第十六話 選ばなかった道
梅雨が明けた。
七月最初の土曜日、境見町の空はいきなり夏になった。石窯の熱に外の暑さが重なって、厨房は朝から地獄になる。千夏は開店前から二本目の水を飲んでいた。
「もう無理だろ、この温度」
「まだ十時だぞ」
誠司が扇風機の位置を変えながら答えた。
「今年、去年より暑くねえか」
「毎年言ってますよ、店長」
樹がホールの窓を開けて回っている。学校は夏休みに入っていないが、今日は土曜で休みだ。
「千夏さん、氷、追加で頼まれてます」
「はいよ」
千夏は製氷機の前でしゃがみ込んだ。夏場の仕込みは、半分が氷との戦いになる。
昼の混雑が引けた頃、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、若い女が二人だった。片方は人間、片方はドワーフ。どちらも二十歳前後で、揃って大学生らしい格好をしている。
「あ」
千夏が声を漏らした。
人間の方が、こちらを見て目を丸くした。
「え、千夏? 真壁千夏?」
「……久しぶりだな」
「うそ、ここで働いてんの? やば、全然知らなかった」
高校の同級生だった。名前は南。三年間、同じクラスだった年もある。もう一人のドワーフは一年下の後輩で、顔は覚えているが名前が出てこない。
「座れよ。何食う」
「え、いいの?」
「客だろ」
二人は丸テーブルに座った。
注文を通して、水を運ぶ。
南はよく喋る。高校の頃からそうだった。
「あたし今、隣の市の大学。教育学部」
「へえ」
「教員免許取ろうと思って。でもさー、実習がキツくて」
「そうか」
「千夏は? ずっとここ?」
「高校出てすぐだから、二年ちょい」
「そっかー」
南は少し間を置いてから、続けた。
「千夏、頭よかったのにね」
悪気はない。それは分かった。千夏も特に何も感じなかった。事実、成績は悪くなかった。
「まあな」
「もったいなくない?」
「別に」
「大学、行きたくなかったの?」
千夏は水差しを持ったまま、少しだけ答えに詰まった。
「……行きたくなかったな」
嘘だった。
南は「そっか」と言って、次の話題に移った。後輩の子が実習の話を始めて、テーブルは元の賑やかさに戻った。
千夏は厨房に戻った。
夕方、二人は帰っていった。
「またね、千夏」
「おう」
扉が閉まって、店内が静かになる。
千夏は空いた皿を下げて、洗い場に運んだ。それから、蛇口をひねって、しばらく水の音を聞いていた。
「千夏さん」
樹が横に来た。
「なんだ」
「氷、もう一回追加しますか」
「ああ、頼む」
樹は製氷機に向かった。それ以上は何も言わなかった。
千夏は、その背中を少し見た。
――こいつは聞かねえんだよな。
二年前のあの春、千夏は担任に呼び出された。
進路希望調査の紙に、何も書かずに出したからだ。
真壁家は、裕福ではない。
父は消防士で、母はパートで働いている。生活に困ったことはない。飯は毎日出るし、道場の月謝も止められたことはない。
ただ、余裕があるわけでもなかった。
高校三年の秋、千夏は台所の棚の奥に、封筒があるのを見つけた。中身は見なかった。表に母の字で「千夏 進学」と書いてあった。
厚みで分かった。何年もかけて積んだ金だ。
母のパート代がどれくらいか、千夏は知っていた。父の給料も、だいたい見当がついていた。その中から、あれだけを別にしていたということだ。
千夏は封筒を戻して、何も言わなかった。
その冬、進路希望調査の紙に、何も書かなかった。
担任には「働きます」と言った。母には「大学、興味ねえわ」と言った。母は「そう」とだけ言って、それきり何も聞かなかった。
父は「働くなら、本気で働け」と言った。それだけだった。
封筒のことは、今も言っていない。
「千夏」
閉店後、誠司がカウンターで帳簿をつけながら声をかけた。
「なんですか」
「昼間の子、同級生か」
「はい」
「そうか」
誠司はそれ以上聞かなかった。この人はこういうところがある。無神経なくせに、たまに妙に気を回す。
「あのな、千夏」
「はい」
「うち、来年から時給上げるわ」
千夏は顔を上げた。
「え?」
「二年やってもらってるし、そろそろな」
「いや、それは……」
「あと、これは相談だけどよ」
誠司は帳簿から顔を上げた。
「お前、社員にならんか」
千夏は、しばらく返事ができなかった。
「……社員」
「バイトのままだと、こっちも都合悪いんだよ。仕込みも発注も、もう半分お前がやってるだろ。責任の所在が曖昧なままだと、いつか事故る」
「はあ」
「まあ、すぐ決めなくていい。考えといてくれ」
誠司はそう言って、また帳簿に戻った。
千夏は洗い場に立ったまま、動けなかった。
その夜、千夏が家に帰ると、母が台所にいた。
「おかえり」
「ただいま」
志乃は洗い物を終えるところだった。背が高いので、流しの前ではいつも少し前かがみになる。
千夏は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。
「母さん」
「なに」
「今日、南に会った」
「南ちゃん? 高校の」
「そう。大学生やってた。教育学部だと」
「へえ。あの子、先生になるの」
「らしい」
千夏は麦茶を飲んだ。
「もったいないって言われた」
志乃の手が、一瞬だけ止まった。
「……そう」
「別に、腹は立たなかった。あいつ悪気ねえし」
「そうねえ」
志乃は布巾で手を拭いて、千夏の方を向いた。
「千夏」
「なんだよ」
「あの封筒、見たでしょう」
千夏は、コップを持ったまま固まった。
「……なんで」
「置き方が変わってたから」
千夏は言葉が出なかった。母は、いつもこうだ。道着の乾き方で気づく人だ。封筒の角度くらい、見逃すわけがなかった。
「三年の秋よね。あのあとすぐ、進路の紙、白紙で出したって連絡が来たから」
「……」
「だから、そういうことなんだろうと思ってた」
志乃は椅子に座った。
「聞かなかったのは、あんたが言わなかったからよ」
千夏は、テーブルの木目を見ていた。
「使えって言うんだろ、あれ」
「言わないわよ」
あっさりした答えだった。
「え?」
「あれは、あんたが大学に行くなら使うお金。行かないなら、使わないお金。それだけの話」
「じゃあ、どうすんだよ」
「置いてある」
志乃は当たり前のように言った。
「あんたが四十でも五十でも、行きたくなったら使えばいいでしょう。ドワーフの血が入ってるんだから、時間はいくらでもあるじゃない」
千夏は、顔を上げた。
「……そんな先か」
「そうよ。私は先に死ぬけど、置いておけば残るもの」
あまりにも平然と言うので、千夏は言い返せなかった。
母は人間だ。父は五百年生きる。自分は、たぶんその間のどこかだ。
この家では、その話を誰もしない。しないまま、母は封筒を置いている。
「母さん、あんた」
「なに」
「たまに怖いんだよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
志乃は笑って、立ち上がった。
「あのさ」
千夏は、母の背中に声をかけた。
「店長に、社員にならないかって言われた」
志乃は振り返った。
「そう」
「どう思う」
「あんたはどう思うの」
「……分かんねえ」
千夏は正直に言った。
「バイトのままなら、まだ何にでもなれる気がする。社員になったら、たぶんそのままだ」
「そうねえ」
「でも、あの店にいるのは、嫌じゃない」
「うん」
「どっちも本当なんだよ」
志乃は少し考えるように、天井を見た。
「じゃあ、どっちも取っておけば」
「は?」
「決めなくても、明日も店は開くでしょう」
千夏は口を開けたまま、しばらく母を見ていた。
「……それ、答えになってねえよ」
「なってるわよ」
志乃はそう言って、台所の電気を消した。
部屋に戻って、千夏は布団に転がった。
封筒のことを、母は知っていた。知っていて、二年半、何も言わなかった。
父は十七年、拳だこに気づかないふりをした。
この家は、そういう家だ。気づいていて、言わない。言わないまま、置いておく。
千夏は右手を目の前にかざした。指の付け根の、硬くなった皮膚。
――もったいなくない?
昼間の南の言葉を思い出した。
もったいないのかもしれない。分からない。
ただ、あの日、封筒を戻した自分のことを、間違っていたとは思えなかった。あれは選ばされたのではなく、選んだのだ。
髪の色と同じだ。決められるところは、自分で決める。
千夏は寝返りを打って、目を閉じた。
窓の外から、夏の虫の音が聞こえていた。梅雨が明けて、境見町の夏が始まっている。
社員の話は、まだ決めない。
急ぐことでもない。時間なら、まだいくらでもある。
【境見町 異文化生活マナー帳 第四十三条より】
ドワーフは残業を苦にしない。
ただし「働かせすぎ」と外から思われることには敏感なので、無理に休ませようとすると逆に怒られる。
今回もお読みいただきありがとうございます( ˘ω˘ )
千夏が大学に行かなかった理由でした。
台所の棚の奥に、封筒があります。
表に「千夏 進学」と書いてあります。
中身は見ていません。厚みで分かったからです。
真壁家は、気づいていて言わない家です。
父は十七年、母は二年半。
そして今も、封筒は置いてあります。
千夏さん、店長から社員のお誘いを受けました。
まだ決めていません。
決めなくても、明日も店は開きます。
きっと千夏さんには千夏さんの、迷いの理由があって。
彼女もまた、それを言葉にしないタチなのでしょう。
次回、夏です。




