第四十三話 陽向という名前
二月十四日、二年目のバレンタインだった。
昇降口の下駄箱前は、朝から浮ついた空気に包まれていた。友チョコの手提げ袋を提げた女子たちが、廊下のあちこちで小さな悲鳴を上げている。エルフの生徒が、律儀に人数分きっちり用意してきたチョコを配り歩いているのも見えた。樹はその賑わいを横目に、いつも通り教室に向かった。
去年のこの日は、白瀬と早坂の話で頭がいっぱいだった。柏木への三年越しの想いと、それを後押しした自分の言葉。今年は、特に何も予定がない。それでいいと思っていた。教室の窓から差し込む二月の光は、まだ冬の白さを残している。
自分の席に着くと、机の上には特に何も置かれていなかった。それを見て、樹は少しだけ、去年と同じ静けさを感じた。悪くない静けさだった。
昼休み、早坂が樹の机にやってきた。頬がいつもより少し赤いのは、教室の暖房のせいだけではなさそうだった。
「相原くん、ちょっといい?」
「うん」
早坂は、小さな紙袋を差し出した。去年のような教室の喧騒の中ではなく、放課後まで待つのかと思っていたが、今年は昼に来た。手渡すまでの間、指先がわずかに震えているのが見えた。
「はい、これ」
「ありがとう。……去年もくれたよね」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
樹がそう言うと、早坂は少しだけ驚いたような顔をした。周りの席では、他の生徒たちが自分たちのやり取りに夢中で、こちらには誰も気づいていなかった。教室の喧騒が、まるで別の世界の出来事のように遠く感じられる。
「相原くんは、そういうの、ちゃんと覚えてるタイプだよね」
「そうかな」
「うん。図書室で、いつもそう思う」
樹は、その言葉に少しだけ照れた。自分では意識していなかった性質を、他人から指摘されると、いつも不思議な気持ちになる。
「今年のは、去年と違うから」
「違う?」
「友チョコじゃない」
早坂はそれだけ言って、視線を逸らした。教室の喧騒が、一瞬だけ遠くなった気がした。窓の外で、部活動の勧誘をする声が響いている。それすらも、樹の耳にはひどく遠く聞こえた。
「……そう、なんだ」
樹は、うまく言葉が出てこなかった。図書室での早坂の様子を思い出す。何か言いかけて、言わなかったあの日のことを。あれは、この日のための助走だったのかもしれない。
「返事とか、今すぐじゃなくていいから」
早坂は早口でそう続けた。まるで、勢いをつけないと言い切れないことのように。
「白瀬さんたちみたいに、時間かかってもいいし」
「うん」
「だから、いつも通りでいい」
樹は紙袋を受け取ったまま、しばらく黙っていた。手のひらに伝わる紙袋の重みが、いつもより確かなものに感じられた。
どう答えるべきか、樹には分からなかった。ただ、いつも通りでいい、という言葉には、素直に頷けた。急かされないことの心地よさを、この一年で、樹は誰よりもよく知っている。
「早坂さん」
「なに」
樹は少し迷ってから、口を開いた。教室の喧騒が、まだ遠くで続いている。この一言だけは、誰にも聞かれたくないような、そんな気持ちがあった。心臓が、いつもより速く動いているのが分かる。
「陽向さん」
早坂が、目を丸くした。
「……名前」
「うん」
「初めて呼んだね」
「うん」
樹は、それ以上うまく言葉にできなかった。ただ、今はそう呼びたい気がした。理由を説明できるほど、自分の気持ちが整理できているわけではなかったが、それだけは確かだった。文化祭の日、名前を呼ばれたことがないと言われたことを、樹はずっと覚えていた。あのとき返せなかった何かを、今、ようやく返せた気がした。
早坂は、しばらく樹の顔を見ていた。それから、少し照れたように笑った。頬の赤さが、さっきよりも濃くなっている。
「それだけで、十分だよ」
放課後、樹は白瀬とすれ違った。廊下の窓から差し込む光が、下校する生徒たちの影を長く伸ばしている。
「相原くん、なんだか顔つきが違いますね」
「そうですか」
「はい。前より、少し」
白瀬はそう言って、それ以上は聞かなかった。急かさない人だ。樹はそのことに、少しだけ救われた気がした。三年かけて自分の答えを見つけた人だからこそ、他人の速度も尊重できるのかもしれない。
「白瀬さんは、柏木さんと、うまくいってますか」
樹が聞くと、白瀬は少し考えてから答えた。
「地味に、うまくいっています」
「地味に、ですか」
「地味でいいんです」
その言い方が、あまりにも白瀬らしくて、樹は思わず笑ってしまった。
夜、店に出勤すると、千夏が仕込みをしていた。石窯の熱が、開店前の店内にじんわりと広がっている。
「おう、樹。今日バレンタインだったな」
「はい」
「何かもらったか」
「もらいました」
「へえ」
千夏はそれ以上詮索せず、生地を伸ばす作業に戻った。踏み込みすぎない、いつもの距離感だった。樹はエプロンをつけながら、鞄の中の紙袋を思い浮かべた。
「なんだよ、今日ちょっと様子変だぞ」
「そうですか」
「らしくない顔してる」
千夏はそう言いながらも、それ以上は突っ込まなかった。この店で働く人間は、皆どこかで、聞かないことの大切さを知っている。
名前を呼んだだけだった。それだけのことが、こんなに大きな一歩に感じられるとは、樹自身も思っていなかった。急がなくていい、と誰かに言われるたび安心してきたが、今日は自分から、小さな一歩を踏み出した気がする。
石窯の火が、今日もいつも通り店を照らしている。二月の夜は、まだ冷たい。それでも、確かに何かが変わり始めていた。窓の外を見ると、商店街の明かりが、いつもと同じように灯っていた。何も変わらない景色の中に、樹の中だけ、小さな変化が芽生えていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第三十七条より】
バレンタインに何を渡すかより、誰に渡すかの方が、この町では話題になる。
今回もお読みいただきありがとうございます(*ノωノ)
早坂さん、今年は「友チョコじゃない」と言いました。
樹くん、初めて名前を呼びました。
「陽向さん」
それだけで、十分だと言われました。
去年から少しずつ積み重なってきたものが、
今日、小さく形になった気がします。
樹くんはどうするのでしょう。




