第五話 先生の席
「なんで私が運ぶんだよ、これ」
一月半ばの午後。千夏は台車に積んだ簡易オーブンを、商店街の緩い坂道で押し上げていた。冬だというのに、額に汗が浮いている。
「そりゃお前が一番力あるからだろ」
隣を手ぶらで歩く誠司が、当たり前のような顔で答えた。千夏は台車の取っ手を握り直しながら、低い声を出した。
「店長。荷物、持て」
「俺は監督だから」
「監督は台車押さねーのか」
「押さないな」
このやり取りを、もう三回はしている。
店から学校までは、荒れた通りを抜け、商店街を抜け、駅前を過ぎてさらに南へ。歩いて三十分近い。町の北の端から南の端まで、重い鉄の箱を押していく作業だった。
そもそも、なぜこんなことになったのか。
三日前、樹の高校から電話が来た。「地域の仕事を知る」という総合学習の授業で、町の店に来てほしいという依頼だった。誠司は電話口で二つ返事で引き受けた。内容も日程も確認せずに。
「――で、当日になって『石窯は運べない』って気付いたわけだ」
「気付いたな」
「気付くのが遅すぎるだろ!」
千夏の怒声が、冬の商店街に響いた。通りがかった八百屋のおばちゃんが「あら千夏ちゃん、今日も元気ねえ」と笑って手を振っていった。
樹の通う高校は、駅から歩いて少しの場所にあった。
校門をくぐるとき、千夏はほんの一瞬、足を止めた。
特に理由はない。ただ、制服を着た生徒たちが行き交う敷地に入るのは、思っていたより落ち着かなかった。自分がここを出てから、そう長い時間は経っていない。それでも、もうこちら側の人間ではない。
「千夏、どうした」
「なんでもねーよ。行くぞ」
台車を押して、千夏は先に歩き出した。
調理室に案内されると、そこにはすでに三十人ほどの生徒が待っていた。エプロン姿で、机の間に立っている。人間、エルフ、ドワーフ。境見町の教室らしい光景だ。
その中に、樹がいた。
千夏は思わず二度見した。
――こんな顔してるのか、こいつ。
樹は教室の後ろ寄りの席で、静かに立っていた。誰と話しているわけでもない。誰から話しかけられているわけでもない。ただ、そこにいる。
店にいるときの樹とは、まるで別人だった。店では、常に誰かの様子を見て、水を注ぎ、皿を下げ、必要な場所に必ずいる。ここでは、いないのと同じくらい静かだった。
(自分だけ普通だ、って言ってたのは、こういうことか)
千夏の胸に、正体の分からないものが引っかかった。
「はーい、みんな注目! 今日はハーフ&ハーフの店長さんに来ていただきました!」
教師の声で、生徒たちが姿勢を直した。
声の主は、四十代半ばと見える人間の男性教師だった。きっちりとネクタイを締め、髪も一分の乱れもない。いかにも生真面目そうな見た目だ。
「担任の三浦だ。今日は貴重な機会だから、しっかり聞くように」
その声を聞いた瞬間、千夏は「あ」と口を開いた。
――カウンターの、右から三番目。
週に一度か二度、閉店前の遅い時間に一人で来て、ビールを一杯とつまみを頼み、ほとんど誰とも話さず帰っていく客。名前は知らないが、顔と席は完全に覚えている。
あの客だ。間違いない。
三浦は千夏の顔を見て、ほんの一瞬だけ目を逸らした。それだけで確信した。
「あ、三浦先生! いつもうちに――」
「はいはい、それでは店長さん、よろしくお願いします!」
三浦が声を張り上げて、千夏の言葉をきれいに遮った。
千夏は言いかけた口を閉じ、ゆっくりと閉じ直した。なるほど、そういうことか。
授業自体は、意外なほどうまく進んだ。
誠司は妙な才能を発揮する男で、こういう場では驚くほど生徒を引きつける。生地を回して見せ、粉を宙に舞わせ、失敗して笑いを取る。教室は最初の五分で完全に和んでいた。
「はい、じゃあ班ごとにやってみようか! 分からなかったら千夏に聞いてくれ、こいつプロだから!」
「バイトだよ」
千夏はそう訂正しながら、机の間を回り始めた。
生徒たちは思ったより真剣だった。ドワーフの男子生徒が生地を力任せに叩き潰し、エルフの女子生徒が丁寧すぎて一向に進まず、人間の生徒たちがその間で慌てている。
その様子を見ながら、千夏はふと後ろの班に目をやった。
樹の班だった。
樹は自分の手を動かしながら、隣の女子生徒に何か短く声をかけていた。その生徒は、班の中で一人だけ手が止まっていた。何をどうしたらいいのか分からず、周りに聞けないまま固まっていたらしい。
樹は、彼女の手元に自分の生地を少し寄せた。それだけだった。「こうやると楽ですよ」とも「大丈夫ですか」とも言わない。ただ、自分の作業の続きのように、隣に置いた。
その生徒は、少し驚いた顔をしてから、真似をして生地を押し始めた。
千夏は、それをじっと見ていた。
――ああ。
店で客に水を注ぐときと、まったく同じ動きだった。本人はきっと、何もしていないと思っている。
焼き上げの時間になり、生徒たちが簡易オーブンの前に群がった。
その騒ぎの中で、一人の男子生徒が三浦に声をかけた。
「先生、ハーフ&ハーフって行ったことあるんですか」
三浦の肩が、わずかに強張った。
「……まあ、町の店だからな。何度かは」
「へえ、意外! 先生って、ああいう店行かなさそうなのに」
「そうか」
「なんか、家で本読んでるイメージです」
「読んでいるが」
教室が少し笑った。三浦は表情を崩さずに、焼き加減を見に行こうとした。
その背中に、千夏が声をかけた。
「先生。カウンターの右から三番目、あそこ空けとくんで、また来てください」
三浦が振り返った。
教室が、しんとなった。
「……先生、常連なんですか!?」
「え、右から三番目って決まってるんですか!?」
「毎週来てるってことじゃん!」
生徒たちが一斉に色めき立った。三浦は数秒黙り込み、それから諦めたように息を吐いた。
「……週に一回だ」
「二回のときもありますよ」
「余計なことを言うな」
教室が沸いた。生徒たちは、いつも堅い顔をしている担任が、町のピザ屋のカウンターで一人ビールを飲んでいる姿を想像して、大喜びしていた。
三浦は困った顔をしていたが、怒っているようには見えなかった。
千夏はその様子を眺めながら、ふと樹の方を見た。
樹は、笑っていなかった。驚いてもいなかった。ただ、少し困ったような顔で、成り行きを見ている。
千夏は、そこで初めて気が付いた。
(――こいつ、知ってたな)
樹は、店に来る客の顔を全部覚えている。担任が常連であることを、当然ずっと前から知っていたはずだ。
それを、一度も誰にも言わなかった。
言えば教室で話題になる。それが分かっていたから、言わなかった。三浦が店で一人で飲んでいる時間を、そういうものとして扱っていた。
千夏は、自分が今しがた三十人の前でそれを暴露したことに気付いて、少し気まずくなった。
帰り道、日が落ちるのが早い。
空になった台車は軽く、押しているというより引きずっているような音を立てていた。誠司は「今日は俺、うまかったな」と満足げに前を歩いている。
千夏は少し歩調を落として、隣に並んだ樹に声をかけた。
「悪かったな。先生のこと、ばらして」
「……あ、いえ。大丈夫です」
「知ってたんだろ、あれ」
樹は少し驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。
「入学してすぐ、気付きました。でも、言うことじゃないなと思って」
「そうだよな」
「別に、隠してることでもないと思うんですけど。ただ、あの席で一人で飲んでるときの先生って、学校の先生じゃない感じなので」
千夏は、その言い方に少し笑った。
「……お前さ」
「はい?」
「学校だと、静かなんだな」
「あ……そう、ですよね。すみません」
「謝ることじゃねーだろ」
千夏は台車の取っ手を持ち替えた。言おうとしたことが、うまく形にならない。
教室で見た樹は、確かに目立たなかった。誰の中心にもいなかった。本人が「自分だけ普通だ」と思うのも無理はない。
でも、あの生地を寄せる動きを見た人間は、たぶん自分だけだ。誰にも褒められないまま、あいつはあれをやり続けるのだろう。
「お前、今のままでいいよ」
「え?」
「学校で目立たなくても、別にいい。そのままで大丈夫だってこと」
樹はきょとんとした顔で千夏を見上げた。意味が分かっていない顔だ。
「……なんですか、急に」
「なんでもねーよ。台車押せ」
「え、僕がですか!?」
千夏は取っ手を樹に押し付けて、さっさと前を歩き出した。
背後で「重い!」という声が上がる。それを聞きながら、千夏は少しだけ口元を緩めた。
――こいつが自分でそれに気付く日は、まだ遠い。
それでも、その日が来るまでは、隣で見ているのも悪くない。そう思った。
商店街の明かりが、夕暮れの中で一つずつ灯り始めていた。今日はまだ、店を開ける前だ。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九十四条より】
学校の先生がハーフ&ハーフの常連であることは、生徒たちには意外と知られていない。知った時のリアクションはだいたい同じ。
【第5話にして初めての後書き!】
今回、千夏がうっかりイタズラ心を抑えきれず、三浦先生が常連であることをバラしましたが、学校の先生ってのは多く在籍されているものです。マナー帳には『先生がハーフ&ハーフの常連であることは生徒には案外知られていない』とありますが、そのうちのひとりが三浦先生だったに過ぎません。さぁ……、一体、多くいる先生のうち、何人が常連なんでしょうね……!?
ハーフ&ハーフは今日も招き猫いらずの商売繁盛!
とても素晴らしいことです!




