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第三十九話 日付だけの証

 二月四日、立春だった。


 暦の上ではもう春だが、境見町の朝はまだ冬の冷たさを引きずっている。樹は開店前、暖簾を出しながら白い息を吐いた。空は薄く晴れていて、日差しだけが、心なしか昨日より高い位置から差し込んでいる気がした。商店街の屋根に積もった霜が、朝日を受けて薄く光っている。


「今日から春なんですね」


「暦の上ではな」


 誠司が石窯の前でうなずいた。手にした薪を一本、くべながら続ける。木の爆ぜる音が、朝の静けさに小さく響いた。


「体感はまだ真冬だけどな」


 樹は苦笑して、店内の掃除に戻った。棚には、去年から続く寄せ書きの帳面が並んでいる。新しい方は、まだ二頁目までしか埋まっていない。布張りの表紙は、まだ真新しい色をしていた。



 昼過ぎ、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げると、旅装の男が立っていた。前回の来店から、ひと月ほどしか経っていない。この人にしては早いペースだった。コートの肩に、外の寒さがまだ薄く残っているように見えた。


「お久しぶりです」


「……いや、久しぶりでもないか」


 男は少し考えるように呟いて、いつもの席に座った。カウンターの一番端、決まった場所だ。コートの裾から、まだ外の冷気が漂ってくるようだった。


「同じのを」


「マルゲリータですね」


 樹は注文を通しながら、水を運んだ。グラスに水が満ちる音だけが、しばらく店の中に響いていた。厨房では、誠司が生地を伸ばす音が規則正しく続いている。



 千夏が厨房から顔を出した。エプロンで手を拭きながら、カウンターの端をちらりと見る。


「よお。今日は早いな」


「そうか」


「前回から一月も経ってねえだろ」


 男は水を一口飲んで、それには答えなかった。窓の外を見て、少しだけ目を細める。カウンターの向こうで、千夏はまた発注ノートに向き直った。


「今日は、何の日だったか」


「立春です」


 樹が答えると、男は小さく頷いた。


「そうか。立春か」


 それだけだった。だが、いつもより少しだけ、言葉の間が長かった気がした。窓から差し込む光が、カウンターの木目に薄い筋を作っている。



 ピザが焼き上がるまでの間、男はカウンターの上に置かれた寄せ書きの帳面に目をやった。


「まだ、二頁か」


「はい。急いで埋めるものじゃないので」


「誰が言った、それ」


「千夏さんです」


 男は少しだけ口の端を上げた。


「あいつらしいな」


 樹は、その言い方に引っかかった。千夏のことを、まるで前から知っているかのような口ぶりだった。単なる相槌にしては、親しみがこもりすぎている気がした。


 厨房から、千夏がふと顔を上げた。今の一言が、聞こえていたのかもしれない。彼女は何も言わなかったが、一瞬だけ手を止めて、カウンターの方を見た。それから、また発注ノートに視線を戻した。


 樹はその小さなやり取りを見ていたが、それを聞く気にはならなかった。聞かないでいることの方が、今は正しい気がした。この店では、聞かないことが、時に一番の礼儀になる。誰かに教わったわけではないが、そういうものだと、いつからか分かるようになっていた。



 ピザが運ばれてくると、男はいつも通り、ゆっくりと食べ始めた。石窯の熱が、静かな店内に籠っている。誠司は仕込みに没頭し、千夏は発注ノートをつけていた。特別なことは何も起きていない、いつもの午後だった。窓の外では、通りを歩く人の影が、少しずつ長くなり始めている。


 食べ終えて、男は帳面をもう一度手に取った。


 樹は、その様子を見ていた。今までにない仕草だった。ただ眺めるだけでなく、表紙に指をかけている。指先が、布の端を確かめるように動いていた。


「……開けてもいいか」


「え」


 樹は驚いた。今まで一度もなかったことだ。


「はい、どうぞ」


 男は帳面を開いた。三頁目、大晦日の四人の字。四頁目、樹の一行。それより先の、広い余白を、しばらく見つめていた。


 誰も声をかけなかった。厨房の千夏も、石窯の誠司も、手を止めて、その様子をじっと見守っていた。店内の時間が、少しだけ止まったように感じられた。



 男はペンを手に取った。


 樹は息を止めた。


 長い沈黙があった。窓の外を、自転車が一台通り過ぎていく音がした。ペン先が紙に触れる寸前で、一度止まる。それから、また少し動いて、止まる。何かと戦っているような、静かで長い逡巡だった。


 結局、男が書いたのは、名前ではなかった。


 ――二月四日。


 それだけだった。日付だけが、四頁目の隣に、静かに残された。筆跡は思いのほか端正で、迷いのなさそうな線だった。



「……書いたんですね」


 樹が思わず言うと、男はペンを置いて、少し困ったような顔をした。


「名前は、書けない。書くと、ややこしくなる」


「前も、そう言ってました」


「日付なら、いいだろう」


 男はそう言って、水を飲み干した。グラスの中の氷が、小さな音を立てて動いた。


「誰が書いたか分からなくても、そこにあったことは、残る」


 樹は、その言葉を胸の中で繰り返した。誰が書いたか分からない記録。それでも、確かにそこにあったという事実。



 会計を済ませて、男は扉に向かった。


「また来る」


「はい」


「今度は、名前も書けるかもしれん」


 それだけ言って、外へ出ていった。二月の冷たい風が、一瞬だけ店の中に入り込んで、すぐに消えていった。



 閉店後、樹は帳面を棚に戻す前に、もう一度その頁を見た。


 ――二月四日。


 誰の字か分からない、それだけの記録。だが、その一行は確かに、今日という日がここにあったことを証明している。石窯の余熱が、棚の周りをまだ少しだけ暖めていた。


「なあ樹」


 千夏が隣に来た。腕を組んで、同じ頁を静かに覗き込む。


「あいつ、書いたな」


「はい」


「初めてだよな」


「初めてです」


 千夏はしばらく、その頁を見ていた。表情は普段よりわずかに真剣だった。何かを考え込んでいるようでもあった。


「何かが、変わったのかもな」


「そうかもしれません」


 樹はそう答えて、帳面をそっと棚に戻した。指先に、まだインクの匂いがかすかに残っている気がした。


 窓の外は、もう夜だった。立春の日の終わりに、境見町はまだ冬の寒さの中にいる。それでも、暦の上ではもう、春が始まっていた。



【境見町 異文化生活マナー帳 第九十五条より】

町の掲示板に貼られる手書きのチラシは、誰が書いたか分からなくても、

たいてい役場の誰かが関わっている。





今回もお読みいただきありがとうございます(๑˃̵ᴗ˂̵)


旅装のお客さん、寄せ書きに初めて何かを書きました。


「名前は、書けない。書くと、ややこしくなる」

「日付なら、いいだろう」


――二月四日。


それだけの記録です。

でも、初めての一歩でした。


「あいつらしいな」


千夏さんのことを、まるで前から知っているような一言も。

気になりますね。


「今度は、名前も書けるかもしれん」


……いつになるでしょうね。

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