第三話 新緑の日はまだ遠い
元日の朝、相原家の台所は戦場だった。
「恒一! 餅は何個焼くんだい!」
「……六つ」
「少ないよ、八つにしな!」
祖母の声が家中に響く。父方の祖父母は、正月に関してだけは異様な熱量を発揮する。玄関には手書きの飾り、床の間には鏡餅、台所にはおせちの重箱。すべて祖母の仕切りで、毎年変わらぬ手順で進んでいく。
樹は炬燵に足を突っ込んだまま、その光景を眺めていた。年末の前夜祭が終わってから、まだ二日しか経っていない。体は正直に疲れているが、この賑やかさは悪くない。
「はい、樹くん。お雑煮ですよ」
母のアイリスが、お椀を運んできた。エルフの手には少し大きすぎる重箱を器用に扱いながら、鼻歌まで歌っている。
「母さん、それ祖母ちゃんの担当じゃなかった?」
「お義母さんが『アイアイは味付けの手が軽いから』って任せてくれたんです。褒められました」
嬉しそうに笑う母を見て、樹は思わず口元を緩めた。この家に嫁いできてから何十年になるのか、樹は正確な数字を知らない。母は自分の年齢を、聞かれても笑ってはぐらかす。
父の恒一は、縁側で黙々と何かの道具を磨いていた。正月休みだというのに、手が空くと必ずこうなる。表情は変わらない。眉一つ動かさず、ただ真っ直ぐに手元を見ている。
「父さん、雑煮」
「……ああ」
それだけ言って、恒一は道具を置いた。会話らしい会話になったのは、これで今日二度目だ。
昼過ぎ、おせちを囲んで一家が炬燵に集まった。
「そういえばアイアイ」
祖父が湯呑みを持ち上げながら、思い出したように口を開いた。
「エルフの正月ってのは、どんなことするんだい」
「うちの実家では、正月はあまり何もしませんね」
アイリスはあっさりと答えた。
「エルフが大事にするのは『新緑の日』ですから」
「新緑の日?」
「春に、山の緑が一斉に開く日があるんです。その日を一年の始まりとして祝います。ご馳走を食べて、家族で山を歩いて、それで終わりです」
「へえ。それはいつなんだい」
「毎年違います」
祖父の湯呑みが止まった。
「……違うのかい」
「はい。緑が開いた日が新緑の日なので。決まった日付はありません」
祖母が眉をひそめた。
「じゃあ、いつ準備するんだい。買い出しとか」
「だいたいこの辺りかな、という頃に、みんなで山を見に行って、『まだですね』『まだですねえ』と言って帰ります。それを何度か繰り返して、ある日『あ、開きました』となります」
「……何度か」
「五、六回は行きますね」
炬燵に沈黙が落ちた。祖母が、絞り出すように呟く。
「それは……気の長い話だねえ」
「面白いですよね」
アイリスは楽しそうに笑った。祖父と祖母が顔を見合わせ、やがて祖父がぽつりと言った。
「まあ、正月みたいに日が決まってた方が、こっちは楽だな」
「そうですねえ。でも、決まっていない方が、待つ時間が長くて楽しいですよ」
どちらも譲らない。しかし、どちらも相手を否定していない。樹はその会話を聞きながら、座布団の上で少し身を縮めた。
――子どもの頃、この家には二つの暦があった。
人間の暦では、正月があり、誕生日があり、毎年きちんと祝われる。母の側の暦では、節目だけが大切にされ、細かい年数は数えられない。樹の誕生日を、祖母は毎年欠かさず祝ってくれたが、母は「今年も無事に大きくなりましたね」とだけ言って、特別な騒ぎ方はしなかった。
当時の樹は、それが少し寂しかった。母は自分の誕生日に興味がないのだろうか、と思ったこともある。
どちらを自分の暦だと思えばいいのか、分からなかった。
夕方、玄関の戸が乱暴に開いた。
「あけましておめでとうございまーす! 樹、いるかー!」
千夏だった。厚手のジャンパーを着込んで、両手に何かの包みを抱えている。
「あら千夏ちゃん、いらっしゃい。上がって上がって」
祖母が嬉しそうに手招きする。千夏は靴を脱ぐのももどかしく、炬燵に突進してきた。
「うちの母が作った煮物です。あと父から、これ」
包みを開けると、一升瓶が出てきた。祖父の顔が明るくなる。
「おお、真壁さんとこの旦那から! こりゃありがたい」
「『暇なら飲みに来い』って言ってました。あの人、正月から飲む口実を探してるだけですけど」
千夏はそう言いながら、勧められる前にみかんを取って皮を剥き始めた。この家では、それが当たり前になっている。
「真壁さんとこの正月はどうなんだい」
「新年会です。うちの町内のドワーフが全員集まって、朝から飲みます」
「朝から!」
「乾杯の前に、一人ずつ去年の失敗談を言うんですよ。それが済まないと飲めないんです」
「反省会かい」
「いや、笑い話としてです。反省したら怒られます。『笑えねえ話をするな』って」
祖父が吹き出した。千夏は続ける。
「今年は父が一番ウケてました。詰所で仮眠中に寝返り打って、二段ベッドから落ちて負傷したって話で。消火活動より先に自分が救急搬送されたそうです」
「そりゃ本人は嫌だろうねえ」
「めちゃくちゃ嫌そうでした。でも一番大きい声で笑ってました」
樹は、その光景を想像して小さく笑った。真壁家の正月と、相原家の正月。どちらも賑やかで、どちらも全然違う。
縁側では、恒一が一升瓶のラベルを黙って眺めていた。真壁家の父親とは、酒を酌み交わしたことがない。ドワーフの酒宴には、いつも顔だけ出して早々に帰ってしまう。それでも、贈られた瓶は毎年きちんと棚に並べている。
夜、千夏を送るために、樹は一緒に外へ出た。
雪はもう止んでいたが、道の端に薄く残っている。二人の吐く息が、街灯の光の中で白く広がった。
「なあ、樹」
「はい?」
「お前、さっき変な顔してたぞ。おせち食ってるとき」
樹は少し驚いた。誰にも気づかれていないと思っていた。
「……大したことじゃないんです。ただ、昔のこと思い出して」
「言えよ」
千夏は前を向いたまま、歩調も変えずに言った。話したくなければ話さなくていい、という空気を残したままの言い方だった。
樹は少し迷って、口を開いた。
「子どもの頃、うちには行事が二つあったんです。人間の正月と、母さんの新緑の日と。どっちも半端にやってて、僕はどっちが自分のものなのか分からなくて」
「ふうん」
「同じ家なのに、暦が二つあるって、なんだか落ち着かなかったんですよね」
千夏は少し歩いてから、鼻で笑った。
「贅沢な悩みだな」
「え」
「二つあるなら、二回楽しめるだろ。私は最後の一切れのとき、その日の気分でドワーフになったり人間になったりしてるぞ」
「……それ、ただの都合のいい使い分けじゃないですか」
「使い分けが悪いことだって、誰が決めた」
千夏は立ち止まって、樹を振り返った。
「ハーフの決まりなんて、マナー帳にも書いてねーんだよ。書いてないってことは、自分で決めていいってことだ」
その言葉が、樹の胸の奥に、思いがけない場所に落ちた。
――決まっていないから、自分で決めていい。
そう考えたことは、一度もなかった。決まっていないことを、ずっと「宙ぶらりん」だと思っていた。
「どうした。鳩みたいな顔してるぞ」
「……いえ。なんか、今、腑に落ちました」
「意味わかんねえけど、まあいいや。じゃあな、また明日」
千夏は手を振って、雪の残る道を大股で歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、樹はしばらくその場に立っていた。
家に戻ると、居間の電気はもう消えていた。祖父母は早寝だ。台所の明かりだけがぼんやりと廊下に落ちている。
樹は水を飲みに台所へ入り、そこで足を止めた。
壁のカレンダーが、いつのまにか新しい年のものに掛け替えられている。祖母の仕事だろう。几帳面な字で、家族の予定が早々に書き込まれていた。
その四月の終わりに、一つだけ、違う筆跡がある。
鉛筆で、小さく丸が打たれていた。日付の欄には何も書かれていない。ただ、丸だけがある。四月の下旬から五月の頭まで、五つ。
樹は、それが何なのか、すぐに分かった。
新緑の日は、毎年日付が変わる。だから、当たりをつけて何度も山を見に行くことになる。その「何度か」のために、父は毎年、あらかじめ休みを取れる日に印を打っているのだ。
母に頼まれたわけではないだろう。母はそういうことを頼まない。「なんとかなります」で済ませてしまう人だ。
父は異種族が苦手だ。それは今も変わっていない。エルフの集まりには行かない。ドワーフの酒宴からは早々に帰る。五十年前に世界が変わってからずっと、その苦手意識を抱えたまま生きてきた人だ。
それでも、この家の暦には、丸が五つ打たれている。
樹はコップを持ったまま、しばらくカレンダーを見上げていた。
何も言わない父の、何も書いていない丸。それは誰に向けた説明でもなく、ただ静かにそこにあった。
――二つの暦は、半端に並んでいたんじゃない。
片方の暦を、誰かがずっと、こうやって支えていたのだ。
台所の奥から、微かに鼾が聞こえてきた。縁側で父が寝落ちしているらしい。樹は毛布を一枚持ってきて、そっと掛けた。
恒一は目を開けなかった。ただ、少しだけ寝返りを打った。
翌日の夕方、ハーフ&ハーフには灯りがついていた。
三が日は休みだと聞いていたのに、誠司は当たり前のような顔で石窯に火を入れていた。理由を聞くと、こう返ってきた。
「誰か来るかもしんないだろ」
結局、その「誰か」は本当に来た。役場の涌井が、正月疲れの顔でカウンターに座っていた。
「いやあ、年始の挨拶回りが大変で。エルフのお宅なんて、半分留守でしたよ」
「新緑の日の方が大事だから、ですか」
「そうそう。マナー帳の第三十七条にもある通りです。分かってても、毎年こうなるんですよねえ」
樹は水を注ぎながら、少し迷って、口を開いた。
「あの、涌井さん。マナー帳って、まだ増やせるんですか」
「増やせますよ。というか、そのために私がいるので」
「じゃあ……ハーフのこと、書いてないなって思って」
涌井の手が止まった。
「ああ。それはですね、実は前から課題なんです。第百条までは全部、人間・エルフ・ドワーフの三種族の話でしょう。ハーフのことは第百一条以降に別に編むって決めてあるんですが」
「決めてあるのに、書いてないんですか」
「書けなかったんですよ。誰も、正解を知らないので」
涌井は苦笑して、続けた。
「三すくみは、三つあるから決められた。でもハーフはどこにも入らない。だから『ハーフはこうしなさい』とは、役場も書けないんです」
樹は、少し考えてから言った。
「……書けないなら、そう書けばいいんじゃないですか」
「え?」
「決まっていない、って。決まっていないから、自分で決めていい、って。それだけで、たぶん助かる人がいます」
涌井は目を丸くして樹を見た。それから、鞄から手帳を取り出して、何かを書き始めた。
「……相原くん」
「はい」
「君、役場に来ないかい?」
「い、いえ、まだ高校生なので」
「冗談です。半分」
涌井は書いたものを樹に見せた。
――第百一条。ハーフに関する定めは、これより始まる。ただし、正解は書かない。決めていいのは本人である。
「どうです」
「……いいと思います」
「よし。じゃあ次の改訂版に入れます」
そこへ、皿を運びながら千夏が割り込んできた。
「なんの話だ」
「マナー帳の百一条ができたんですよ」
「へえ。何て書いた」
涌井が手帳を見せると、千夏は数秒眺めて、鼻で笑った。
「ずいぶん立派で曖昧なこと書くな。役場って感じだ」
「褒めてますか、それ」
「褒めてますよ。でも、これだけじゃ足りないな」
千夏はカウンターに肘をついて、樹の方を親指で指した。
「こいつ、正月が二回来るのを悩んでたんですよ。行事が二つあって、どっちも自分のじゃないって」
「あ、ちょっと」
「でもな、二回来るなら二回食えるんだ。面倒だけど、その分うまいもんが二回食える。それだけの話だろ」
涌井の万年筆が、宙で止まった。
「……それ、いただいていいですか」
「どうぞ。役場の役に立つなら安いもんです」
「では第百二条に――と言いたいんですが」
涌井は名残惜しそうに手帳を閉じた。
「一度の改訂で二条も増やすと、住民が混乱するんですよ。あれ、毎回『今回は何条増えた?』って楽しみにされてるので。一条ずつが丁度いいんです」
「じゃあ私のは来年か」
「次の改訂です。ちゃんと覚えておきます」
千夏は「忘れたら役場に殴り込むぞ」と言い残して、皿を下げに戻っていった。
樹はその背中を見送りながら、少し笑った。あの言い方は、条文になったとしても、たぶんそのまま千夏らしい一条になる。
「よし! 記念に一枚焼くぞ! 正月だし、餅載せるか!」
誠司が唐突に言い出して、千夏が即座に声を上げた。
「正月から餅ピザで祝う町があるか」
「あるだろ。今できた」
店中が笑った。
千夏が皿を置きながら、樹の背中を軽く叩いていった。
「なんか良いことあったろ」
「……たぶん、あったと思います」
窓の外は暗く、雪はまだ降りそうな空だった。新緑の日は、まだずっと遠い。
それでも、待つ時間は長い方が楽しいのだと、母は言っていた。
台所のカレンダーに打たれた五つの丸を思い出しながら、樹は少しだけ、その日が来るのを楽しみに思った。
【境見町 異文化生活マナー帳 第百一条より】※本話にて新規制定 ハーフに関する定めは、これより始まる。ただし、正解は書かない。決めていいのは本人である。




