第三十二話 助かった、の理由
正月の二日、千夏は実家に顔を出した。
店の元日を終えて、二日目は休みをもらっている。真壁家の玄関を開けると、正月飾りがまだそのままになっていた。
「おかえり」
台所から志乃が顔を出した。
「ただいま。父さんは」
「奥で寝てる」
「昼間からか」
「昨日、夜勤明けで帰ってきたばかりだから」
千夏は居間に上がって、炬燵に足を入れた。窓の外は晴れていて、庭の霜が朝日を反射している。
「そういえば」
千夏はふと思い出した。
「今年の新年会、なんで一日で切り上げたんだ」
例年、真壁家の新年会は朝から始まって、日が暮れてもなお続く。今年は昼過ぎには終わっていた。
志乃は洗い物の手を止めずに答えた。
「あんたの父さんが、そう言い出したのよ」
「なんて」
「『千夏の店は正月忙しいだろう』って」
千夏は少し驚いた。
「私、元日休みたいなんて言ってねえぞ」
「言ってないわね」
「じゃあなんで」
「知らないわよ、あの人の考えてることなんて」
志乃はそう言って、湯呑みを二つ運んできた。
「でも」
志乃は炬燵の向かいに座った。
「たぶん、あんたが去年、社員になったの、気にしてるんだと思う」
「気にしてる?」
「店で頼りにされてる立場になったんでしょう。正月から長々と実家に縛り付けとくのは悪いって、あの人なりに思ったんじゃない」
千夏は、しばらく黙った。
「言えばいいのに、それ」
「言わないわよ、あの人は」
志乃はあっさり言った。
「行動で示すタイプなの。十七年、道着のことを黙ってたのと同じ」
千夏はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「筋が通ってるっちゃ通ってるな」
「通ってはいないけどね。分かりにくいだけ」
しばらくして、奥の部屋から物音がした。ゲンゾーが起きてきたらしい。
「起きたか」
「起きた」
ゲンゾーは寝間着のまま、炬燵の隅に腰を下ろした。目の下に、うっすらと疲れが残っている。夜勤明けの顔だ。
「父さん、大晦日から元日、ずっと仕事だったのか」
「そうだ」
「今年、出動多かったのか」
「例年並みだ」
ゲンゾーは短く答えて、志乃の淹れた茶を飲んだ。
千夏は、その横顔をしばらく見ていた。ドワーフの体はそう簡単に老いない。それでも、連続勤務の疲れは体に残る。五百年生きる体でも、一晩や二晩の無理は、無理として出るらしい。
「父さん」
「なんだ」
「新年会、なんで早く切り上げたんだ」
ゲンゾーは湯呑みを持ったまま、少し黙った。
「別に、理由はない」
「母さんから聞いたぞ。私の店のこと、気にしてたって」
ゲンゾーの手が、わずかに止まった。
「……余計なことを言ったな」
志乃が横で肩をすくめた。
「隠すようなことでもないでしょう」
ゲンゾーはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「社員になったんだろう」
「そうだけど」
「なら、店の方が大事な時期だろう。正月から、こっちに時間を取らせるのは違うと思っただけだ」
それだけ言って、また茶を飲んだ。
千夏は、その言い方をどう受け止めればいいのか分からなかった。
十七年、拳だこを見なかったふりをした男だ。二年待ってから、店を見に来た男だ。理由を、いつも後になってから、ぶっきらぼうに口にする。
「父さん」
「なんだ」
「ありがとう、とは言わない」
「言わなくていい」
「その代わり」
千夏は少し笑った。
「助かった」
ゲンゾーは、一瞬だけ樹の方――ではなく、娘の方を見た。それから、また庭に視線を戻した。
「そうか」
それだけだった。だが千夏には、それで十分だと分かった。ドワーフの間では、ありがとうより、助かったの方が、ずっと重い言葉だ。
夕方、千夏は実家を出て、店に向かった。
商店街はまだ正月らしい静けさを保っていたが、ハーフ&ハーフの窓には明かりが灯っている。暖簾をくぐると、樹が仕込みをしていた。
「あ、千夏さん。実家、どうでした」
「まあまあだったな」
千夏はエプロンを手に取った。
「新年会が早かった理由、分かったんですか」
「分かった」
「なんだったんです?」
千夏は少し考えてから、答えた。
「言葉にすると安っぽくなるやつだ」
「なんですか、それ」
「うるさい。仕込み手伝え」
樹は不服そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
石窯に火が入って、正月三が日も終わりに近づいた店が、今日も静かに動き出す。
千夏は生地を伸ばしながら、父の横顔を思い出していた。五百年生きる体で、一晩の無理を体に残す人。理由を言わずに、行動だけで示す人。
母の言う通り、分かりにくい人だった。それでも、分からないなりに、伝わるものはあるらしい。
【境見町 異文化生活マナー帳 第六十一条より】
ドワーフの職場では「ありがとう」より「助かった」の方が響く。
感謝の言葉にも文化差がある。
今回もお読みいただきありがとうございます(。•ᴗ•。)
新年会が早かった理由でした。
「千夏の店は正月忙しいだろう」
ゲンゾーさん、また行動で示すタイプでした。
十七年、道着を黙って見ていたのと同じやり方です。
千夏さん、「ありがとう」ではなく「助かった」と伝えました。
ドワーフの間では、こちらの方が重い言葉だそうです。
五百年生きる体でも、一晩の無理は残るんですね。
人間でもドワーフでも、無理はほどほどにしましょう。
次回も、正月が続きます。




