第四十二話 落とし穴の日
二月十三日、明日はバレンタインだった。
夕食の席で、樹はふと箸を止めた。台所では母のアイリスが洗い物をしていて、父の恒一は縁側で新聞を読んでいる。いつもと変わらない、静かな夜の光景だった。食卓には、鮭の塩焼きと味噌汁が並んでいる。だが樹の頭には、昨日図書室で聞いた話がまだ残っていた。白瀬の三年越しの恋、柏木の地味な手紙。そして先週、千夏が役場で両親の記録を探していたという話も。
自分の両親のことを、樹はどれくらい知っているだろうか。考えてみると、意外なほど何も知らないことに気づいた。
「父さん、母さん」
樹は思い切って切り出した。
「二人って、どうやって知り合ったの」
新聞をめくる音が止まった。台所の水音も、一瞬だけ途切れた。
「聞いたことなかったですね、そういえば」
アイリスがエプロンで手を拭きながら、居間にやってきた。楽しそうな顔をしている。畳の上に座ると、いつものように背筋を伸ばした。
「話しましょうか」
「いや」
恒一が短く言った。新聞を畳んで、少し気まずそうに視線を逸らす。湯呑みを持つ手が、心なしかいつもより固い。
「別に、大した話じゃない」
「大した話ですよ」
アイリスはあっさり否定した。恒一の隣に座って、樹の方を見る。目元に、いたずらっぽい光が浮かんでいた。
「私が、穴に落ちたんです」
「穴?」
「深さ三メートルくらいの、落とし穴です。ドワーフの子どもたちが、悪戯で掘ったものでした」
樹は思わず身を乗り出した。想像もしていなかった始まり方だった。三十年近く前の話だというのに、母の口調はまるで昨日のことのように滑らかだった。
「私、ぼーっと歩いていて、気づいたら落ちていました」
「落ちて、どうしたの」
「体育座りをして、空を眺めていました」
「それだけ?」
「それだけです。慌てても仕方ありませんから」
母らしい答えだった。樹は少し笑ってしまった。三メートルの穴の底で空を眺めている母の姿が、簡単に想像できてしまう。今の母と、少しも変わっていないのだろう。
「そこに、お父さんが通りかかったんです」
アイリスが恒一の方を見た。恒一は黙って、湯呑みを持ち上げている。表情を変えないまま、目だけがわずかに動いていた。
「何やってる、って聞かれました」
「答えたの?」
「落ちました、見ての通りです、って答えました」
「見ての通り、って」
樹はまた笑った。三十年近く前の母も、今と変わらない調子だったらしい。
「お父さん、助けてくれたんです。それで、帰ろうとしました」
「帰ろうとした?」
「はい。それだけの話にするつもりだったんでしょうね」
アイリスは恒一を見て、くすりと笑った。恒一は何も言わず、耳の先だけが少し赤くなっていた。縁側の障子越しに差し込む夕方の光が、その横顔をわずかに橙色に染めている。
「私、その時、言ったんです」
アイリスは、その一言を、まるで大切な宝物を取り出すように、ゆっくりと口にした。
「ドワーフさんが穴を掘って、エルフの私が落ちて、人間のあなたが助けてくれました。なんだかこの町そのものみたいですね、って」
樹は、その言葉を胸の中で繰り返した。境見町という場所を、母は出会ったその瞬間に、もう見抜いていたのかもしれない。三つの種族が、悪戯と、偶然と、親切という、なんでもない形で重なり合う。それがこの町の本質だと、二十代の母は、穴の底から見上げただけで理解していたことになる。
「その一言で」
アイリスは続けた。
「お父さんは、私のことを、エルフじゃなくて、アイリスという一人の人間として見てくれるようになったんです。……人間じゃないですけど、まあ、そういう意味で」
恒一は、その説明を否定しなかった。ただ黙って、湯呑みの中の茶を見つめていた。
「今でも、異種族は苦手なんですよね、父さん」
樹が聞くと、恒一は少し黙ってから、頷いた。表情はほとんど動かない。だが、答えるまでの間に、正直に考えている様子が見えた。
「苦手だ。それは変わらん」
「でも」
「アイリスは、別だ」
それだけ言って、恒一はまた新聞に視線を戻した。不器用な言い方だったが、樹には十分に伝わった。偏見が消えたわけではない。それでも、一人だけは別だと言い切れる。その両方が、同じ人の中にある。矛盾しているようで、矛盾していない。父を見ていると、いつもそう思う。
「樹くん」
アイリスが、樹の顔を覗き込んだ。目元に、いつもの穏やかな光が浮かんでいる。
「明日、誰かに何か渡すんですか」
「え、いや、そういうのは」
「そうですか」
母は少し残念そうに、でもすぐに笑顔に戻った。
「まあ、急ぐことじゃありませんね」
樹はその言葉に、少しだけほっとした。急がなくていい、と言われるたび、この家族の距離感が、自分に合っているのだと感じる。父も母も、誰かを急かしたことは一度もない。それが当たり前の家で育ったことを、樹は今日、少しだけ実感した。
夜、店に出勤すると、千夏が発注ノートを片付けているところだった。石窯の残り火が、カウンター周りをまだ薄く暖めている。
「千夏さん、今日、家で親の話聞きました」
「へえ、珍しいな」
「うちの親、落とし穴で会ったらしいです」
「落とし穴?」
千夏が目を丸くした。手にしていたペンが、一瞬止まる。
「三メートルの穴に、母が落ちてたんです。それを父が助けて」
「なんつー出会い方だよ」
「僕もそう思いました」
「うちは、消防団の詰所らしいです。地味だな」
千夏は自分の親のことを思い出したのか、少し苦笑した。
「地味でいいと思います」
「お前、最近そればっかりだな」
「白瀬さんの受け売りです」
樹はそう答えて、エプロンを結んだ。石窯の火が、いつもの橙色に店を照らしている。落とし穴で会った両親と、詰所で会ったらしい両親。それぞれの家に、それぞれの始まりがある。誰かに証明してもらう必要のない、その家だけの物語だ。
明日はバレンタインだ。境見町の二月は、まだゆっくりと進んでいく。窓の外の夜気は冷たいが、どこかに、確かに春の気配が近づいていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十六条より】
夫婦喧嘩の仲裁を頼まれたら、ドワーフ夫婦には「どっちが悪いか」を聞いてはいけない。
「どっちも意地を張っているだけ」がだいたい正解。
今回もお読みいただきありがとうございます(◍•ᴗ•◍)
樹くん、初めて両親の馴れ初めを聞きました。
三メートルの落とし穴。
「なんだかこの町そのものみたいですね」
千夏さんの家は消防団の詰所、樹くんの家は落とし穴。
それぞれの始まりが、それぞれにあります。
私自身、この設定を作っているとき、更にこの作品のことを好きになったと感じたエピソードのひとつでした(●´ω`●)




