第四話 都合のいい半分
正月休みが明けても、境見町は変わらない顔をしていた。
夜明け前、真壁家の庭では、千夏がいつも通り拳を突いていた。息が白く弾ける。三が日の間も、休んだのは元日の朝だけだった。父はまだ知らない。この稽古も、この拳も。
「……よし」
最後に一つ深く息を吐いて、千夏は道着代わりのジャージの汗を拭った。今日から店も通常営業だ。体を仕込んでおくのは、こういう朝しかない。
「よし、今日から通常営業! 気合入れてけ!」
誠司の号令とともに、千夏は厨房で腕まくりをした。三が日の間、実家の新年会だ相原家の手伝いだと動き回っていた反動で、体が仕事を欲しがっている。
「千夏さん、正月太りとかないんですか」
「ドワーフの体は燃費が違うんだよ。心配は自分の分だけしとけ」
樹の軽口を笑い飛ばして、千夏はピザ生地を伸ばし始めた。厨房のリズムが戻ってくる。これが一番、体に合う。
昼の客足が落ち着き始めた頃、見覚えのない客が入ってきた。
ドワーフの若い男だ。がっしりした体つきに、無精髭。年齢は千夏と同じか、少し下くらい。着ている作業着には木くずと金属の粉らしきものがこびりついている。
「……一人だ」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、カウンターの端に座った。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
樹が声をかけると、男はメニューも見ずに答えた。
「一番でかいの」
「あ、はい。マルゲリータのLサイズで」
注文を通しながら、樹はちらりと千夏に視線を送った。千夏も気づいている。この手の客は、境見町では珍しくない。新しく越してきたばかりの、まだ町に馴染んでいない顔だ。
生地を伸ばしながら、千夏はさりげなく声をかけた。
「兄ちゃん、この辺じゃ見ない顔だな。引っ越してきたのか」
「……ああ。商店街の空き店舗、借りた。鍛冶屋、やる」
「へえ、鍛冶屋! そりゃ町の連中も喜ぶ。今の代、道具の修理でみんな苦労してたからな」
男は少し驚いた顔をしたが、すぐにまた無愛想な表情に戻った。
「別に、喜ばれたくてやるわけじゃない」
千夏はその言い方に、少しだけ引っかかるものを感じたが、口には出さなかった。
焼き上がったピザを運んだのは、千夏だった。
「お待たせ。景気よく食えよ」
「……お前」
男が、皿を置く千夏の手元をじっと見ていた。
「ハーフだろう。ドワーフの血が入ってる」
「そうだけど」
「どっちの血が強いんだ」
厨房の奥で、樹の手が止まったのが分かった。この質問がどういう意味を持つか、樹はよく知っている。
千夏は、特に表情を変えなかった。
「さあな。量ったことねーよ、そんなもん」
「はぐらかすなよ」
「はぐらかしてねーよ。答えがないもんに答えろって言われても困るんだよ」
男は納得のいかない顔で、ピザを乱暴に頬張った。
「俺の育った所じゃ、ハーフはどっちつかずだって嫌われてた。ドワーフの仕事場に、半端な奴を入れるなって」
「へえ。そういう所もあるんだな」
千夏は、意外と平坦な声でそれを受け止めた。怒っているようには見えない。ただ、少しだけ目が細くなっている。
「で、それがどうした」
「……別に」
「言いたいことあるなら言えよ。中途半端に黙られる方が気持ち悪い」
男は、しばらく黙ってピザを見つめていた。それから、ぼそりと言った。
「お前、都合よく生きてそうだな。得な方の血、選んで生きてるみたいで」
店の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
樹が思わず口を開きかけたが、それより早く、千夏が笑った。豪快に、いつもの声で。
「言うじゃねーか。まあ、その通りだよ」
「……開き直るのか」
「開き直るも何も、事実だからな。私は都合よく生きてる。ドワーフが得なら『私はドワーフです』って言うし、人間が得なら『人間みたいなもんです』って言う。最後の一切れだって、そうやって食ってきた」
千夏はカウンターに片肘をついて、男を真っ直ぐに見た。
「でもな。都合よく選べるってことは、どっちも私のもんだってことだ。半端じゃない。両方持ってる」
男は言葉を失ったように、千夏を見返していた。
「――ここは境見町だ。都合よく生きたっていい町なんだよ」
男は言葉に詰まったまま、それ以上何も言わなかった。
千夏はそう言い切ると、空いた皿を片手にさっと厨房へ戻っていった。いつも通りの、堂々とした足取りだった。
だが、厨房の奥でグラスを拭いていた樹だけが、その一瞬を見ていた。
振り返った直後、千夏の口元から笑みが消える、ほんの一秒に満たない間があったことを。
(……今の、平気だったのかな)
声をかけるべきか、樹は少し迷った。だが、次の瞬間には千夏はもういつもの調子で、まな板の上のチーズを乱暴に刻んでいた。
「樹、ぼーっとすんな。グラス足りねーぞ」
「あ、はい!」
いつも通りの声だった。それだけで、樹は少しだけ安心して、それ以上は聞かないことにした。放っておいてほしいときもある、というのは、樹自身が一番よく知っていることだった。
夕方、閉店作業をしていると、外から重いものを引きずるような音がした。
様子を見に出ると、あの鍛冶屋の男が、新しい店の前で、大きな作業台を一人で運ぼうと悪戦苦闘していた。
「一人でやってんのか。バカじゃねーの」
千夏は声をかけるより先に、作業台の反対側に手をかけていた。
「お、おい」
「口動かす前に足動かせ。せーの」
二人で持ち上げると、驚くほど軽く運べた。ドワーフの力に、千夏のもう半分の力が重なる。男は驚いた顔で、自分の店の中に運び込まれていく作業台を見ていた。
「……ありがとう、とは言わない」
「言わなくていいよ、そういうタイプだって分かってる」
「その代わり」
男は、少し気まずそうに目を逸らしながら、ぼそりと続けた。
「今度、店が落ち着いたら、道具の一つでも打ってやる。安くしとく」
それが精一杯の礼のつもりらしい。千夏はそれを聞いて、にやりと笑った。
「――ドワーフらしい礼だな。いいよ、期待しとく」
「……名前、聞いてなかった」
「真壁千夏。ハーフ&ハーフで働いてる。暇なら顔出せよ」
「……岩田だ。豪太」
名乗るだけ名乗って、豪太は逃げるように店の奥へ引っ込んでいった。千夏はその背中に向かって、片手を挙げてから店に戻った。
「――で、仲良くなったんですか」
後片付けをしながら、樹が興味津々に尋ねてきた。
「さあな。あいつ次第だろ」
千夏は特に気にした様子もなく、皿を拭いている。だが、その口元は少しだけ緩んでいた。
「千夏さん、さっきの『都合よく生きたっていい町』って台詞、良かったですよ」
「柄でもないこと言ったな、って自分でも思うわ」
千夏は照れくさそうに鼻を鳴らして、樹の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「お前もいつか、ちゃんと分かる日が来るよ。都合よく生きるのは、悪いことじゃないってな」
厨房から顔を出した誠司が、話の流れも分からないまま口を挟んできた。
「おー、なんだ、いい話してんな。俺も混ぜろ」
「店長は黙って皿洗っててください」
千夏に一蹴されて、誠司はしゅんとしながら流し台に戻っていった。その様子に、樹が小さく笑う。
千夏は暖簾を下ろしながら、ふと自分の手のひらを見つめた。ドワーフの力と、人間の器用さと、その両方が同じ手に収まっている。どちらか一方だけでは、今日の作業台は運べなかった。
半端だと言われて育つ場所もある。だが、この町では、それがそのまま自分の武器になる。
窓の外は、もう夜だった。正月の名残の静けさの中に、境見町はいつもの明かりを灯している。
商店街の端では、新しい鍛冶屋の看板が、まだ灯りもついていないまま、ひっそりと立てかけられていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第十八条より】
ハーフに向かって「どっちの血が強いの?」と聞くのはやめること。答えようがない質問である。




