第四十一話 図書室の沈黙
二月十二日、放課後の図書室は、いつになく静かだった。
試験期間でもないのに、窓際の席には数人の生徒が残っている。二月の弱い西日が、書架の隙間から差し込んで、床に細長い光の帯を作っていた。埃っぽい紙の匂いが、暖房の効いた空気にゆっくりと混ざっている。樹は返却期限の過ぎた本を返しに来ただけのつもりだったが、カウンターに白瀬の姿を見つけて、少し足を止めた。
「白瀬さん、当番だっけ」
「はい。木曜日の担当です」
白瀬はいつも通りの落ち着いた声で答えた。返却された本を一冊ずつ、丁寧にバーコードで読み取っていく。その手つきに、迷いは一つもなかった。カウンターの脇には、返却待ちの本が几帳面に積み上げられている。誰が見ても分かるくらい、整然とした仕事ぶりだった。
樹は借りていた本をカウンターに置いた。白瀬はそれを受け取って、表紙をちらりと見た。
「これ、面白かったですか」
「まあまあでした」
「まあまあ、ですか」
白瀬は少し首を傾げた。感想の温度をはかりかねている様子だった。
「結末が急ぎ足だった気がして」
「急ぎ足」
「主人公が悩む時間が、三頁くらいしかなかったんです」
「それは、確かに急いでますね」
白瀬は少し真剣な顔で頷いた。悩む時間の短さを、まるで自分のことのように評価しているようだった。
「早坂さん、まだですか」
白瀬がふと呟いた。今日は三人で集まる約束をしていたことを、樹はそこで思い出した。委員会の仕事の合間に、少し話そうということになっていたはずだ。
「まだみたいですね」
樹はそう答えて、近くの椅子に腰を下ろした。白瀬は残りの返却作業を続けながら、時折、静かにページをめくる音を立てていた。
沈黙が続いた。気まずさはなかった。白瀬と二人でいるとき、沈黙は自然なことだった。この人は言葉を惜しむ人ではなく、ただ、言葉を急がない人なのだ。窓の外で、部活動帰りらしい生徒たちの声が、遠く小さく響いていた。
しばらくして、扉が勢いよく開いた。
「ごめん、遅くなった!」
早坂が鞄を抱えて駆け込んできた。頬が少し赤くなっているのは、走ってきたせいらしい。
「委員会長引いちゃって」
「大丈夫です」
白瀬が微笑んで答えた。早坂は空いている椅子にどさりと座って、大きく息を吐いた。
「はー、疲れた。あ、そうだ、聞いて」
「なんですか」
「うちのクラスの子が、白瀬さんのこと聞いてきたの。最近なんか雰囲気変わったよねって」
白瀬の手が、一瞬止まった。
「変わりましたか」
「変わったよ。なんか、柔らかくなった」
早坂はにやにやしながら言った。樹は横で、その反応をどう受け止めればいいか分からず、黙って様子を見ていた。白瀬の耳が、心なしか赤くなっている気がした。
「柏木さんから、また手紙来た?」
「はい」
白瀬はあっさり認めた。誤魔化す気配はない。鞄の内ポケットに、まだ開けていない封筒が一枚入っているのが見えた。
「何て書いてあったの」
「サークルの話です。あと、大学の食堂のメニューが不味いという話」
「地味!」
早坂が声を上げた。樹も思わず笑ってしまった。手紙のやり取りにしては、あまりにも日常的な内容だった。
「地味でいいんです」
白瀬は真顔で答えた。カウンターの上で、指先が封筒の角を軽くなぞっている。
「特別なことばかり書かれても、続きません。大学の食堂の話が書ける関係の方が、私は好きです」
その言い方に、樹は少し感心した。三年かけて悩んだ人が出した結論が、地味な日常の共有だというのは、なんだか腑に落ちる話だった。
「返事は、どんなこと書くんですか」
樹が聞くと、白瀬は少し考えた。
「今日、図書室で誰が何の本を借りたか、とか」
「それも地味ですね」
「地味でいいんです」
白瀬は繰り返した。今度は、少しだけ笑いながら。
「相原くんは?」
早坂が急に話を振ってきた。
「僕?」
「進路とか、その後どう?」
「まだ、同じです」
「三学期末なのに?」
「はい」
樹は正直に答えた。三浦には「悪くない」と言われたが、それ以上の答えはまだ出ていない。鞄の中の進路希望調査の控えを、なんとなく思い浮かべた。
「まあ、いいんじゃない。相原くんは、そういう人だし」
早坂はあっさりそう言って、それ以上は追及しなかった。白瀬も同じように、静かに頷いただけだった。誰も、急かさなかった。この図書室にいる限り、時間の流れ方は誰にも強制されない、そんな空気があった。
三人でしばらく他愛のない話をしてから、委員会の仕事のために白瀬がカウンターの奥へ戻っていった。書架の間に消えていく背中が、いつもより少しだけ軽やかに見えた。
残された樹と早坂は、しばらく黙って窓の外を見ていた。夕方の空が、薄いオレンジ色に染まり始めている。図書室の蛍光灯が、ぱちりと小さな音を立てて点灯した。
「なあ、相原くん」
「うん」
「白瀬さんの手紙の話、聞いてどう思った?」
樹は少し考えた。窓の外の校庭で、部活動の生徒が声を掛け合っているのが見える。
「いいなと思った」
「どこが」
「特別じゃなくても続けられる、っていうところ」
早坂は、その答えを聞いて、少しだけ黙った。指先で、机の木目をなぞっている。
「……そうだね」
それだけ言って、早坂は窓の外に視線を戻した。樹はその横顔を見て、何か言いたいことがあるような気配を感じたが、それが何なのかは分からなかった。
聞かないでいることの方が、今は正しい気がした。それが正しいのかどうか、樹自身にも確信はなかったが、この一年で少しずつ身についた判断だった。
図書室を出ると、外はもうすっかり夕暮れだった。二人分の足音が、静まり返った廊下に小さく響く。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
早坂は駅の方向へ、樹は店の方向へ、それぞれ別れて歩き出した。振り返ると、早坂はもう校門の方を向いて歩いていた。
商店街に入ると、いつもの匂いが漂ってきた。ハーフ&ハーフの窓には、もう明かりが灯っている。
「あ、樹くん。今日遅かったな」
千夏が暖簾の紐を結び直しながら声をかけた。
「白瀬さんと早坂さんと、少し話してました」
「へえ、楽しそうだな」
「楽しかったです」
樹は素直にそう答えた。石窯の火が、店の中を暖かく照らしている。今日も特別な事件は何もなかった。それでも、悪くない一日だったと、樹は思った。窓の外では、二月の夜がゆっくりと町を包み始めていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第二十五条より】
エルフとの会話で沈黙が続いても、気まずいとは限らないので気をつけること。
エルフにとっては1ヶ月以内の沈黙は会話のうちである。
今回もお読みいただきありがとうございます(*´ω`*)
図書室で三人が集まりました。
白瀬さん、柏木さんとの手紙は地味な内容だそうです。
「特別なことばかり書かれても、続きません」
早坂さんが、白瀬さんの変化に気づいて、からかっていました。
そして帰り道、少しだけ何か言いたそうな顔をしていましたが……
今回はそれ以上、触れませんでした。




