第一話 いらっしゃい、を言う理由
境見町の冬の朝は、白い息から始まる。
まだ空が完全に明るくなりきらないうちに、『ハーフ&ハーフ』の裏口が軋んだ音を立てて開いた。顔を出したのは店長の高橋誠司。厚手のコートの下はいつものよれたエプロン姿で、手にはマッチ箱を握っている。
「さーて、今日も焼くか」
誰に言うでもなく呟きながら、店の中央に鎮座する石窯の前にしゃがみ込む。この石窯がいつから店にあるのか、誠司自身も正確には知らない。先代から「そういうものだから」としか教えられなかった。修復した跡が層になって残っている石肌に火が入ると、じわりと熱が広がっていく。
灰を掻き分けて、奥の方に手をかざしてみる。まだ温い。昨夜の熾が、灰の下で朝まで息をしていたのだ。
この店では、最後の客が食べ終わるまで窯の火を落とさない。何時になっても、である。だから朝の窯が完全に冷えていたことは、誠司の知る限り一度もなかった。
新しい薪を組んで、マッチを擦る。乾いた音を立てて炎が立ち上がると、石窯は何十年も繰り返してきた顔で、素直にそれを受け止めた。
壁には古い写真が何枚も飾られている。色褪せて、誰が写っているのかもうよく分からないものも混じっている。創業当時のものだと言われているが、いつが「当時」なのか、それを知る者はもう町にいない。
誠司は毎朝この写真の前を通るとき、少しだけ足を止める癖がある。今日も、ほんの二秒ほど。
「……よし」
気を取り直すように立ち上がり、仕込みを始めた。窓の外では、検問所へ向かう自治区帰りらしき人影が、白い息を吐きながら歩いていくのが見えた。
昼になると、店は一気に賑やかになる。
この日は二学期の終業式だった。午前で放課になった生徒たちが駅前へ流れていく中、相原樹は制服のまま裏口をくぐり、慌ただしくエプロンの紐を結んだ。
「いらっしゃいませ」
控えめな声で出迎えながら、トレイを抱えて動き回る。目立った特徴のない、どこにでもいそうな顔立ちの高校生――それが樹の、自分自身に対する評価だった。父親譲りの黒髪に、人間離れした美貌もなければ、遠くを見通すような澄んだ瞳もない。ハーフエルフだと言われても、初対面の客はたいてい驚く。
「にいちゃん、いつものね」
カウンターに座った男が声をかけてくる。町の交番に勤める巡査、蜂谷だ。制服の上着を脱いで、休憩がてらピザを頼みに来ている。
「はい、マルゲリータ一枚ですね」
樹が厨房に向かって注文を通すと、奥から野太い声が返ってきた。
「あいよ! 生地伸ばすのちょっと待っとけ、今こっちが先だ!」
真壁千夏だ。厨房でドワーフの常連客と何やら言い合いながら、両手で軽々と粉袋を持ち上げている。二十歳になったばかりだというのに、力仕事に関しては店の誰よりも頼りになる。
「相変わらず力持ちだねえ、千夏ちゃんは」
役場から昼休みに抜け出してきた涌井が、感心したように言う。
「ドワーフの血ですから。父に言わせりゃまだまだですけどね」
千夏は笑いながら答えて、石窯の前に立つ誠司に生地を渡した。誠司がそれを窯に入れる仕草は、こういうときだけ妙に様になっている。
樹はその様子を横目に見ながら、空いた皿を片付けていく。誰が何を頼んで、誰がそろそろお冷が欲しそうか――そういうことには、なぜかいつも自然と気づく。誰かに褒められたことはないし、褒められるような特技だとも思っていない。
(僕には、これといって何もないから)
そんな考えが、頭の隅をかすめる。千夏には力がある。誠司には行動力がある。店に来る客は皆、何かしらの得意なことを持っている気がする。自分だけが空っぽのまま、ただ空気を読んで動いているだけ――そう思うと、少しだけ胸の奥が重くなる。
だが、そんな樹の様子に気づく者は、この店にはちゃんといる。
「樹、ぼーっとしてんな。ほら、五番テーブル呼んでるぞ」
千夏が厨房から声を飛ばしてきた。
「あ、はい!」
樹は慌てて顔を上げ、トレイを持ち直す。千夏はそれ以上何も言わなかったが、樹が一瞬遠い目をしていたことには、たぶん気づいていた。
賑わいが少し落ち着いた頃、四人がけのテーブルで小さな騒動が起きた。
エルフの老紳士と、ドワーフの職人風の男が、一枚のピザの最後の一切れを前に、妙な沈黙を続けている。
「……どうぞ」
「いやいや、そちらこそ」
互いに譲り合い、一向に減らない一切れ。マナー帳の第四条によれば、エルフとドワーフの組み合わせではドワーフが食べることになっている。しかし今日のドワーフ職人は、朝から胃の調子が悪いとかで気が進まない様子だった。
そこに、通りがかった千夏がすっと手を伸ばした。
「はいはい、いただきまーす」
躊躇なく最後の一切れを頬張る千夏に、カウンターの蜂谷が声を上げた。
「あ! 千夏のやつ、また都合のいいこと言って客のピザ食いやがった!」
「私はドワーフですから」
「さっきは『人間みたいなもんです』って言って、うちの母ちゃんの残したパスタ食ってただろうが!」
「あれはあれ、これはこれです」
千夏はけろっとした顔で言い放つ。マナー帳の三すくみのルールは、人間・エルフ・ドワーフの間で決められたものだ。だが、ハーフはそのどこにも正式には属していない。ルールの隙間にいる存在――それを千夏は、誰よりも自由に使いこなしていた。
「アーアー、聞こえなーい。さっさと食べねぇからだろ。むしろ感謝してほしいね。私のお陰で片付いたろ」
周りの常連たちがブーブーと文句を言いながらも、どこか笑っている。エルフの老紳士も、ドワーフの職人も、結局は苦笑いで済ませていた。
樹はその様子を見ながら、小さく笑ってしまう。理不尽なはずなのに、千夏がやると誰も本気で怒らない。それも一つの才能なのかもしれない、と思いながら。
午後の日差しが傾き始めた頃、客足がふっと途切れる時間があった。ランチの波が引いて、夜の常連が来るにはまだ早い。境見町の店はどこも、この時間だけ静かになる。
カウンターの端に、一人の男が座っていた。スーツにコートを羽織ったままの、会社員らしい人間の客。注文はマルゲリータ一枚とコーラだけ。壁の古い写真をぼんやり眺めながら、ピザにはあまり手をつけていない。
樹は特に何を尋ねるでもなく、水差しの水を静かに注ぎ足した。会話はいらない、と何となく分かる。厨房で仕込みをしていた千夏がちらりと目配せしてきたが、樹は小さく首を振った。今は放っておく方がいい。
男の膝の上に置かれた鞄から、封筒の端が少しだけのぞいていた。中身は見えない。ただ、その持ち方が、心なしか強張っている。
石窯の熱がよく当たる席に、それとなく案内を変えたのは、注文を通してすぐのことだった。
「こちらの方が暖かいので」
それだけ言うと、男は少し驚いた顔をしてから、黙って移動した。
やがて男はピザを食べ終え、伝票を持ってレジに向かった。
「――ごちそうさま。なんか、ちょっと元気出たわ」
それだけ言って、コートの襟を立てて夜の中へ出て行った。
樹は何がそんなに良かったのか、正直よく分からなかった。ただ水を注いで、席を勧めただけだ。大したことはしていない。
カウンターの向こうで、千夏がにやりと笑っていた
。
「な。お前、ああいうのが得意なんだって」
「……そうですかね」
樹はあいまいに首を傾げて、また空いた皿を片付け始めた。自分ではまだ、それを才能だとは思えていない。
夕方、日が落ちるのが早い季節だ。窓の外はもうすっかり暗く、石窯の火だけが店の中を橙色に照らしている。
昼の忙しさが嘘のように、店内はゆったりとした空気に変わっていた。仕事帰りの常連がぽつぽつと顔を出し始める時間だ。
「おーい、樹、千夏! ちょっと聞いてくれ!」
厨房から誠司が飛び出してきた。何かとんでもないことを思いついた顔をしている。樹と千夏は、思わず顔を見合わせた。
「……また店長か」
千夏が呟いた言葉に、近くにいた蜂谷と涌井が同時に頷く。それは、この店で誰もが知っている合言葉だった。
「今度、うちの店でな――」
誠司が語り出す前に、扉のベルがからんと鳴った。
「いらっしゃいま――」
樹が振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れない顔だった。
寒そうに肩をすくめた、旅装のような格好の客。町の外から来た人間らしい。誰もが一瞬、視線を向けた。
だが、次の瞬間には、いつもの空気に戻る。
「寒かったでしょう、こっちどうぞ。石窯の近くが暖かいですよ」
樹が自然と声をかけていた。気づけば、体が動いていた。
誰であっても、この店に来た人には同じ言葉をかける。それが『ハーフ&ハーフ』の当たり前だった。
「――いらっしゃい」
誠司の声と、千夏の声が重なる。
その日も、境見町の夜は、変わらずピザの匂いと共に更けていった。
【境見町 異文化生活マナー帳 第四条より】 エルフとドワーフなら、ドワーフが最後の一切れを食べる。




