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第四十話 記録にない話

二月五日、千夏はこの日、店がお休みだった。


 特に予定もなく、昼過ぎになって、ふと思い立って役場に向かった。前日の立春から、季節はまだ本格的には動いていない。それでも、空気のどこかに、わずかな緩みが混じっている気がした。


 異文化相談窓口の扉を開けると、涌井が書類の山に埋もれていた。窓の外は薄曇りで、午後の光が窓口カウンターに斜めに差し込んでいる。書類をめくる音と、隣の課の電話が鳴る音が、静かに混ざり合っていた。壁の時計は、いつもより少しゆっくり時を刻んでいるように見えた。


「涌井さん、ちょっといいですか」


「あ、千夏さん。珍しいですね、ここに来るのは」


 涌井は書類から顔を上げて、少し驚いた顔をした。眼鏡の奥の目が、いつもより少し丸くなっている。


「聞きたいことがあって」


「なんですか、改まって」


 千夏は少し迷ってから、切り出した。指先で、カウンターの縁を一度なぞってから口を開く。


「うちの親父とお袋のことなんですけど。昔の記録とか、役場に残ってたりします?」


 涌井は少し考えるように、天井をじっと見上げた。



「結婚した時期にもよりますけど、婚姻届は残ってるはずですよ。あとは、それぞれの転入届とか」


「見られますか、その記録」


「本人か、直系の家族なら請求できますよ。千夏さんなら大丈夫です」


 涌井は持っていたペンを机に置くと、席を立って奥の書庫に向かった。埃っぽい古い紙の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。棚には、年代ごとに整理されたファイルが並んでいた。年号の書かれた背表紙が、上から下へと時代を遡っていく。涌井は慣れた手つきで、古い箱を一つ引き出した。


「ありました」


 千夏はカウンターに身を乗り出した。心臓が、思いのほか速く動いているのに気づいた。



 涌井が広げたのは、色褪せた一枚の紙だった。角が少し丸まっていて、二十一年という年月を物語っている。


「婚姻届。日付は、二十一年前ですね」


「二十一年」


「あと、こっちに」


 涌井は別の紙を取り出した。志乃の転入届だった。当時の住所と、職業欄に「消防団事務員」と書かれている。手書きの文字は、今の志乃の字とよく似ていた。丁寧で、迷いのない線だった。


「事務員だったのか、お袋」


「消防団の事務所で働いてたみたいですね。今の消防署とは別の、地域の詰所です」


 千夏は、その文字をじっと見つめた。仕事で会った、と志乃は言っていた。この職業なら、ゲンゾーと接点があってもおかしくない。消防士と、消防団の事務員。同じ現場に、それぞれ別の立場で立ち会う仕事だった。


「これだけじゃ、馴れ初めは分かりませんね」


 涌井は苦笑した。書類を几帳面に揃え直しながら、少し申し訳なさそうな顔をする。


「役場に残ってるのは、事実だけなので」


「事実だけでも、十分だ」


 千夏はそう言って、紙をもう一度見た。母が若い頃、どんな顔でこの仕事をしていたのか、想像もつかない。それでも、確かにここに、母の名前と職業が残っていた。書類という無機質な形をしていても、それは確かに、母が生きてきた証だった。



 役場を出て、千夏は消防団の詰所の前を通った。


 今はもう使われていない古い建物で、シャッターが下りている。二十一年前、ここで母が働いていたのかもしれない。そう考えると、見慣れたはずの建物が、少しだけ違って見えた。壁には「消防団詰所」という古い看板の跡が、ペンキの色の違いとしてうっすら残っていた。


 千夏は足を止めて、しばらくその建物を眺めていた。夕方の光が、シャッターの錆びた表面を橙色に染めている。ここで父と母が出会ったのかどうかは、まだ分からない。ただ、二人がそれぞれの持ち場で、それぞれの仕事をしていた時代が確かにあったということだけは、間違いなかった。


 通りを歩く人が、千夏の視線の先を不思議そうに見ていった。だが千夏は気にせず、しばらくそこに立っていた。



 その夜、千夏は自分の部屋で、実家に電話をかけた。


「もしもし」


「母さん。今日、役場で婚姻届見た」


 電話の向こうで、志乃が一瞬黙った。受話器越しに、台所の水音がかすかに聞こえた。


「見たの」


「見た。お袋、消防団の事務員だったんだな」


「そうよ」


 志乃はあっさり認めた。隠すつもりはないらしい。


「そこで会ったのか、父さんと」


「まあ、そうね」


 志乃の声が、電話越しに少し柔らかくなった気がした。


「じゃあ、喧嘩したのも、その頃か」


「さあ、どうだったかしら」


 志乃はまた、はぐらかした。だが今回は、少しだけ声に笑いが混じっていた。


「役場の記録には、そこまで書いてないでしょう」


「書いてなかった」


「なら、それでいいじゃない」


 千夏は電話を切ってから、少し笑ってしまった。記録に残っているのは、事実だけだ。二人がどんな顔で出会い、どんな喧嘩をしたのか、紙には書かれない。それでも、輪郭は少しずつ、確かに増えている。窓の外の月が、雲の切れ間から一瞬だけ顔を出した。上着を羽織り直して、千夏は部屋を出た。



 店に着くと、樹が暖簾を片付けているところだった。石窯の火はもう落ちかけていて、店内には最後の常連が一組だけ残っている。


「千夏さん、今日は役場でしたっけ」


「ああ。ちょっと調べ物してた」


「何をですか」


「うちの親のことだよ」


 樹は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。二人とも、聞かないでいることの大切さを、この店でいつの間にか覚えていた。手を動かしながら、樹は暖簾を丁寧に畳んでいく。


「見つかりました?」


「まあな。全部じゃねえけど、少しだけ分かった」


「全部じゃなくても、いいんじゃないですか」


「お前もそう言うのか」


 千夏は少し笑った。この店にいる人間は、誰も彼も似たようなことを言う。急がなくていい、全部でなくていい。その言葉を、いつの間にか自分も口にするようになっていた。


 窓の外はもう夜だった。商店街の明かりがぽつぽつと灯る中、二月の冷たい空気の中に、遠くから消防車のサイレンがかすかに聞こえて、すぐに静かになった。千夏はその音を、少しだけ長く聞いていた。二十一年前も、同じような音が、この町のどこかで響いていたのかもしれない。



【境見町 異文化生活マナー帳 第五十四条より】

ドワーフの親に交際を認めてもらうには、酒よりも先に「仕事への姿勢」を見せること。





今回もお読みいただきありがとうございます( ¯꒳¯ )


役場の記録を調べましたね。


婚姻届、二十一年前。

お母さんも消防団の事務員だったようです。


「事実だけでも、十分だ」


馴れ初めの核心には、まだ届いていません。

でも、両親にも記録に残らない部分がある、ということ自体が、なんだか温かい発見でした。

当たり前のことに気付かされる瞬間は誰にでもありますが、千夏さんには今、それが訪れたのかもしれませんね。

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