第八話 書かない客
二月の終わりは、境見町で一番暇な時期だ。
正月も節分もバレンタインも過ぎて、春はまだ来ない。商店街の人出は減り、店の夜も静かになる。この時期だけは、誠司も無茶なイベントを思いつかない。思いついても人が集まらないことを、さすがに学習していた。
「暇だなあ」
「暇ですね」
カウンターを拭きながら、樹は相槌を打った。客は二組だけ。千夏はさっき、賞味期限の近い食材を確認しに倉庫へ入っていった。
「よし、棚の整理でもするか」
誠司が立ち上がって、カウンターの奥の戸棚を開けた。普段はほとんど開けない場所だ。中には帳簿やら古い伝票やらが雑に積まれている。
樹も手伝いに入って、埃をかぶった束を引き出した。
その一番下に、それはあった。
「店長、これ何ですか」
大判の帳面だった。表紙は布張りで、角が擦り切れている。同じものが、下にもう五冊ほど重なっていた。
「ああ、寄せ書きだ」
「寄せ書き?」
「うちの店の。昔から置いてあるやつ」
誠司は当たり前のように言って、一番上の一冊を取り上げた。
「常連が節目に何か書いてく、っていう習わしがあってな。就職しましたとか、子どもが生まれましたとか、そういうやつ。書きたいやつが書くだけだから、強制じゃない」
「僕、見たことないです」
「最近は出してなかったからな。誰かが書きたいって言ったら出す。それくらいの扱いだ」
樹はページをめくってみた。
最初は見慣れた名前が並んでいる。商店街の店主、蜂谷巡査、涌井。日付は数年前のものだ。だが、ページを遡っていくと、次第に紙の色が変わっていった。黄ばみ、端が波打ち、インクが茶色く滲んでいる。
「これ……いつのですか」
「知らん」
「知らん、って」
「俺が継いだときには、もうこれだけあったからな」
誠司はあっさりと言って、別の一冊を開いた。
「一番古いやつは、そこにあるやつだ。読めない字も多い」
樹は言われた一冊を手に取った。表紙の布は色が抜けて、元が何色だったのか分からない。開くと、紙が乾いた音を立てた。
筆で書かれた文字が並んでいる。旧字体も混ざっている。書かれた年号は、樹の知らない元号だった。
――この店は、いつからあるんだろう。
その疑問は、この町では日常的に浮かんで、日常的に流される。長寿のエルフですら「昔からあった」としか言わない。それ以上を誰も追及しない。追及したところで、誰も答えを持っていないからだ。
樹が古い頁を眺めていると、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げて、樹は少しだけ息を止めた。
旅装の客だった。
あの日と同じ、寒そうに肩をすくめた格好。荷物も同じ。三か月近く経っているのに、何一つ変わっていない。
「……久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
樹は自分でも驚くくらい、自然に返事をしていた。
男はカウンターの一番端に座った。誰にも案内されていない。前回と同じ席だった。
「同じのを」
「マルゲリータですね」
樹は注文を通しながら、頭の隅で引っかかっていた。
――この人、前に何を頼んだか、僕に確認しなかった。
もっとも、それだけなら「覚えていた」で説明がつく。樹は自分の考えすぎを頭から追い出して、水を注ぎに行った。
石窯の前で、誠司が生地を伸ばしている。その音だけが、静かな店内に響いていた。
やがて男は、カウンターの上に出しっぱなしになっていた帳面に目を落とした。
そして、動きが止まった。
「――それ、まだあるのか」
樹の手が止まった。
「それ」が何を指すのか、確認するまでもなかった。男は寄せ書きを見ている。
「あ、はい。今、棚から出したところで」
「そうか」
男は短くそう言って、それきり黙った。
だが樹は、聞き逃さなかった。
――まだ、と言った。
初めて見たものに、人は「まだあるのか」とは言わない。
「お客さん」
石窯の前から、誠司が声をかけた。いつもの軽い調子だった。
「うちに来たこと、あるんですか」
「昔な」
「昔って、どれくらい前です」
「さあ」
男は答えをはぐらかしたわけではなさそうだった。本当に、正確には覚えていないという顔をしていた。
「じゃあ、うちの先代とか、知ってます?」
誠司の声が、ほんの少しだけ変わった。
樹はカウンターを拭きながら、その変化に気づいた。誠司はいつも、何を話していても同じ調子だ。トラブルが起きても、金が足りなくても、同じ顔をしている。その誠司の声が、今、少しだけ硬い。
男はしばらく黙ってから、答えた。
「知ってる、というほどじゃない」
「へえ」
「ただ、あんたの方が背が高い」
誠司が虚を突かれた顔をした。
「……比べたことあるんですか」
「今、思い出しただけだ」
それきり、会話は途切れた。
誠司は石窯に向き直って、焼き上がりを見ている。背中はいつも通りだった。だが樹には、その背中が普段より動いていないように見えた。
ピザが焼き上がる頃、倉庫から千夏が戻ってきた。
「うわ、寒っ。……あ、いらっしゃい」
男に気づいて、千夏は軽く会釈した。そのまま厨房へ入ろうとして、カウンターの帳面に目を留める。
「なんだこれ。寄せ書き?」
「そう。棚から出てきた」
「へえ、うちにこんなのあったのか。私も書いていい?」
「別にいいぞ」
誠司が答えると、千夏はさっそくペンを探し始めた。この人は、こういうところが早い。悩む時間が存在しない。
「お客さんも書いてけば? せっかくだし」
千夏が何気なくそう言った。
男は、少しの間、帳面を見ていた。
それから、静かに首を横に振った。
「俺は書かない」
「なんで」
「書くと、話がややこしくなる」
千夏が「なんだそりゃ」と笑った。冗談として受け取ったらしい。
樹は笑えなかった。
男はピザを食べ終えると、前回と同じように、静かに立ち上がった。
「美味かった」
「ありがとうございます」
会計を済ませて、扉に手をかける。その背中に、樹は思わず声をかけていた。
「あの」
男が振り返った。
樹は、聞きたいことが十個くらいあった。あなたは何者ですか。この店をいつから知っているんですか。先代を知っているんですか。まだあるのか、というのはどういう意味ですか。
だが、口から出たのは違う言葉だった。
「……また、来てください」
男は、少し目を見開いた。
それから、笑った。初めて見る顔だった。
「聞かないんだな」
「はい」
「なんで」
樹は少し考えてから、正直に答えた。
「話したくなったら、話すと思うので」
男はしばらく樹を見つめてから、小さく息を吐いた。感心とも呆れともつかない吐き方だった。
「あんた、この店に向いてる」
「え」
「昔から、ここに残るのはそういう奴だ」
それだけ言って、男は外へ出て行った。
二月の夜気が、扉の隙間から一瞬だけ入り込んで、すぐに消えた。
閉店後、樹は一人で寄せ書きの束を片付けていた。
一番古い一冊を棚に戻そうとして、ふと手を止める。
表紙を開いた、その内側。
最初の頁が、なかった。
破り取られている。乱暴にではない。紙の端に沿って、丁寧に、真っ直ぐに切り取られていた。二枚か、三枚。残った縁の部分だけが、背に貼りついたまま残っている。
樹は、しばらくそれを見ていた。
誰かが、この店の一番最初の記録を、意図的に取り除いている。
そしてそれは、たぶん、ずいぶん昔のことだ。切り口の紙まで同じように黄ばんでいる。
「樹、まだ終わらねーのか」
厨房から千夏の声がした。
「あ、今行きます」
樹は帳面を閉じて、棚に戻した。
言おうかどうか、迷った。だが、やめた。今言っても、誰も答えを持っていない。それは今日、はっきりした。
石窯の火が落ちていく。オレンジの光が少しずつ暗くなって、壁の古い写真が影に沈んでいった。
その写真の中に、いつから飾られているのか誰も知らないものが、何枚か混ざっている。
樹は、今日初めて、それをちゃんと見た。
【境見町 異文化生活マナー帳 第七十九条より】
カウンター席で一人で飲んでいる客には、話しかけるより先に、まず放っておくこと。話したくなったら向こうから話す。
お読みいただきありがとうございました(≧∇≦)
寄せ書きは、この店に古くからあるものです。
書きたい人が書く。
それだけの帳面が、気づけば六冊になっていました。
書かなかった人のことは、どこにも残りませんが。
次回、卒業式です。
またのお帰りを、ハーフ&ハーフでお待ちしていますね。




