第三十八話 三粒の続き
二月三日、真壁家の朝は、去年と同じ匂いがした。
台所からは炒り豆の香ばしい匂いが漂い、居間には正月の名残の炬燵がまだ出ている。
窓の外は薄曇りで、去年よりわずかに暖かい気がした。
千夏は炬燵に足を入れて、志乃が豆を炒る音を聞いていた。
台所の湯気が、朝の光にゆっくりと溶けていく。
カレンダーを見ると、去年と同じ日付に「豆まき」と志乃の字で書き込まれている。
几帳面な字は、一年前とまったく同じ形をしていた。
変わらないものが一つあると、それだけで少し安心する。
千夏は炬燵の天板に頬杖をついて、しばらくその字を眺めていた。
「今年も豆まきするのか」
「するに決まってるでしょう」
志乃はざるに炒り豆を移しながら、あっさりと答えた。
当たり前のことを聞くな、という顔だった。
千夏は少し笑って、去年のことを思い出していた。
あの日、父が投げた豆で障子が破れかけた。
今年の障子は、まだ真新しいままだ。
夕方、豆まきが始まった。
「鬼は外」
ゲンゾーが袋から豆を一掴み取ろうとした瞬間、千夏と志乃が同時に声を上げた。
「待て」
「待って」
「なんだ」
ゲンゾーは不服そうな顔をした。手の中には、まだ大量の豆が握られている。
「去年、三粒だけにしろって言っただろ」
「言った」
「じゃあなんで今、一掴みなんだよ」
ゲンゾーは自分の手を見て、少し考えた。
「三粒じゃ物足りん。今年は五粒にする」
「増やしてどうすんだよ」
千夏は呆れながらも、少し笑ってしまった。
三粒から五粒。
極端から極端の間を、律儀に少しずつ動いている。
父なりの成長速度なのかもしれなかった。
結局、五粒の豆が庭の霜の上に落ちた。去年よりわずかに賑やかな音だった。
「鬼は外」
「今年は音がいいわね」
志乃が満足そうに言った。
ゲンゾーは何も言わなかったが、口元がわずかに緩んでいるのを、千夏は見逃さなかった。
豆まきの後、恵方巻の時間になった。
台所には、志乃が朝から仕込んでいた具材の香りがまだ残っている。
「今年の恵方は、南南東からちょっとずれてこっちね」
志乃が方角を確認しながら、太巻きを三人に配った。去年と同じ、黙って一本食べきるという儀式だ。
ゲンゾーは太巻きを受け取って、去年よりは幾分か落ち着いた顔をしていた。
分厚い指で海苔を丁寧に持ち直す仕草も、去年よりわずかに慣れているように見えた。
「去年より、いけそうか」
「分からん」
ゲンゾーは正直に答えた。
それでも構える姿勢には、多少の余裕が見えた。
三人は恵方を向いて、黙って食べ始めた。
台所の時計の秒針が、やけにはっきりと聞こえる。
十秒、二十秒。
去年は三十秒で音を上げた父が、今年はまだ持ちこたえていた。
窓の外で、隣家の物干し竿が風に小さく揺れる音がした。
四十秒を過ぎたところで、ゲンゾーの喉から小さな声が漏れた。
「……今日の当番、代われと言われてな」
「あんた!」
「福が逃げるでしょう!」
志乃と千夏の声が重なった。
ゲンゾーは口をもごもごさせながら、心底不服そうな顔で太巻きに戻っていった。
それでも、去年より十秒長く保った。
千夏はそれを、密かに勝利と呼ぶことにした。
太巻きを食べ終えて、千夏はふと考えていた。
去年のこの時間、自分はまだ何も知らなかった。
父が十七年、拳だこに気づかないふりをしていたことも、母が封筒を二年半黙っていたことも。
この家が「気づいていて言わない家」だということも。
そして先週、もう一つ知った。
両親の馴れ初めには、喧嘩があって、誰かが負けたという話があるらしい。
誰がどう負けたのかは、まだ聞けていない。
知らないことは、まだたくさんある。
それでも、去年より少しだけ、この家の輪郭が見えるようになった気がした。
豆の数が三粒から五粒に増えたのと、同じくらいのペースで。
急いで全部を知る必要はない。
焦らなくても、この家族は毎年ここにいる。
節分が来れば豆をまき、恵方巻を黙って食べる。
その繰り返しの中で、知れることは少しずつ増えていく。
それでいいのだと、今は思えた。
「千夏、店の時間じゃないの」
志乃の声で、千夏は我に返った。
「あ、そうだった」
千夏は慌てて立ち上がり、上着を羽織った。
店に向かう道すがら、商店街の店先には、まだ豆まきの名残の豆がいくつか転がっていた。
ハーフ&ハーフの暖簾をくぐると、樹が開店の準備をしているところだった。
「千夏さん、実家どうでした」
「五粒だったよ、今年」
「五粒?」
「聞くな。長い話だ」
樹は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
千夏はエプロンを結びながら、窓の外の夕暮れを見た。
去年よりわずかに日が長くなっている気がした。
石窯に火が入り、いつもの匂いが店に満ちていく。
夜、店が落ち着いた頃、涌井が顔を出した。
手には、いつもの鞄と一緒に、古びた一冊のファイルを抱えている。
「涌井さん、それ何ですか」
「マナー帳の制定履歴です。今日、ちょうど整理してたら見つけて」
涌井はカウンターにファイルを広げた。手書きの日付が並んでいる。
「第百二条、去年の今日、制定されてるんですよ」
「え」
千夏は思わず声を上げた。
「今日って、節分の今日ですか」
「そうです。夜、この店で。真壁さんが真壁さんの家のことを話して、それが条文になった日です」
涌井はページをめくりながら、少し感慨深そうに言った。
「一年前の同じ日に、また節分の話をしてるんですね。偶然ですけど」
「偶然にしちゃ、できすぎてねえか」
千夏はカウンターに肘をついた。
一年前のあの夜、自分が何気なく口にした言葉が、こうして記録として残っている。
今日また、五粒の豆と十秒長い沈黙という、別の小さな出来事が積み重なった。
誰かが記録しなくても、家族の中では確かに積み重なっているものがある。
「涌井さん」
「はい」
「今年は、条文にはならなそうです」
「そうですか」
「でも、悪くない一日でした」
涌井は少し笑って、ファイルを閉じた。
「条文にならないことの方が、実は多いんですよ。それでも、ちゃんと積み重なっています」
千夏はその言葉を、静かに聞いていた。
窓の外はすっかり夜に沈み、石窯の火だけが店の中を暖かく照らしている。
この町の二月は、少しずつ、確実に、春へ向かっている。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九条より】
ドワーフの家で「もう食べられません」と言うのは失礼にあたる。
もう一皿だけ頑張ること。
今回もお読みいただきありがとうございます(*´∀`)
節分、二年目です。
ゲンゾーさん、豆まきが三粒から五粒に増えました。
極端から極端の間を、律儀に少しずつ動いています。
恵方巻の沈黙も、去年より十秒長く持ちました。
四十秒で「代われと言われてな」と喋ってしまいましたが。
実は、第百二条が制定されたのも一年前の今日でした。
涌井さんが偶然見つけて教えてくれました。
千夏さん、去年より少しだけ、家族のことが分かるようになったようです。
まだ全部ではありませんが。
次回、店の日常に戻ります。




