第二話 境界を渡る夜
「――で! さっきの話の続きだけどな!?」
旅装の客が静かに店を出て行った後、誠司の声で樹は我に返った。すっかり話が中断されていたことを、当の誠司自身は忘れていなかったらしい。むしろ待ちきれない様子で、両手を打ち鳴らした。
「うちの店で、境見町の年越し前夜祭をやることになった!」
カウンターにいた蜂谷が、ビールを噴き出しかけた。厨房から出てきた千夏は、片眉を上げて聞き返す。
「……は? 前夜祭? なにそれ?」
「商店街会長に頼まれてよ。『今年は駅前広場が工事で使えないから、どこか代わりの場所を』って相談されてさ。俺、二つ返事で引き受けちまった」
「いつの話だ、それ」
「今朝」
「今朝!? で、いつやるんだよ、それ」
「大晦日の前日」
「今週じゃねーか!!」
千夏の怒声が店中に響いた。
「また店長か」――町の合言葉が、樹の頭の中でも自然と浮かんだ。
翌日から、樹は学校帰りに商店街を回ることになった。誰に頼まれたわけでもなかったが、気づけば千夏に「お前、聞き込み得意そうだから頼むわ」と押し付けられていた。
「あ、樹くん! 前夜祭の話、店長さんから聞いたよ」
八百屋のおばちゃんが、笑顔で声をかけてくる。
「はい、それで、当日の人数の目安をお聞きしたくて……」
「ウチは家族五人で行くよ! あと隣の肉屋さんも誘っとくね」
一軒一軒回るたびに、情報が少しずつ集まっていく。最初は緊張していた樹だったが、話しかけるたびに、皆が気さくに応じてくれることに気づいていった。
検問所の詰所にも顔を出すと、担当の職員が苦笑しながら教えてくれた。
「自治区側からも、五、六人は顔を出すんじゃないかな。堅い連中じゃなくて、普段からこっちに買い物に来るような人たちだけど」
「ありがとうございます。参考になります」
メモを取りながら、樹はふと気づく。誰かに何かを頼まれて、それをこなしているだけのはずなのに、今はなぜか、それが苦にならない。むしろ、少しだけ――楽しい。
夕方、店に戻ると、千夏が仕込みの手を止めて出迎えた。
「おう、どうだった」
「だいたい、六十人から八十人くらいかなと。子ども連れも多そうなので、取り分けやすい小さめのピザも何種類か作った方がいいかもしれません」
「……お前、本当にすげーな」
千夏が素直に言うので、樹は照れて視線を落とした。
「そんな、大したことじゃ」
「大したことだよ。誰にでもできることじゃねぇんだ、それ」
その言葉が、樹の胸にじんわりと染み込んでいく。
材料の調達も、際どいところで間に合った。商店街のドワーフの店主たちが「困ったときはお互い様だ」と、余った小麦粉やチーズを店先から運び込んでくれたおかげだった。誠司は「ほら、なんとかなったろ」と胸を張っていたが、実際になんとかしたのは、商店街の人たちの方だった。
――そうして迎えた、前夜祭当日。
境見町の空き地に、提灯とストーブが並んだ。ハーフ&ハーフの前には特設の石窯まで運び込まれ、湯気と香ばしい匂いが冬の夜気に溶けていく。
「はいよ、マルゲリータ一枚お待ち!」
千夏の威勢のいい声が響く。エルフの子どもたちが目を輝かせて列に並び、ドワーフの職人たちが酒樽を持ち寄って乾杯している。人間の家族連れが、慣れない手つきでピザを取り分けている姿もある。誰も彼もが、種族関係なく同じ火の周りに集まっていた。
厨房から少し離れたところでは、その千夏が今度はドワーフの常連たちに囲まれて、湯気の立つカップ酒を勢いよく空けていた。
「おら、次は誰だ! 私に勝てるやつはいねぇのか!?」
「言うようになったな、嬢ちゃん! 二十歳になったばかりのくせに!」
「二十歳になったから、ようやく堂々と飲めるんだよ!」
どっと笑いが起きる。二十歳の誕生日を、千夏は誰よりも喜んだ。ドワーフの体は十二歳の頃にはとっくに酒を受け付けるようになっているが、法律はそうはいかない。ようやく人目を気にせず飲めることを、千夏は毎日のように噛みしめている。
樹はトレイを抱えて動き回りながら、その光景をどこか不思議な気持ちで眺めていた。人と人が混ざり合う夜。境見町では当たり前の景色のはずなのに、今夜は少しだけ、特別に見える。
「――寒かったでしょう、こっち温かいですよ」
自然と声が出た。振り返ったのは、見覚えのある顔だった。
「……また会ったな」
旅装の客だった。あの日と同じ、寒そうに肩をすくめた格好で、祭りの明かりを珍しそうに眺めている。
「お客さん、この町の方じゃないんですか?」
樹が尋ねると、彼は小さく笑った。
「ああ。あちこち回ってるだけの、ただの旅の者だ。こういう祭りは初めて見る」
彼は列に並ぶ人々を見渡しながら、ぽつりと呟いた。
「――不思議なもんだな。人間とエルフとドワーフが、同じ火を囲んで笑ってる」
その声を、たまたま近くにいた涌井が拾った。役場職員らしく、こういう質問には慣れているのだろう、気さくに答え始める。
「そりゃそうですよ。でも、最初からこうだったわけじゃないですけどね」
「というと?」
「もともとエルフやドワーフは、神話や伝説の中の存在だと思われてたんです。実在が正式に発表されたのは、五十年ほど前ですよ」
涌井は酒を片手に、懐かしむように続けた。
「発表された当初は、そりゃあ大騒ぎだったらしいです。でも結局、蓋を開けてみれば、エルフもドワーフも、俺たちと同じように働いて、笑って、腹を空かせる。そのうち『隣の家族』くらいの距離感になっていったんですよ」
そばで話を聞いていた老エルフが、ふっと目を細めて口を挟む。
「私はその頃、もう千年以上生きておりましたが……人間という種族は、変わるのが早い。最初は戸惑い、次には拒み、そして気づけば、隣で酒を酌み交わしている。あれには驚きました」
「エルフさんの時間感覚からすりゃ、五十年なんて瞬きみたいなもんでしょう」
蜂谷がそう茶化すと、老エルフは静かに笑った。
旅装の客は、その会話に静かに耳を傾けながら、樹の方をちらりと見た。
「――お前さんは、その両方の血を引いているんだろう」
「え、あ、はい。ハーフエルフです」
「難しくはないか。二つの文化の間にいるというのは」
樹は少し考えてから、正直に答えた。
「……正直、自分に何があるのか、よく分からないときはあります。でも」
視線を、祭りの人混みに向ける。エルフもドワーフも人間も、境目なく笑い合っている。
「境見町にいると、それでいいんだって思えるんです。何かを持ってなくても、ここにいていいって」
旅装の客は、しばらく黙って樹を見つめていた。それから、ふっと口元を緩める。
「――いい町だな、ここは」
その言葉には、ただの旅人の感想にしては、どこか重みがあるように樹には聞こえた。だが、それが何なのか、うまく言葉にはできなかった。
祭りの終わり際、誠司が焼き上げた最後の一枚のピザを掲げて、大声を張り上げた。
「よーし、今年も残すところあと少し! みんな、良いお年を!」
「店長がいつも通り無計画に始めた祭りだけどな!」
千夏の合いの手に、周りがどっと笑った。老エルフも、ドワーフの職人も、役場の涌井も、検問所帰りの担当者も、みな同じ火を囲んで笑っている。
旅装の客は、その輪から少し離れた場所で、静かにその光景を見つめていた。やがて、誰にも気づかれないうちに、また夜の中へ姿を消していった。
樹だけが、遠ざかる背中に気づいて、小さく手を振った。
境見町の空に、初雪がちらつき始めていた。
後片付けをしながら、千夏が樹の隣に来て、まだ温かい石窯に手をかざした。
「今年も、なんとかなったな」
「店長のおかげ、ってことになるんですかね」
「いや、みんなのおかげだろ。店長は種を蒔いただけだ」
千夏はそう言って笑い、樹の頭を軽くはたいた。痛くはない。むしろ、少しだけ温かかった。
【境見町 異文化生活マナー帳 第八条より】 店長を信用しすぎないこと。(適用先:ハーフ&ハーフのみ)




