 ただ、余裕があるわけでもなかった。

 高校三年の秋、千夏は台所の棚の奥に、封筒があるのを見つけた。中身は見なかった。表に母の字で「千夏 進学」と書いてあった。


 厚みで分かった。何年もかけて積んだ金だ。

 母のパート代がどれくらいか、千夏は知っていた。父の給料も、だいたい見当がついていた。その中から、あれだけを別にしていたということだ。


 千夏は封筒を戻して、何も言わなかった。


 その冬、進路希望調査の紙に、何も書かなかった。

 担任には「働きます」と言った。母には「大学、興味ねえわ」と言った。母は「そう」とだけ言って、それきり何も聞かなかった。

 父は「働くなら、本気で働け」と言った。それだけだった。


 封筒のことは、今も言っていない。



「千夏」


 閉店後、誠司がカウンターで帳簿をつけながら声をかけた。


「なんですか」


「昼間の子、同級生か」


「はい」


「そうか」


 誠司はそれ以上聞かなかった。この人はこういうところがある。無神経なくせに、たまに妙に気を回す。


「あのな、千夏」


「はい」


「うち、来年から時給上げるわ」


 千夏は顔を上げた。


「え?」


「二年やってもらってるし、そろそろな」


「いや、それは……」


「あと、これは相談だけどよ」


 誠司は帳簿から顔を上げた。


「お前、社員にならんか」


 千夏は、しばらく返事ができなかった。


「……社員」


「バイトのままだと、こっちも都合悪いんだよ。仕込みも発注も、もう半分お前がやってるだろ。責任の所在が曖昧なままだと、いつか事故る」


「はあ」


「まあ、すぐ決めなくていい。考えといてくれ」


 誠司はそう言って、また帳簿に戻った。

 千夏は洗い場に立ったまま、動けなかった。



 その夜、千夏が家に帰ると、母が台所にいた。


「おかえり」


「ただいま」


 志乃は洗い物を終えるところだった。背が高いので、流しの前ではいつも少し前かがみになる。

 千夏は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。


「母さん」


「なに」


「今日、南に会った」


「南ちゃん? 高校の」


「そう。大学生やってた。教育学部だと」


「へえ。あの子、先生になるの」


「らしい」


 千夏は麦茶を飲んだ。


「もったいないって言われた」


 志乃の手が、一瞬だけ止まった。


「……そう」


「別に、腹は立たなかった。あいつ悪気ねえし」


「そうねえ」


 志乃は布巾で手を拭いて、千夏の方を向いた。


「千夏」


「なんだよ」


「あの封筒、見たでしょう」


 千夏は、コップを持ったまま固まった。


「……なんで」


「置き方が変わってたから」


 千夏は言葉が出なかった。母は、いつもこうだ。道着の乾き方で気づく人だ。封筒の角度くらい、見逃すわけがなかった。


「三年の秋よね。あのあとすぐ、進路の紙、白紙で出したって連絡が来たから」


「……」


「だから、そういうことなんだろうと思ってた」


 志乃は椅子に座った。


「聞かなかったのは、あんたが言わなかったからよ」


 千夏は、テーブルの木目を見ていた。


「使えって言うんだろ、あれ」


「言わないわよ」


 あっさりした答えだった。


「え?」


「あれは、あんたが大学に行くなら使うお金。行かないなら、使わないお金。それだけの話」


「じゃあ、どうすんだよ」


「置いてある」


 志乃は当たり前のように言った。


「あんたが四十でも五十でも、行きたくなったら使えばいいでしょう。ドワーフの血が入ってるんだから、時間はいくらでもあるじゃない」


 千夏は、顔を上げた。


「……そんな先か」


「そうよ。私は先に死ぬけど、置いておけば残るもの」


 あまりにも平然と言うので、千夏は言い返せなかった。

 母は人間だ。父は五百年生きる。自分は、たぶんその間のどこかだ。

 この家では、その話を誰もしない。しないまま、母は封筒を置いている。


「母さん、あんた」


「なに」


「たまに怖いんだよ」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 志乃は笑って、立ち上がった。



「あのさ」


 千夏は、母の背中に声をかけた。


「店長に、社員にならないかって言われた」


 志乃は振り返った。


「そう」


「どう思う」


「あんたはどう思うの」


「……分かんねえ」


 千夏は正直に言った。


「バイトのままなら、まだ何にでもなれる気がする。社員になったら、たぶんそのままだ」


「そうねえ」


「でも、あの店にいるのは、嫌じゃない」


「うん」


「どっちも本当なんだよ」


 志乃は少し考えるように、天井を見た。


「じゃあ、どっちも取っておけば」


「は?」


「決めなくても、明日も店は開くでしょう」


 千夏は口を開けたまま、しばらく母を見ていた。


「……それ、答えになってねえよ」


「なってるわよ」


 志乃はそう言って、台所の電気を消した。



 部屋に戻って、千夏は布団に転がった。


 封筒のことを、母は知っていた。知っていて、二年半、何も言わなかった。

 父は十七年、拳だこに気づかないふりをした。

 この家は、そういう家だ。気づいていて、言わない。言わないまま、置いておく。


 千夏は右手を目の前にかざした。指の付け根の、硬くなった皮膚。

 ――もったいなくない?

 昼間の南の言葉を思い出した。


 もったいないのかもしれない。分からない。

 ただ、あの日、封筒を戻した自分のことを、間違っていたとは思えなかった。あれは選ばされたのではなく、選んだのだ。

 髪の色と同じだ。決められるところは、自分で決める。


 千夏は寝返りを打って、目を閉じた。

 窓の外から、夏の虫の音が聞こえていた。梅雨が明けて、境見町の夏が始まっている。


 社員の話は、まだ決めない。

 急ぐことでもない。時間なら、まだいくらでもある。



【境見町 異文化生活マナー帳 第四十三条より】

ドワーフは残業を苦にしない。

ただし「働かせすぎ」と外から思われることには敏感なので、無理に休ませようとすると逆に怒られる。

今回もお読みいただきありがとうございます( ˘ω˘ )


千夏が大学に行かなかった理由でした。


台所の棚の奥に、封筒があります。

表に「千夏 進学」と書いてあります。

中身は見ていません。厚みで分かったからです。


真壁家は、気づいていて言わない家です。

父は十七年、母は二年半。

そして今も、封筒は置いてあります。


千夏さん、店長から社員のお誘いを受けました。

まだ決めていません。

決めなくても、明日も店は開きます。

きっと千夏さんには千夏さんの、迷いの理由があって。

彼女もまた、それを言葉にしないタチなのでしょう。


次回、夏です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ