第三十五話 一月の常連たち
一月中旬、境見町はようやくいつもの速度を取り戻していた。
正月の飾りはとうに片付けられ、商店街のシャッターも普段通りに開いている。ハーフ&ハーフの店内も、特別な行事もない、ただの平日の顔をしていた。
「今日は寒いですね」
樹が窓を拭きながら言うと、誠司が石窯の前でうなずいた。
「一月は毎年こうだ。冷え込みが一番きつい」
石窯の熱が、店の中だけ別の季節のように暖かい。
窓ガラスの下の方には、うっすらと結露が滲んでいた。外の通りは、白い息を吐きながら歩く人影がまばらに行き交うだけで、まだ本格的な人出には遠い。
乾いた冬の風が、時折シャッターを小さく鳴らしていった。
昼になると、常連たちが順番にやってきた。
カウンターの椅子が一つ、また一つと埋まっていくたび、店の空気が少しずつ温度を上げていく。
蜂谷は休憩中の巡査そのままの姿で、いつものマルゲリータを頼んだ。
制帽を脇の椅子に置き、両手をこすり合わせながら暖を取っている。
「今年もよろしくな」
「もう半月経ってますけど」
樹はエプロンの紐を締め直しながら答えた。
「一月中は正月みたいなもんだろ」
樹が水を注ぐと、蜂谷は缶ではなく温かい茶を頼んだ。
冬場だけの習慣らしい。
湯気の立つ湯呑みを両手で包み、蜂谷は少しだけ肩の力を抜いた顔をしていた。
交番での緊張が、この店に来るとほどけていくのだろう。
入れ替わりに、涌井が役場帰りに顔を出した。
改訂版のマナー帳を小脇に抱えている。
「相原くん、聞いてください」
「なんですか」
「今日、窓口に来た方が、第百四条を読んで泣いてました」
「泣いた、ですか」
「『一度しかない家にも歴史がある』の部分に、すごく感謝されて」
涌井は少し照れたように鞄を整えた。
「条文が誰かの役に立ったって聞くと、こういう仕事してて良かったなと思います」
涌井はそう言って、鞄からマナー帳を取り出し、ぱらぱらとめくった。
第百四条のページで手を止め、しばらくその文字を眺めていた。
窓から差し込む午後の光が、紙面に薄く反射している。
樹はその話を聞いて、少し嬉しくなった。
あの一言は、五か月かけて出来上がった条文だ。
誰かに届いたと知ると、重みが増す気がした。
自分が言った言葉が、会ったこともない誰かの元に届いて、その人の何かを軽くした。
そう考えると、不思議で温かい気持ちになる。
午後、金物屋の主人が包丁を研ぎに出す途中で立ち寄った。
厚手のジャンパーのポケットに両手を突っ込み、寒そうに肩をすくめながら暖簾をくぐる。
「岩田のとこ、繁盛してるみたいだな」
「そうなんですか」
「うちの女房が今度、鍋敷き頼んだらしい」
金物屋はそう言いながら、カウンターに座って軽い昼食を頼んだ。
「あいつも、少しは町に馴染んできたか」
「忘年会以来、来るようになりましたよ」
千夏が厨房から答えた。
「そりゃいいことだ」
金物屋は満足そうに頷いて、食事を終えると店を出ていった。
その足取りは軽く、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さだった。
町のことを、まるで自分の家族のことのように喜べる人だ。
樹はその背中を見送りながら、この人が豪太を町に馴染ませようと動いてきたことを思い出していた。
誰かが誰かを気にかけて、その連なりで町が回っている。
そんな当たり前のことに、ふと気づかされる瞬間だった。
夕方、書道教室の老エルフが久しぶりに顔を見せた。
「今日は珍しく、生徒がいなくて」
老エルフはコートを脱ぎながら、カウンターの端に静かに腰を下ろした。
「先生、暇なんですか」
「ええ、暇です。冬は皆、寒がって休みますから」
老エルフはゆっくりとピザを味わいながら、壁の古い写真に目をやった。
「この写真は、いつ見ても変わりませんね」
「変わらないですね」
樹は写真の中の、色褪せた誰かの顔をぼんやりと見つめながら答えた。
「変わらないものを見ると、安心します。私たちは、変わっていくものばかり見ていますから」
老エルフはそう言って、窓の外に目をやった。
夕暮れの光が薄く差し込んで、老エルフの横顔に長い影を落としている。
何百年、何千年という時間を生きてきた人が、たった十数年しか経っていないこの店の写真に安心する。
その言葉の重さを、樹はうまく飲み込めなかった。
だが、否定する必要もない気がした。
分からないことを、分からないまま受け取ってもいい。
そういうことを、この店で少しずつ覚えてきた気がする。
夜になって、店はいつも通りの賑わいを見せ始めた。
誠司が生地を伸ばし、千夏が発注ノートを確認し、樹がホールを回る。
特別な出来事もなく、特別な会話もない、ただの平日の夜だった。
石窯の火が爆ぜる音、皿を重ねる音、常連たちの低い話し声。
それらが混ざり合って、いつもの店の音になっていく。
「なあ樹」
千夏がカウンターの片付けをしながら言った。
「今日、変わったことあったか」
「特にないです」
「だよな」
千夏は少し笑った。
「そういう日も大事だよな」
樹はその言葉に頷いた。
旅装の客も来なかったし、大きな出来事もなかった。
それでも、店は今日も静かに回っていた。
蜂谷の温かい茶、涌井の嬉しそうな報告、金物屋の上機嫌な足取り、老エルフの静かな言葉。
並べてみれば、今日も十分に濃い一日だった気がする。ただ、それを事件と呼ばないだけだ。
閉店間際、最後の客が帰った後、誠司が伸びをした。
「今年も、こうやって過ぎていくんだろうな」
「そうですね」
樹は空いた椅子を戻しながら答えた。
一日の終わりを実感する、静かな時間だった。
「悪くないよな、こういうの」
「悪くないです」
誠司はそう言って、石窯の最後の火を落とした。
橙色の光が少しずつ弱まり、店の中が藍色の静けさに包まれていく。
樹は暖簾を下ろしに外へ出た。
一月の夜は冷たく澄んでいて、星が驚くほどよく見えた。
境見町に連なる屋根が、月明かりの下で静かに並んでいる。
遠くの家々の窓から漏れる明かりが、一つ一つ小さく灯っていた。
誰かがまだ起きていて、誰かはもう眠っている。
そんな当たり前の光景が、今日はやけに温かく感じられた。
特に何も起きなかった一日を、樹は少しだけ、いつもより愛おしく思った。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九十六条より】
エルフの庭に勝手に入るのは失礼にあたるが、垣根越しに挨拶するのは歓迎される。
今回もお読みいただきありがとうございます(*´ω`*)
特に何も起きなかった一日を書いてみました。
蜂谷さん、涌井さん、金物屋さん、書道の先生。
いつもの顔ぶれが、いつも通りに来て、いつも通りに帰っていきました。
「変わらないものを見ると、安心します」
老エルフの先生の言葉、なんだか印象に残りました。




