第三十七話 返事の続き
一月末、平日の夜だった。
閉店時刻が近づき、店内には最後の客が一組残っているだけだった。石窯の火は落ち着いたオレンジ色に静まり、窓ガラスの向こうには冷たい闇が広がっている。
樹がホールを片付けていると、扉のベルが控えめに鳴った。顔を上げると、白瀬が一人で立っていた。制服のまま、鞄を胸に抱えている。頬が赤いのは、寒さのせいだけではなさそうだった。
「白瀬さん、こんな時間に」
樹は手を止めて、いつも通りの声で迎えた。だが、白瀬の様子がいつもと違うことには、すぐに気づいた。
「相原くんに、話したいことがあって」
白瀬はカウンターに座らず、入口近くに立ったままだった。何かを急いで伝えたい、そんな空気があった。いつもの落ち着いた足取りではなく、鞄を抱える手にも力がこもっている。
「柏木さんに、返事をしました」
樹は手を止めた。厨房から千夏が顔を出す気配がしたが、口は挟まなかった。この店で働く人間は、こういうとき静かに見守るものだと、自然と体が覚えている。
「なんて、答えたんですか」
「はい、と」
白瀬はそれだけ言って、少し息を吐いた。長い緊張が、やっと解けたような吐き方だった。肩から力が抜けて、いつもの落ち着きが少しずつ戻ってくるのが分かった。
「一月七日に、千夏さんに言われたことを、ずっと考えていました。怖いまま決めちまえばいい、と」
「千夏さんらしいですね」
「はい。でも、正しかったです」
白瀬は鞄の持ち手を、両手でぎゅっと握った。指先が白くなるほどの力だった。それでも、声には確かな芯があった。
「まだ返事できていない、と正直に伝えたら、柏木さんは『それでいい』と言ってくれました。それから毎週、短い手紙が届くようになったんです」
「手紙、ですか」
「はい。メールでもよかったはずなんですけど、あの人は手紙を選びました。理由は聞いていません」
樹には、なんとなくその理由が分かる気がした。手紙は、届くまでに時間がかかる。ポストに投函してから相手の手元に届くまでの数日間、書いた言葉は誰のものでもない、宙に浮いたような時間を過ごす。急かさない人らしいやり方だった。
「三通目の手紙に、こう書いてありました」
白瀬は少し目を伏せた。カウンター横の照明が、その横顔を柔らかく照らしている。鞄の中から便箋を取り出すことはしなかったが、文面はもう何度も読み返して覚えているようだった。
「『僕の時間で、待ってる。だから、君の時間で、決めていい』」
樹は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。柏木が待っているのは、白瀬が自分に合わせることではなかった。それぞれの時間のまま、ただ待つと言っているだけだった。急かさないことと、諦めないことを、同時に成立させる言い方だった。前に店で会ったときの、あの気さくな笑い方を、樹は思い出していた。あのときも、この人は同じことをしていたのかもしれない、と樹は思う。
「それを読んで、決めました。私の時間で、はい、と」
白瀬は、そこで初めて小さく笑った。
「二千年の時間で、返事をしたわけではありません。今、この瞬間の私が、決めました」
「それでいいと思います」
樹がそう言うと、白瀬は少し驚いたような顔をした。カウンターの明かりが、その表情の変化をはっきりと映し出していた。
「相原くんが、そう言うんですね」
「僕が言うと、変ですか」
「いえ。ただ、意外でした」
白瀬はそう言って、また小さく笑った。今夜、樹が見た中で一番自然な笑い方だった。
厨房から、千夏がひょっこり顔を出した。手には洗いかけのフライパンを持ったままだった。
「聞こえてたぞ、全部」
「聞いていたんですか」
「厨房から丸聞こえだ、この店」
千夏はカウンターに肘をついた。悪びれた様子は少しもない。
「で、良かったな」
「はい」
「私のアドバイス、役に立ったか」
「役に立ちました」
「よし」
千夏は満足そうに頷いた。フライパンを持ったまま、少し得意げな顔をしている。
白瀬は少し落ち着いた様子で、カウンターの端に座った。
「せっかくなので、何か頼んでいきます」
「マルゲリータですか」
「はい」
樹は注文を通しながら、少しおかしくなった。バレンタインの日も、卒業式の日も、いつも同じものを頼む人だ。決めることに時間がかかる人が、注文だけはいつも変わらない。変わらないものと、変わっていくものが、この人の中では自然に同居している。それが白瀬らしさなのかもしれない、と樹は思った。
ピザが焼き上がるのを待つ間、白瀬はカウンターの木目を見つめていた。
「相原くん」
「はい」
「これから先、あの人の時間がどんどん短くなっていくのを、私は見ることになります」
樹は、何も言えなかった。
「怖くないと言えば、嘘になります。でも、怖いまま決めていいと、教えてもらいました」
「うん」
「だから、大丈夫です」
白瀬はそう言って、真っ直ぐに前を見た。声は小さかったが、揺らぎはなかった。二千年生きる人が、百年に満たない誰かの時間に、自分の意思で歩み寄った瞬間だった。その決意は、誰かに証明してもらう必要のない、彼女一人だけのものだった。
ピザが運ばれてきて、白瀬は静かに食べ始めた。店の中には、いつもと変わらない石窯の音と、常連たちの低い話し声が続いている。その普段通りの空気の中に、白瀬の決意だけが、誰にも気づかれないまま静かに存在していた。
やがて食べ終えた白瀬は、会計を済ませて静かに帰っていった。「ごちそうさまでした」という一言と、小さな会釈だけを残して。
樹は洗い物をしながら、窓の外を見た。一月の終わりの夜は、まだ冷たいが、どこかで春の気配が近づいている気がした。ガラスに映る店内の明かりの向こうに、遠くの家々の灯りがぽつぽつと重なって見えた。
「なあ樹」
千夏が横に来た。カウンターを拭く手を止めて、白瀬の帰った扉の方をちらりと見る。
「あの二人、どうなると思う」
「分かりません」
「私も分からん」
千夏は笑った。
「でも、いい話だったな」
「はい」
樹はそう答えて、また皿を洗い始めた。水音が静かに響く中、棚の寄せ書きの帳面には、まだ広い余白が残っている。誰かの物語が、今日また一つ、少しだけ前に進んだ夜だった。窓の外では、一月の終わりの星が、変わらず澄んだ光を放っていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第四十条より】
エルフの結婚記念日は、年数ではなく「思い出の数」で祝う。
何周年かを聞くと困った顔をされる。
今回もお読みいただきありがとうございます(。•́‿•̀。)
白瀬さん、柏木さんに「はい」と答えました。
「僕の時間で、待ってる。だから、君の時間で、決めていい」
柏木さんの手紙の一文です。
合わせることを求めない、という優しさでした。
千夏さんの「怖いまま決めちまえばいい」も、
ちゃんと効いていたようです。
長かった三年越しの物語が、一つの区切りを迎えました。
これからの二人がどうなるかは、まだ分かりません。
次回、そろそろまた節分の時期になります。




