第七話 渡す日、待つ日
二月十四日の朝の教室は、いつもと空気が違った。
樹は自分の席に鞄を置きながら、そのざわつきを背中で感じていた。誰かが小声で笑い、誰かが慌ただしく鞄の中を確認している。窓際では女子が数人集まって、何かを見せ合っては声を潜めていた。
樹はその輪から遠い場所で、いつも通り教科書を出した。
自分に何かが起こる日ではない、と知っている。去年もそうだった。中学の頃もそうだった。バレンタインというのは、教室のどこかで起きている出来事を、少し離れた席から眺める日のことだ。
「相原くん、おはよう」
「あ、おはよう」
前の席の男子が振り返って、いきなり本題に入ってきた。
「なあ、うちのクラスのエルフの子、今年こそ渡すのかな」
「……誰の話?」
「白瀬さんだよ。三年前から『渡そうかな』って言ってる人」
三年前。
樹は、なんとなく状況を理解した。
白瀬というエルフの女子生徒は、窓際の一番後ろに座っている。長い髪を後ろで一つに束ねていて、いつも静かに本を読んでいる。
その席の周りに、人間の女子が二人ほど集まっていた。
「白瀬さん、今年はどうするの」
「まだ決めていません」
落ち着いた声だった。焦りも照れもない。
「三年目だよ?」
「はい」
「もう卒業しちゃうよ?」
「そうですね。でも、まだ早い気がします」
「早いって、三年だよ?」
「私たち、二千年生きますから」
白瀬は本のページをめくりながら、静かに続けた。
「三年は、誤差です」
人間の女子二人が同時に天を仰いだ。樹はその様子を横目に見ながら、少しだけ同情した。母のアイリスも似たようなことを言う。急いで決めたことは、たいてい急いで壊れる、と。
その隣の席では、まったく逆のことが起きていた。
「はい、これ。食え」
ドワーフの女子生徒が、机の上に紙袋を置いた。中から出てきたのは、拳ほどの大きさの黒い塊だった。表面がごつごつしている。
「……何これ」
「チョコだよ。今朝作った」
「今朝!?」
「昨日の夜に思い立ったからな。溶かして固めた。以上だ」
「形は!?」
「食えれば同じだろ」
受け取った男子が、その重みによろけた。周りから笑いが起きる。
「つーかさ」
ドワーフの女子生徒は、椅子の背もたれに体重を預けて言った。
「五百年も生きるんだぞ。一日で決めなかったら、いつ決めるんだよ」
樹はその光景を眺めながら、ぼんやり考えた。
同じことを言っている。
二千年生きるから、三年は誤差だ。五百年生きるから、一日で決める。どちらも「自分たちは長く生きる」という同じ理由から出発して、正反対の場所にたどり着いている。
樹は、それが少しおかしかった。
長く生きるから待てる、というのは嘘だ。長く生きるから急ぐ、というのも嘘だ。結局のところ、待つ人は待つし、決める人は決める。寿命の話ではなかった。
ただ、育ってきた場所で、そういうものだと教わっただけだ。
母は、待つ人だ。その血は、自分にも半分ある。
もっとも、と樹は思う。待つ側の血を引いていたところで、自分には待っているものが一つも思いつかなかった。
昼休み、廊下で三浦先生とすれ違った。
いつも通りきっちりネクタイを締めているが、腕に抱えた紙袋が明らかに膨らんでいる。
「先生、それ……」
「言うな」
「はい」
「言うな」
二回言われた。樹は黙って会釈して、通り過ぎた。
背後から「なぜ職員室で配ろうとするんだ、あの学年は」という独り言が聞こえてきたが、聞かなかったことにした。
その日の放課後だった。
樹が下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから小さな声がした。
「あの、相原くん」
振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。早坂という名前だったはずだ。あまり話したことはない。教室でもいつも静かにしている子だった。
「はい」
「これ、あの……よかったら」
差し出されたのは、小さな包みだった。
樹は反応が遅れた。状況が飲み込めないまま、両手で受け取ってしまう。
「え、あの、なんで」
「え?」
「あ、いや、その、ありがとうございます。でも僕、何か……」
言葉がまとまらない。心当たりが一つもなかった。何かをした覚えがない。話した記憶もほとんどない。
早坂は少し困った顔をしてから、ぽつりと言った。
「調理実習のとき」
「調理実習」
「ピザの。私、手が止まってて」
樹は記憶をたどった。一月の、店長が来た授業。班ごとに生地を伸ばした。隣の席の子が固まっていて、それで――
――そうだ。生地を寄せた。
あれは、何かをしたつもりですらなかった。声もかけていない。「どうしましたか」とも聞いていない。ただ、自分の作業の続きのように、隣に置いただけだ。
「あんなの、何もしてないよ」
樹は正直にそう言った。謙遜ではなかった。本当に、何もしていないと思っている。
早坂は、それを聞いて少しだけ笑った。
「うん。相原くん、そう言うと思った」
その言い方が意外で、樹は顔を上げた。
冬の夕方の光が、下駄箱の並ぶ薄暗い昇降口に、横から差し込んでいた。
早坂が、ふと目を細める。
「……相原くんって、目、緑なんだね」
「え」
「今、ちょっとだけ緑に見えた」
樹は思わず自分の目のあたりに手をやった。
「黒だと思うけど」
「うん、普段は黒。今の角度だけ」
早坂はそう言って、少し照れたように鞄の紐を握り直した。
「エルフの血、ちゃんとあるんだね」
樹は返事ができなかった。
自分の耳は髪に隠れる程度にしか尖っていない。目も黒い。ハーフエルフだと言うと、たいていの人は驚く。それは今まで、ずっと「何もない」ということの証明だと思っていた。
誰にも見えないものは、無いのと同じだ。そう思ってきた。
でも、この子は見た。
「じゃあ、また明日」
早坂は小さく頭を下げて、先に昇降口を出て行った。
樹はしばらくその場に立って、手の中の包みを見つめていた。
夕方の『ハーフ&ハーフ』は、妙に浮かれていた。
「はい店長、義理」
千夏がカウンター越しに、小さな箱を放り投げた。誠司が慌てて受け止める。
「投げるな! というか義理って言うな!」
「事実だろ」
「せめて黙っとけ!」
カウンターでは、蜂谷巡査が缶ビールならぬウーロン茶を前に、しみじみと語っていた。
「うちの署はなあ、ドワーフの署員が多いから毎年えらいことになるんだよ」
「何がですか」
「量。とにかく量。去年、後輩が二キロの塊もらってきた」
「二キロ」
「割るのに斧が要るって騒いでたな」
その隣で、老エルフが静かに笑っている。
「私の若い頃は、渡すまでに二十年かけた者もおりましたよ」
「二十年!?」
「本人たちは、それでちょうどよかったそうです」
千夏が呆れたように呟いた。
「エルフとドワーフが同じ日に同じ行事やってるの、冷静に考えるとすごいな」
樹は皿を運びながら、その会話を聞いていた。
三年かけて渡さない人がいて、一晩で二キロ作る人がいて、二十年待った人がいる。同じ二月十四日に、まったく違う速度が同居している。
境見町は、そういう町だった。
閉店作業のとき、千夏に見つかった。
「おい樹。お前、さっきから鞄の方チラチラ見てんだろ」
「……見てないです」
「見てる。何入ってんだ」
「別に何も」
「言え」
結局、白状することになった。千夏はしばらく黙ってから、盛大に笑った。
「よかったじゃねーか」
「いや、あの、そういうのじゃないと思うんです。お礼、みたいなやつで」
「お礼でも何でもいいだろ。もらったんだから」
「でも、何もしてないんですよ、僕」
その一言で、千夏の笑いが止まった。
千夏はモップを止めて、まっすぐ樹を見た。152センチの位置から、170センチの樹を見上げる形になる。それでも、見下ろされているのは樹の方だった。
「お前さ、そのセリフ、そろそろやめろ」
「え」
「何もしてない、って毎回言うだろ。私はあれ、聞くたびに腹立つんだよ」
千夏の声は、怒っているというより、呆れているように聞こえた。
「あのとき、教室で何が起きたか、お前は知らないだろ。でも私は見てたんだ」
「……見てたって、何をですか」
「それを私が説明したら、お前はまた『そんなことないです』って言うだろ。だから言わねーよ」
「えぇ……」
「自分で分かれ。何年かかってもいい」
千夏はそう言って、モップを持って厨房の奥へ引っ込んでいった。
樹はカウンターに残されて、少し途方に暮れた。
――何年かかってもいい。
その言い方が、今日聞いたどの話にも似ている気がした。三年かけて決めない人。二十年待った人。急がないことを、誰も責めない町。
樹は鞄の中の小さな包みを、もう一度だけ確かめた。
まだ食べていない。今日はたぶん、食べないままにしておく。
石窯の火は落ちかけていて、店の中は少し暗くなっていた。窓の外では、二月の風が商店街の方へ抜けていく音がする。
春はまだ遠い。新緑の日は、もっと遠い。
それでも、待つ時間は長い方が楽しいのだと、母は言っていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十一条より】
エルフは告白まで何年でもかける。
急かすと「まだ早いです」と真顔で言われる。




