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第三十四話 急かす方の言い分

一月七日、七草粥の朝だった。


 相原家の食卓にも、真壁家の食卓にも、それぞれのやり方で七草粥が並ぶ。人間の風習だが、この町ではエルフもドワーフも、家に人間が一人でもいれば大抵は倣う。千夏の家では、志乃が毎年欠かさず作る。


「今年も食うのか、これ」


「食うわよ。正月で疲れた胃を休めるためのものなの」


「ドワーフの胃は疲れねえけどな」


「あんたはハーフでしょう」


 千夏は文句を言いながらも、椀を空にした。青菜の香りが、まだ口の中に残っている。台所の窓から差し込む朝日は、まだ低く弱々しく、湯気の向こうで揺れていた。志乃が「今日も寒いわね」と言いながら、火鉢に炭を足している。



 店に出勤すると、樹が寄せ書きの帳面を棚から出して眺めていた。


「何やってんだ」


「いえ、なんとなく」


 三頁目、四頁目。まだ大半が白紙のままの帳面を、樹はゆっくりと閉じた。窓から差し込む一月の光が、カウンターの木目に薄く長い影を落としている。



 昼過ぎ、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 千夏が顔を上げると、白瀬が一人で立っていた。マフラーを首元まできっちり巻いて、鞄を両手で抱えている。表の冷たい風がまだ髪に残っているのか、頬がわずかに赤くなっていた。


「あ、樹くんは」


「今日休みだ。私で悪いか」


「いえ、そういうわけでは」


 白瀬は少し戸惑った様子でカウンター席に座った。千夏が水を出すと、しばらく黙って窓の外を見ていた。何かを話したそうで、話さない。そういう空気だった。


「なんか用か」


 千夏が単刀直入に聞くと、白瀬は少し驚いた顔をした。


「……相原くんなら、こういう時、聞かないと思います」


「私は樹じゃねえよ」


 千夏はカウンターに肘をついた。


「言いたいことあるなら言え。言いたくないなら黙ってろ。それだけだ」



 白瀬は少し考えてから、口を開いた。


「柏木さんへの返事、まだ決まりません」


「知ってる。前に聞いた」


「あの人は、急かさないと言ってくれます。でも、待たれるほど、決められなくなる気がして」


 白瀬は膝の上で手を組んだ。窓の外を、自転車に乗った子どもが通り過ぎていく音が聞こえた。


「待たれるのが、苦しいのか」


「苦しくは、ないんです。ただ」


 白瀬は言葉を探すように、しばらく黙った。


「待たれるということは、私が決めるまで、あの人の時間が止まっているということです。それが、申し訳ないんです」


 千夏は、その言い方に少し考え込んだ。



「なあ」


 千夏はグラスを一つ拭きながら言った。


「私、七月に店長から社員の話をされて、返事するのに三か月かかった」


「知っています。樹くんから聞きました」


「その間、店長が一回でも急かしたと思うか」


「……いいえ」


「一回も急かさなかった。でも、私は勝手に焦ってた」


 千夏はグラスを棚に戻した。


「待たれてるのが申し訳ないんじゃなくて、決められない自分が嫌なだけだったんだよ、あれは」


 白瀬は、その言葉をじっと聞いていた。



「お前もそうなんじゃねえのか」


 千夏は白瀬の方を向いた。


「柏木の時間が止まってるのが申し訳ないんじゃなくて、決められない自分を、柏木に見られるのが怖いんだろ」


 白瀬の手が、膝の上でわずかに動いた。


「……そうかもしれません」


「かもしれません、じゃなくて、そうなんだよ。エルフは長く生きるから、いつでも決められると思ってるかもしれねえけど、決めるのが怖いのは、種族関係ねえだろ」


 白瀬は俯いたまま、しばらく黙っていた。窓の外の日差しが少しずつ角度を変えて、カウンターの影も伸びていく。



「千夏さんは」


 白瀬が顔を上げた。


「決めるのが、怖くなかったんですか」


「怖かったよ」


 千夏はあっさり答えた。


「怖かったから三か月かかった。でも、決めなくても店は開くし、決めても店は開く。それが分かったら、急に楽になった」


「決めても、決めなくても」


「変わらねえことは、変わらねえんだよ。柏木がお前を待ってるのも、返事するまでは変わらねえ」


 千夏はカウンターに新しい水を注いだ。


「だったら、怖いまま決めちまえばいい。怖くなくなってから決めようとすると、一生決まらねえぞ」



 白瀬は水を一口飲んで、少し考えているようだった。


「私は、樹くんのやり方の方が、優しいと思っていました」


「樹のやり方は樹のやり方だ。あいつは待つのが得意なんだよ。私は待つのが苦手なだけだ」


「苦手なのに、待ってくれたじゃないですか。今日も」


 千夏は少し面食らった顔をした。


「……待ってねえよ、別に。ただ聞いてただけだ」


「それを待つと言うんだと思います」


 白瀬は、そこで初めて少し笑った。



 しばらくして、白瀬は帰り支度を始めた。


「今日、ありがとうございました」


「別に何もしてねえよ」


「していただきました」


 白瀬は鞄を持ち直して、扉に向かった。


「柏木さんに、連絡してみます。返事ではなく、まだ返事できていないことを、正直に伝えるところから」


「それでいいんじゃねえの」


 千夏はそう言って、片手を挙げた。


 白瀬が出ていった後、店には静けさが戻った。千夏はカウンターを拭きながら、ふと自分の言葉を反芻していた。決めなくても店は開くし、決めても店は開く。あれは白瀬に言ったつもりだったが、聞いてみれば自分自身への言葉でもあった気がした。


 窓の外を見ると、白瀬の後ろ姿が商店街の角を曲がっていくところだった。マフラーの巻き方が、来たときより少しだけ緩んでいる。それだけのことが、なぜか千夏には嬉しかった。



 夕方、樹が私服のまま顔を出した。休みのはずなのに、なんとなく寄ったらしい。


「あ、千夏さん。白瀬さん来ました?」


「来たぞ」


「何話したんですか」


「秘密だ」


「僕にも秘密なんですか」


「お前が秘密にしてるのと同じだけ、秘密にしていいだろ」


 樹は帳面のことを言われたと気づいて、苦笑した。


 窓の外はもう夕暮れで、商店街の明かりが一つずつ灯り始めている。一月の空気は冷たく澄んでいて、遠くの音がよく通った。


「なあ樹」


「はい」


「待つのと、急かすのって、どっちが優しいと思う?」


 樹は少し考えた。


「分からないです。時と場合によるんじゃないですか」


「私もそう思う」


 千夏はそう言って、暖簾を直しに外へ出た。夕暮れの空気は張り詰めるように冷たく、吐いた息が白く長く伸びていく。七草粥の香りが、まだどこかに残っている気がする、そんな一月の夕方だった。星が一つ、二つと、藍色の空に浮かび始めていた。



【境見町 異文化生活マナー帳 第五十二条より】

ドワーフは好きになったら早い。

しかし本人だけが気付いていないことが多い。





今回もお読みいただきありがとうございます(๑¯ω¯๑)


白瀬さん、今回は千夏さんに会いに来ました。

樹くんとは違う角度からの言葉を、聞きたかったのかもしれません。


「怖いまま決めちまえばいい」


千夏さんらしい、乱暴で、でも芯を食った言葉でした。


柏木さんへの返事は、まだ出ていません。

でも「まだ決まっていない」と伝えるところから、始めるそうです。


待つのと急かすの、どっちが優しいか。

今回は、答えを出しませんでした。


次回、通常営業に戻ります。

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