第三十一話 二度目の新しい暦
元日の朝、相原家の台所は、去年と同じ賑やかさに包まれていた。
「恒一! 餅は何個焼くんだい!」
「……六つ」
「少ないよ、八つにしな!」
祖母の声が家中に響く。去年とまったく同じやり取りだった。樹は炬燵に足を突っ込んだまま、父、恒一が祖母に怒鳴られている光景を眺めていた。
「六つでも十分多いと思うけどな……」
宙に向けてそうこぼすと、背中から柔らかな声が聞こえた。
「おはようございます、樹くん」
母のアイリスだ。お椀を運んできた。今年も着物姿だ。
「母さん、それ、去年も着てたよね」
「覚えていてくれたんですね」
アイリスは嬉しそうに笑った。
「今年は帯の結び方、少しだけ変えてみたんですよ」
「え、そうなの?」
「気づかれると思いませんでした」
「気づいてないよ。今言われて初めて分かった」
「それでいいんです。気づかれたくて変えたわけじゃないので」
樹には、その理屈がよく分からなかった。だが、母らしいと言えば母らしかった。
昼過ぎ、樹たち三人は初詣に向かった。
住宅街の道は、去年と同じ表情をしている。門松のある家とない家。エルフの家は今年も静かだった。空気は冷たく澄んでいて、吐く息が白く長く伸びる。去年より少しだけ雪が少ない気がしたが、それも気のせいかもしれなかった。
「お隣さん、今年も留守ですね」
アイリスが門扉の閉まった家を見て言った。
「留守じゃなくて、寝てるんだよね」
「そうです」
去年、樹はこのやり取りに戸惑った。今年は、当たり前のように受け止めている自分がいた。
神社までの道のりも、去年とまったく同じだった。商店街を抜け、駅前の賑わいを横目に見ながら、少し遠回りをして鳥居をくぐる。参拝客の列は今年も長く伸びていて、人間もエルフもドワーフも、同じ列に並んで順番を待っていた。
賽銭箱の前で、樹は特に何を願うでもなく手を合わせた。去年もそうだった気がする。何かを強く願うより、ただそこにいることの方が大事な気がした。
神社からの帰り道、ハーフ&ハーフの前を通りかかった。
窓に明かりが灯っている。
「あ、また開いてますね」
「行きましょうか」
アイリスが引き戸に手をかけた。恒一が「正月だぞ」と止めようとしたが、去年と同じく遅かった。
「おー! いらっしゃい! 相原家、あけおめ!」
誠司の声だった。カウンターには千夏もいる。
「店長、今年も店開けてるんですね」
「毎年恒例だからな」
「餅ピザ、また作ってるんですか」
「よく分かったな」
「去年と同じ匂いがします」
樹がそう言うと、誠司は笑った。
千夏がカウンターの向こうから片手を上げた。
「よ、樹。あけおめ」
「千夏さん、実家は」
「もう終わった。今年は新年会、一日で切り上げた」
「珍しいですね」
「父さんが、今年は早めに切り上げるって言い出してな」
千夏は少し困ったような、それでいて悪くなさそうな顔をしていた。理由は聞かなかった。聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
そこへ、引き戸がまた開いた。
「あー、やっぱりここにいた」
涌井だった。私服のダウンジャケットの下に、今年も公務用の封筒を覗かせている。
「涌井さん、今年も改訂作業ですか」
樹が聞くと、涌井は苦笑した。
「今年はもう終わってます。第百四条まで、去年のうちに片付きましたから」
「じゃあ、何を」
「単なる新年の挨拶です。あと、これ」
涌井は封筒から一枚の紙を出した。
「編纂ノートの、新しいページです。今年最初の相談が、もう来てまして」
「もう?」
「元日から相談が来る町なんですよ、ここは」
涌井はそう言って、カウンターに座った。
「一年前もこの席で、同じような話をしましたよね」
樹が言うと、涌井は少し驚いた顔をした。
「覚えてるんですか」
「はい。母の実家の話とか、新緑の日とか」
「ああ……そうでしたね」
涌井はカウンターの木目を見た。
「あの時はまだ、百一条もなかった」
「そうですね」
「今は百四条まであります。この一年で四条」
「多いですか、少ないですか」
涌井は少し考えた。
「多いと思います。普通は、何年かに一条できるかどうかです」
「なんでこんなに増えたんでしょうね」
「さあ」
涌井はあっさり言った。
「たぶん、この店に来る人が多いからでしょう」
樹は棚から寄せ書きの帳面を出した。
三頁目、大晦日に四人で書いた文字が並んでいる。四頁目は、まだ白紙だった。
「今年も何か書きますか」
千夏が聞いた。
「まだ決めてないです」
「去年もそう言ってた気がするな」
「言いましたっけ」
「言ったよ」
千夏は笑った。
夕方、恒一が縁側で茶を飲んでいた。
庭の木は葉を落とし、枝だけが冬の光に晒されている。去年のこの時期も、同じ木がそこにあった。恒一は湯呑みを両手で包むように持って、特に何を見るでもなく庭を眺めている。
「父さん」
樹は隣に座った。木の縁側は冷たかったが、少し我慢すればすぐに慣れる。
「新緑の日、今年も休み取ってる?」
「ああ」
「今年は何日分?」
「五日」
「去年と同じだ」
「同じでいい」
恒一はそれだけ言って、茶を飲んだ。
樹は父の横顔を見た。一年前、この人が何も言わずに休みを確保していることに気づいて、驚いた記憶がある。今は、それが当たり前の景色になっている。
「父さん」
「なんだ」
「今年も、一緒に行っていい?」
「勝手にしろ」
去年と同じ返事だった。だが樹には、その言い方に去年より少しだけ柔らかいものが混じっている気がした。
夜、店の客足が落ち着いた頃、樹は寄せ書きの帳面をもう一度開いた。
ペンを持って、しばらく考える。
去年の自分なら、何も書けなかったかもしれない。今年は、書けることが少しだけ増えている気がした。
樹は四頁目に、短く書いた。
――相原樹。二度目の正月です。去年より、少しだけ分かることが増えました。まだ全部ではないですが。
「なんて書いた」
千夏が覗き込もうとした。
「秘密です」
「また秘密か」
「秘密でいいんです」
樹はそう言って、帳面を閉じた。
窓の外、境見町の元日が静かに暮れていく。
去年と同じ町、同じ店、同じ顔ぶれ。それでも、去年とまったく同じではなかった。
樹は、その違いを言葉にできなかった。ただ、悪くないとだけ思った。
石窯の火が、今年も静かに燃えている。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九十二条より】
役場が配るマナー帳の改訂版は、毎回「今回は何条増えた?」と住民が楽しみにしている。
今回もお読みいただきありがとうございます(◕‿◕)
新しい一年、最初のお話です。
去年の元日と、同じ場所を歩いてみました。
餅の数、着物、エルフのお隣さん、留守の家。
去年とまったく同じ景色です。
でも、去年は戸惑っていたことに、今年はもう慣れています。
見慣れていたはずの景色や習慣に、急に疑問を感じて、見え方が変わる年頃ってありますよね。
樹くんはきっとそういう時期なのかも。
千夏さんの家の新年会も、一日で切り上げたそうです。
理由は聞いていません。でも、なんとなく分かる気がします。
涌井さんいわく、去年はまだ百一条もなかったのに、今は百四条まで。
「多いと思います。普通は、何年かに一条できるかどうかです」
樹くん、また帳面に何か書きました。
また秘密だそうです。
去年と同じで、去年と違う。
そんな一年の始まりでした。




