第六話 鬼は外、約束は内
二月三日。
夜明け前の真壁家の庭は、霜で白く固まっていた。
千夏は白い息を吐きながら、いつものように拳を突いていた。突き、受け、踏み込み、また突き。決まった順番を、決まった回数だけ。三歳から続けている動きは、もう考えなくても体が覚えている。
最後の一本を突き終えて、息を整える。
振り返ると、縁側の障子がわずかに開いていた。
「……母さん」
「おはよう。今日は冷えるねえ」
真壁志乃は、綿入れを羽織って、湯呑みを両手で包んで立っていた。
背が高い。縁側の鴨居に、少しかがまないと頭がぶつかる。綿入れの袖から出た手首は、千夏のそれより一回り長かった。低いところに重心のある夫と、その血を継いだ娘。二人と並ぶと、この家で母だけが違う縮尺で作られているように見える。
もっとも、千夏にとっては生まれたときからそうだった。母は背が高い。ただそれだけのことだ。
「見てたのか」
「見てないよ。お湯を沸かしに来ただけ」
志乃はそう言って、湯呑みを差し出した。白湯だった。
千夏はそれを受け取って、一口飲んだ。冷えた喉に、じんわりと熱が落ちていく。
「父さんは」
「夜勤明けで、もうすぐ帰るよ。今日は非番だから、夕方は家にいる」
「そうか」
志乃は縁側に腰を下ろして、庭の霜を眺めた。
「今日は節分だからね。豆まきするよ」
「毎年やってるだろ」
「毎年やるのが行事だよ」
あっさりとした言い方だった。母はいつもこうだ。声を張らない。押しつけない。それでも、決めたことは動かない。
朝食の途中で、玄関が開いた。
「ただいま」
地響きのような声が、廊下から届く。父が帰ってきた。
消防の制服から着替える間もなく、そのまま食卓に座り込む。ドワーフの体は、夜勤明けでも見た目には疲れて見えない。ただ、目だけが少し赤い。
「おかえり。何かあった?」
志乃が味噌汁を椀に注ぎながら聞くと、父は短く鼻を鳴らした。
「小火が一件。婆さんが天ぷら油から目を離した。誰も怪我はしてない」
「そう、良かった」
「良かったで済ませるな。あと三分遅れてたら、隣の家も焼けてる」
父はそう言って、味噌汁を一気に半分ほど飲んだ。
千夏は黙って飯をかき込んでいた。父とは、こういう会話しかしない。父が仕事の話をして、母が受け止めて、千夏がその横で飯を食う。それが真壁家の朝だ。
「千夏」
「なんだよ」
「店は何時からだ」
「夕方からだよ」
「じゃあ昼は家にいるな。豆、買ってこい」
「……はいはい」
父は、頼み事を頼み事として言えない。これも昔からだ。
食べ終わって席を立つとき、父がぼそりと言った。
「――働いてるか」
「働いてるよ」
「そうか」
それだけだった。父はそのまま奥の部屋へ行き、布団を敷く音がした。
千夏は椀を流しに運びながら、少し笑った。二年前、高校を出て進学せずに働くと言ったとき、父が言ったのはたった一言だった。
――働くなら、本気で働け。
母は「好きにしなさい」と言った。二人とも、それ以上は何も言わなかった。
昼過ぎ、千夏は商店街で豆を買った。
帰り道、鍛冶屋の前を通ると、まだ看板に灯りは入っていなかった。だが中からは金属を叩く音が響いている。岩田豪太は、まだ店を開けていないのに、もう仕事を始めているらしい。
千夏はその音を少し聞いてから、家へ向かった。
夕方、真壁家の居間には、炒った豆と巻き寿司が並んだ。
「よし、始めるか」
父が袋から豆を一掴み取った。その瞬間、千夏と志乃が同時に声を上げた。
「待て待て待て」
「あんた、去年のこと忘れたの」
「なんだ」
「去年、あんたが投げた豆で障子が破れたんだよ」
父は不服そうな顔をした。
「鬼は外だろう。中途半端に投げてどうする」
「豆で家を壊す家があるか」
千夏のツッコミに、父は「ふん」と鼻を鳴らして、豆を三粒だけ手に取り直した。
「鬼は外」
三粒の豆が、庭の霜の上に落ちた。あまりに静かだった。
「……なんだこれは」
「それでいいんだよ」
「魂がこもらん」
「こもらなくていいんだよ、節分は」
志乃が笑いながら、次の豆を渡す。父は納得のいかない顔をしながら、律儀に三粒ずつ投げ続けた。
千夏は、その様子を見ながら、少しおかしくなった。ドワーフの手加減は、いつも極端だ。全力か、三粒か、その間がない。
豆まきが終わると、巻き寿司の時間になった。
「はい、恵方はこっち。今年は南南東」
志乃が方角を確認して、二人に太巻きを渡した。
「これを、黙って、切らずに一本食べきるんだよ」
父の手が止まった。
「……黙って?」
「黙って」
「一本まるごと?」
「まるごと」
「途中で喋ったらどうなる」
「福が逃げるって言われてる」
父は太巻きを持ったまま、しばらく固まっていた。それから、真剣な顔で言った。
「無理だ」
「毎年言うね、それ」
千夏が思わず吹き出した。父は本気で困っている顔をしている。
ドワーフは、食事の席で黙らない。飯を食うということは、誰かと何かを喋るということだ。新年会でも、酒宴でも、乾杯の前に必ず一人ずつ話をする。黙って食べるという行為は、彼らの文化には存在しない。
「じゃあ、喋ってもいいことにするか」
千夏がそう言うと、志乃が首を振った。
「駄目。黙るところが行事なんだよ」
「母さん、意外と厳しいな」
「行事はね、面倒なところが本体なの」
結局、三人は南南東を向いて、黙って太巻きを食べ始めた。
三十秒ほどして、父が我慢できずに口を開いた。
「――今日の小火の婆さんだが」
「あんた!」
「福が逃げるだろうが!」
志乃と千夏の声が重なって、居間に響いた。父は口をもごもごさせながら、心底不本意そうな顔で太巻きに戻っていった。
千夏は笑いを噛み殺しながら、太巻きの残りを食べきった。
――こんなことを、毎年やっている。
正月には、町内のドワーフが全員集まって朝から酒を飲み、去年の失敗談を言い合う。その翌日には、母が作ったおせちを黙って食べる。節分には豆をまき、恵方を向いて黙る。ドワーフの行事と、人間の行事が、一年の中に二つずつ入っている。
どちらも面倒だ。片付けも二回ある。
でも、今まで一度も、どちらかをやめようと思ったことはなかった。
片付けをしていると、志乃が台所からぽつりと言った。
「そういえば千夏。道着、そろそろ新しくしたらどう?」
千夏の手が止まった。
皿が一枚、シンクの中で小さな音を立てた。
「……なんの話だ」
「袖のところ、擦れて薄くなってるでしょう。あれ、もう限界だよ」
千夏はゆっくりと振り返った。母は、こちらを見ずに鍋を洗っている。
「いつから知ってた」
「小学校の三年か、四年くらいから」
「……十年以上前だろ」
「そうだねえ」
志乃は鍋を伏せて、手を拭いた。
「あんた、洗濯機に自分で入れてたでしょう。他の洗濯物と一緒に。でも道着って生地が違うから、乾き方で分かるんだよ」
千夏は言葉が出なかった。
三歳から続けた稽古を、父に隠し通してきたつもりだった。誰にも気づかれていないと思っていた。それが、家の中で一番大きくて、一番静かな人に、最初から全部見られていた。
「なんで、父さんに言わなかったんだ」
「言うことじゃないと思ったから」
「……庇ってくれたのか」
「違うよ」
志乃は、はっきりと首を振った。
「あんたが自分で言うべきことだからだよ」
その声は、いつもと同じ静かな声だった。それでも、千夏の背筋が少し伸びた。
「あの人ね、娘に隠されてたって知ったら、たぶん怒らないよ。怒るより先に、寂しがると思う」
千夏は、何も言えなかった。
「だからいつか、あんたの口から言ってあげなさい。急がなくていいけど」
志乃はそれだけ言って、また台所の片付けに戻った。話は終わり、という空気だった。
千夏は、しばらく皿を持ったまま立っていた。
夕方、店に出勤すると、樹がもう暖簾を出していた。
「あ、千夏さん。お疲れ様です」
「おう。今日、客入るかな」
「節分なので、家で食べる人が多いかもしれませんね」
案の定、夜の店は空いていた。カウンターに数人、丸テーブルに一組。誠司は暇を持て余して、石窯の掃除を始めている。
そこへ、引き戸が開いた。
「こんばんは。あ、空いてますね。よかった」
役場の涌井だった。鞄から、いつもの公務用の封筒を出している。
「涌井さん、節分に仕事ですか」
「仕事じゃないですよ。これは、届け物です」
涌井はカウンターに座って、封筒から一枚の紙を出した。刷り上がったばかりらしい、まだインクの匂いのする紙だった。
「マナー帳の改訂版、刷り上がりました」
樹が身を乗り出した。千夏も、皿を拭く手を止めた。
「第百一条の下に、もう一条入ってます」
紙を覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
――第百二条。
ハーフの家には、一年の始まりが二度来ることがある。どちらも本気でやること。面倒だが、その分うまいものが二度食える。
「……載せたのか、これ」
「載せますよ。約束しましたから」
涌井はあっさりと言った。
「元日に、次の改訂で入れると言いました。ドワーフの方に約束を破ると、後が怖いですし」
「よく分かってるな、役場」
千夏はそう言って笑ったが、紙から目が離せなかった。
自分が言った言葉だ。あの日、樹の悩みを聞いて、思いつきで返しただけの言葉だった。それが印刷されて、条文になって、これから境見町に引っ越してくる人全員に配られる。
「千夏さん、すごいですよ。町の決まりになったってことですよね」
「決まりっていうか……」
千夏は言いかけて、口を閉じた。
今日、自分の家で豆をまいた。父が三粒ずつ投げて、恵方を向いて黙り、三十秒で喋り出した。正月には二回、新年をやった。
――これは、うちの話だ。
樹の家のことを言ったつもりだった。二つの暦を持って、どっちも自分のものじゃないと思い込んでいる、あいつのために言った言葉だった。
それが、そのまま自分の家に返ってきていた。
「……なあ、樹」
「はい?」
「私も、二回やってるわ」
「え?」
「うちも二回来るんだよ、一年の始まりが。ドワーフの新年会と、母さんのおせちと。今日も豆まいてきた」
千夏はカウンターに肘をついて、天井を見上げた。
「二十年やってて、面倒だと思ったことは何回もある。でも、やめようと思ったことは一度もねーな」
樹はしばらく黙ってから、少し笑った。
「じゃあ、その条文、千夏さんのことでもあったんですね」
「そういうことになるな」
誠司が石窯の向こうから顔を出した。
「おー、なんだ、また百二条できたのか。じゃあ祝いだ。何か焼くぞ」
「店長、節分に何焼くんですか」
「巻き寿司ピザ。……恵方ピザ?」
「やめてください」
千夏の即答に、店中が小さく笑った。
閉店後、千夏が家に帰ると、居間の電気がまだついていた。
父が、非番だというのに起きていた。消防の道具を膝の上に置いて、黙々と手入れをしている。父もまた、手が空くと道具を触る人だ。
「……ただいま」
「ああ」
それだけのやり取りをして、千夏は台所へ向かった。
水を飲んでいると、背中の方から声がした。
「千夏」
「なんだよ」
「約束は守れ」
千夏は、コップを持ったまま振り返った。
父はこちらを見ていない。道具の手元を見たまま、続けた。
「誰と何を約束したかは知らん。守れ。それだけだ」
千夏は、しばらく父の背中を見ていた。
母が言ったことを、父が知っているとは思えない。ただ、この人はいつもこうだ。何も知らないまま、必要なことだけをぶつけてくる。不器用で、乱暴で、たまに的を射る。
「……分かってるよ」
千夏はそう答えて、自分の部屋へ向かった。
押し入れを開けると、畳んだ道着が入っていた。袖の生地は、母の言った通り、擦れて薄くなっている。
千夏はそれを手に取って、少し眺めた。
いつか、自分の口から言う日が来る。今日ではない。明日でもない。
それでも、その日は必ず来る。
窓の外では、まいた豆が霜の上に転がったまま、月の光を受けて小さく光っていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第百二条より】
※本話にて新規制定
ハーフの家には、一年の始まりが二度来ることがある。どちらも本気でやること。面倒だが、その分うまいものが二度食える。




