第三十三話 三日目の客
正月三日、境見町はまだ休みの空気を引きずっていた。
商店街のシャッターは半分ほどしか開いておらず、通りを歩く人もまばらだ。空は薄く雲がかかっていて、朝から昼になっても、光の色があまり変わらない。ハーフ&ハーフの店先だけが、いつも通りの匂いを漂わせていた。
「今日で三が日も終わりですね」
樹は暖簾の紐を結び直しながら言った。石窯の熱が、朝の冷たい空気に混じって顔にかかる。
「明日から通常営業だな」
誠司が生地を伸ばしながら答えた。台の上に粉が舞って、窓から差し込む弱い光の中で、白くゆっくり降りていく。
千夏は昨日の疲れが残っているのか、カウンターに軽くもたれていた。
「実家、行き過ぎて逆に疲れたな」
「昨日も行ったんですよね」
「行った。今日はもう行かねえ」
樹はその答えに小さく笑って、開店の準備を続けた。棚の寄せ書きに目をやると、四頁目が薄く開いたままになっている。三頁目には大晦日の四人の字、四頁目には元日に樹が一人で書いた一行。まだ、その先は白紙だった。
昼過ぎ、客はぽつぽつとしか来なかった。
三が日はどこの家も家族で過ごすものらしく、店はいつもよりずっと静かだ。カウンターの隅で、樹は使い終わった皿を拭きながら、窓の外を眺めていた。日差しが弱く、道を歩く人の影も薄い。
そのとき、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げて、樹は思わず手を止めた。
旅装の男だった。
最後に会ったのは十月だ。三か月ぶりになる。相変わらず、寒そうに肩をすくめた格好で、荷物も変わらない。
「……お久しぶりです」
「ああ」
男はいつもの席に座った。カウンターの一番端、誰にも案内されない、決まった場所だ。
「同じのを」
「マルゲリータですね」
樹は注文を通しながら、水を注いだ。グラスに水が満ちていく音だけが、しばらく店の中に響いていた。
誠司が石窯の前から顔を上げた。
「お久しぶりです」
「久しぶりだな」
「今年もよろしくお願いします」
誠司はそう言って、また生地に向き直った。石窯の火が、ぱちりと小さく爆ぜる音を立てる。
千夏がカウンターの向こうから片手を上げた。
「あけましておめでとうございます、でいいのか」
「もう三日だ。遅い」
「知るか。会うのが三日なんだから仕方ねえだろ」
男はそれには答えず、水を一口飲んだ。
ピザが焼き上がるまでの間、店の中は静かだった。
樹は棚の寄せ書きを片付けながら、その帳面を手に取った。新しい方の帳面――去年、あの人が指定した布張りのものだ。まだ、二頁目までしか埋まっていない。
男が、その帳面にちらりと目をやった。
「新しいのを出したんだな」
「はい。前のがいっぱいになったので」
「使い方は、教えた通りか」
「布張りで、紙が厚くて、安いので」
「なら合ってる」
男は短くそう言って、また窓の外に視線を戻した。
樹は帳面を棚に戻しながら、ふと聞いてみたくなった。
「これも、いつか終わったら、また新しいのを買うんですか」
「そうなるだろうな」
「その繰り返しなんですね」
「ずっと、そうしてきた」
その言い方に、樹は少しだけ引っかかった。だが、それ以上は聞かなかった。聞かないでいることの方が、今は正しい気がした。
ピザが運ばれると、男はゆっくりと食べ始めた。
樹はカウンターの内側に戻って、洗い物を続けた。水音の合間に、店の空気がいつもの速さで流れていく。誠司が発注書に目を通し、千夏が伝票を整理する。三が日最後の午後は、そうやって静かに過ぎていった。
しばらくして、男が呟くように言った。
「今年で、何年目だったか」
誰に向けた言葉でもないようだった。誠司が顔を上げた。
「うちの店にですか」
「いや」
男は首を振った。
「なんでもない」
それきり、また黙って食べ始めた。樹はその横顔を見ながら、聞きたい言葉が喉の奥で止まるのを感じた。
食べ終えて、男は会計を済ませた。
「また来る」
「はい。お待ちしています」
樹がそう言うと、男は少しだけ目を細めた。
「待つのが、板についてきたな」
「そうですか」
「悪いことじゃない」
男はそう言って、扉に手をかけた。
「新しい帳面、埋まるまでは、まだ長そうだな」
「はい」
「それでいい」
それだけ言って、外に出ていった。冷たい風が一瞬だけ店に入り込んで、すぐに消えた。
閉店後、樹は帳面をもう一度開いた。
三頁目の四人の字、四頁目の自分の一行。その先には、まだ何も書かれていない広い余白が続いている。
「なあ樹」
千夏が隣に来た。
「あの人、今年もまた来るのかな」
「来ると思います。また来るって言ってたので」
「律儀だな」
樹はその言葉に頷きながら、窓の外を見た。商店街の明かりが、三が日最後の夜に灯り始めている。
あの人が何者なのか、樹はまだ知らない。知らないままで、たぶんこれからも会い続けるのだろうと思った。急いで知る必要はない気がした。
「明日から、通常営業ですね」
「そうだな」
千夏が暖簾を下ろしに外へ出た。石窯の火が落ちて、店の中がゆっくりと静かになっていく。境見町の三が日が、こうして今年も終わろうとしていた。
【境見町 異文化生活マナー帳 第七十九条より】
カウンター席で一人で飲んでいる客には、話しかけるより先に、
まず放っておくこと。話したくなったら向こうから話す。
今回もお読みいただきありがとうございます(๑˃ᴗ˂)ﻭ
旅装のお客さん、十一話ぶりの登場です。
「待つのが、板についてきたな」
「悪いことじゃない」
樹くん、また何も聞きませんでした。
それがこの人との、いつもの距離感みたいです。
新しい帳面は、まだ二頁目までです。
埋まるまでは、まだ長そうです。
次回、通常営業に戻ります。




