第三十六話 一度だけの話
一月下旬、木曜日の夜だった。
千夏はその日、早番で店を上がり、実家に顔を出していた。
特に用事があったわけではなかった。
ただ、なんとなく足が向いた。
商店街を抜ける道すがら、金物屋のシャッターがもう半分下りかけているのが見えた。
一月の日暮れは早い。
居間の炬燵で、志乃が繕い物をしている。
針を持つ手つきは、いつ見ても迷いがない。
ゲンゾーは非番で、縁側の方から新聞をめくる音がしていた。
台所からは、煮物の匂いがゆっくりと漂ってくる。
障子越しの明かりが、畳の上に淡い格子模様を描いていた。
「おかえり」
「ただいま」
千夏は上着を脱いで、炬燵に足を入れた。
冷えた体に、じんわりと熱が伝わってくる。
テレビをつけると、再放送のドラマが流れていた。
若い男女が公園のベンチで、ぎこちなく告白する場面だった。
安っぽいBGMが、居間に小さく響いている。
「なあ」
千夏はテレビを眺めながら、ふと口にした。
炬燵の天板に頬杖をついて、画面の光を反射させながら。
「父さんと母さんって、どうやって知り合ったんだ」
繕い物をしていた志乃の手が、一瞬だけ止まった。
縁側の新聞をめくる音も、同じ瞬間に止まった気がした。
「急にどうしたの」
志乃は手元の布から目を離さずに聞いた。
針の動きは変わらず一定だった。
「いや、白瀬のことでいろいろ考えてたら、ふと気になって」
志乃は針を布に刺したまま、少し考えるような顔をした。
「聞きたい?」
「聞きたい」
千夏はテレビを消した。
急に静かになった居間に、台所の鍋がことこと煮える音だけが残った。
「仕事だ」
縁側から、ゲンゾーの声が短く返ってきた。
新聞は依然として広げられたままで、顔はこちらを向いていない。
障子の隙間から入る冷たい空気が、その沈黙をより重く感じさせた。
「仕事で、何」
「仕事で会った。それだけだ」
「それだけって、それだけじゃ話にならねえだろ」
千夏は身を乗り出した。
ゲンゾーは新聞をめくる手を止めたが、それ以上は何も言わなかった。
耳の先が、心なしか赤くなっている気がする。
分厚い体を丸めるようにして、新聞の陰に隠れようとしているようにも見えた。
志乃が、くすりと笑った。
繕い物の手を止め、糸を丁寧に結んでから、顔を上げる。
「喧嘩してね」
「喧嘩?」
「うん。それで、負けたのよ」
千夏はその言い方に、ひっかかった。
テレビの音を消したままの居間は、鍋の煮える音だけが低く続いている。
「誰が」
「さあ」
志乃は針を動かしながら、あっさりと答えた。
表情は変わらず、いつもと同じ穏やかさのままだった。
「言ったかしら、誰が負けたって」
「今、負けたって言っただろ」
「言ったわね」
「どっちが」
「さあ」
千夏は志乃の顔を見た。
困っているようには見えなかった。
むしろ、少し楽しそうにさえ見えた。
答えをはぐらかすことそのものを、楽しんでいるようでもあった。
縁側のゲンゾーが、新聞をがさりと大きな音を立てて畳んだ。
「もう寝る」
「まだ八時だぞ」
「非番の日は早く寝る」
ゲンゾーはそう言って、立ち上がった。
廊下を歩く足音が、いつもより少し速い気がした。
襖を閉める音も、普段より一拍早い。
逃げるように部屋へ向かった父の背中を、千夏はしばらく見送っていた。
「なあ母さん」
千夏は志乃に向き直った。膝を崩して、少し前のめりになる。
「詳しく教えてくれよ」
「教えない」
「なんでだよ」
「聞かれて答えるようなことじゃないもの」
志乃は繕い物の手を止めて、湯呑みに手を伸ばした。
湯気が細く立ち上って、すぐに消えていく。
冷めかけた茶を一口飲んで、また湯呑みを両手で包み直した。
「それに、あんたが知りたいのは経緯じゃないでしょう」
「え」
「知りたいのは、続くかどうか、でしょう。異種族同士でも、うまくいくのかどうか、ということ」
千夏は言葉に詰まった。図星を突かれた気がした。
台所の鍋の音だけが、変わらず低く続いている。
「別に、そんなこと考えてねえよ」
「そう」
志乃はそれ以上追及しなかった。
ただ、静かに笑っただけだった。
その笑い方には、責めるような色は一切なかった。
「一つだけ、言えることがあるとしたらね」
志乃は湯呑みを両手で包んだ。
窓の外では、風が竹垣を小さく揺らす音がしていた。
「種族の違いなんて、喧嘩の理由としては、たいしたことないってこと」
「そうなのか」
「そうよ。うちの喧嘩の原因なんて、大抵くだらないものだった。他所の夫婦と、そんなに変わらないと思うわ」
千夏はその言葉を、しばらく考えていた。
異種族同士だから難しい、という前提で聞こうとしていた自分に、少し気づかされた気がした。
台所からは、煮物の煮詰まる甘い香りが強くなってきている。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
夕飯を終えて、千夏は店に戻る支度をした。
玄関で靴を履いていると、志乃が見送りに出てきた。
「母さん」
「なに」
「いつか、ちゃんと教えてくれよ」
「いつか、ね」
志乃は微笑んだ。
それ以上でも以下でもない、いつもの静かな笑い方だった。
二十年以上見てきたはずのその表情に、今日はほんの少しだけ、これまで気づかなかった奥行きがある気がした。
「それより、寒いから気をつけて帰りなさい」
千夏は頷いて、外に出た。
一月下旬の夜気は、刺すように冷たかった。
吐く息が白く固まって、すぐに闇に溶けていく。
星が驚くほど鮮明に見えて、家々の窓明かりが、ぽつぽつと道の先まで続いていた。
近所の犬が一声だけ吠えて、また静かになる。
振り返ると、玄関先で志乃がまだこちらをじっと見ていた。
綿入れの袖から伸びた腕で、小さく手を振っている。
手を振り返すと、志乃も同じように振り返した。
その姿は、いつもと変わらない、ただの母親の姿だった。
千夏は商店街に向かって歩き出しながら、さっきの「誰が負けたって?」という自分の問いを思い出していた。
答えは、まだ聞けていない。
街灯の光が、等間隔に足元を照らしていく。
それでも、今日知れたことが一つあった。
両親のあの喧嘩は、種族の違いなんかとは、たぶん関係のない話だったということだ。
それだけで、少しだけ、両親のことが近くなった気がした。
【境見町 異文化生活マナー帳 第六十条より】
異種族同士の夫婦が長く続く秘訣は「種族の違いを理由にしない」こと。
喧嘩の原因はだいたい、他の夫婦と同じくらい些細なことである。
今回もお読みいただきありがとうございます(๑˃̵ᴗ˂̵)
異種族婚の馴れ初めはとても面白いですね。
ゲンゾーさん、非番なのに急に早寝することにしました。
分かりやすい人です。
答えはまだ聞けていません。
でも、種族の違いとは関係のない喧嘩だったらしい、ということだけは分かりました。




