第三十話 年越しの三粒
大晦日の境見町は、朝から静かだった。
商店街のシャッターは半分閉まり、残った店も早じまいの準備をしている。ハーフ&ハーフだけが、いつも通り店を開けていた。
「今年も開けるんですね」
樹が暖簾を出しながら言うと、誠司はあっさり答えた。
「毎年開けてるだろ」
「誰か来るかもしれないから、でしたっけ」
「そうだ」
樹は暖簾を掛けながら、去年の正月のことを思い出した。あのときは自分も、この理由をよく分かっていなかった。今は、少しだけ分かる気がする。
昼過ぎ、店には数人の客がいた。
自治区帰りらしい旅行者、行き場を持て余した様子の一人客、それに商店街の福引きの片付けをしていたらしいドワーフの職人。誰も特別な話をせず、それぞれのペースでピザを食べていた。
「暇っちゃ暇だな」
千夏がカウンターを拭きながら言った。
「でも、開けとくのが大事なんですよね」
「まあな」
千夏は窓の外を見た。空は薄曇りで、今にも雪が降りそうな色をしている。
夕方、消防署の制服姿の男が一人、店に入ってきた。
「あ、涌井さん、じゃないですよね」
樹が首を傾げると、男は苦笑した。
「消防団の見回りです。役場じゃないですよ」
「すみません、間違えました」
「よくあります。似たような格好の人が多いので」
男は温かいピザを頼んで、手早く食べて出ていった。「今日はこの後も回るので」と言い残して。
「父さん、大晦日は仕事だよな」
千夏が独り言のように呟いた。
「消防は正月が一番忙しいんですよね」
樹が聞くと、千夏は頷いた。
「餅を喉に詰まらせる年寄りとか、火の元の不始末とか、この時期は出動が多いらしい」
「大変ですね」
「毎年のことだから、慣れてるって言ってたけどな」
千夏はカウンターの内側に戻って、仕込みの続きに入った。
夜が更けて、店の空気が少しずつ変わっていった。
常連が入れ替わり立ち替わりやってくる。蜂谷が顔を出し、「今年もお世話になりました」とビールを一杯だけ飲んで帰っていった。商店街の福引き担当だった役員も、片付けの後に立ち寄って、少しだけ話して帰っていった。
誰も長居しない。それぞれの家に、それぞれの年越しがあるからだ。
九時を過ぎた頃、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
樹が声をかけると、作業着の上にコートを羽織った岩田豪太が立っていた。
「……本当に来た」
千夏が少し驚いた声を出した。
「言っただろう」
豪太はカウンターの端に座った。手には、小さな紙袋を提げている。
「仕事、終わったのか」
「終わった。急ぎの直しが一件あったが、間に合った」
豪太は紙袋をカウンターに置いた。
「これは」
「土産だ。何がいいか分からなかった」
千夏が開けると、中には小さな鉄製の飾りが入っていた。粗削りだが、丁寧に磨かれている。
「これ、お前が作ったのか」
「暇な時間に打った。今年の余り物だ」
千夏はそれを手に取って、しばらく眺めた。
「不器用な形だな」
「悪いか」
「悪くない」
誠司が石窯の前から声をかけた。
「岩田さんも、年越しそば食べます?」
「年越しそば?」
「うちは年末だけ、そばもやるんですよ。ピザ屋なのに」
「意味が分からん商売だな」
「よく言われます」
誠司は笑いながら、鍋を火にかけた。
豪太は少し戸惑った顔をしていたが、断らなかった。
十時を過ぎると、店には常連がまばらに残るだけになった。
樹はカウンターの隅で、新しい寄せ書きの帳面を眺めていた。二頁目まで埋まっている。三頁目は、まだ空白のままだ。
「なあ樹」
千夏が隣に座った。
「今年、いろいろあったな」
「そうですね」
「お前、進路の紙、また同じの出したんだろ」
「はい」
「いいんじゃねえの、それで」
千夏はグラスに手を伸ばした。
「来年もまだ分からなくていい。分からないまま、話を聞き続けりゃいい」
樹は少し笑った。
「千夏さんも、社員になったばかりですよね」
「そうだな」
「来年はどんな年になりますか」
「知らねえよ、そんなの」
千夏はあっさり言った。
「来てから考える」
豪太は、そばを食べ終えて、少し落ち着いた様子でカウンターを眺めていた。
「この店、変な店だな」
「今更か」
千夏が答えた。
「そばも出すし、寄せ書きもあるし、店長は先代のこと何も知らないし」
樹の手が止まった。
誠司が石窯の前から、静かにこちらを見た。
「聞いたのか、それ」
「金物屋の親父から少し」
誠司は少し黙ってから、笑った。
「まあ、そういう店だよ」
それ以上、誰も何も言わなかった。
十一時半を過ぎた頃、涌井が顔を出した。
「役場の年越し当番、終わりました」
「役場も大晦日、仕事あるんですか」
樹が聞くと、涌井は頷いた。
「防災無線の確認とか、緊急連絡網の点検とか。地味な仕事です」
「地味なことしか役に立たない、って前に千夏さんが言ってました」
「いい言葉ですね、それ」
涌井はカウンターに座って、温かいそばを頼んだ。
十一時五十分。
店の外から、遠くの寺の鐘が聞こえ始めた。低く長い音が、夜の町に響いていく。
「そろそろだな」
誠司が石窯の火を落とした。今年最後の一枚は、もう焼き終わっている。
樹、千夏、豪太、涌井、それに残っていた数人の常連が、なんとなくカウンターの周りに集まった。誰かが号令をかけたわけではない。自然とそうなった。
「今年も、いろいろあったな」
千夏が言った。
「そうですね」
樹が答えた。
「来年も、よろしくお願いします」
誰に向けてでもない挨拶が、店の中に落ちた。豪太が小さく頷いた。
鐘の音が、また一つ響いた。
「なあ」
千夏が豪太に言った。
「来年は、屋台で栓抜き売るなよ」
「……もう忘れた」
「忘れねぇように言ってる」
豪太は少しだけ笑った。今年、店で初めて見せる笑い方だった。
零時になる直前、樹は棚から寄せ書きの帳面を取り出した。
「今年最後に、書きませんか」
「なんて書くんだ」
千夏が覗き込んだ。
樹はペンを持って、三頁目に短く書いた。
――今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。相原樹。
「地味だな」
「地味でいいんです」
千夏がペンを取って、その下に書き足した。
――真壁千夏。同上。
「同上て」
誠司が笑いながら覗き込んで、自分もペンを取った。
――高橋誠司。今年もこの店を開けられました。以下、同上。
最後に、豪太が少し迷ってから、ペンを受け取った。
――岩田豪太。今年、この町に来た。
短い一行だった。それでも、樹にはその重みが分かる気がした。
鐘の音が続いている。
誠司が窓を少しだけ開けた。冷たい風とともに、遠くの音がはっきりと店内に届いた。
「あけましておめでとうございます」
誰かが最初にそう言った。誰だったかは、後から誰も覚えていなかった。それに続いて、店にいた全員が、それぞれのタイミングで新年の挨拶を交わした。
千夏が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、ドワーフの新年会って、失敗談言ってから乾杯するんだよな」
「なんだそれ」
豪太が聞いた。
「知らねえのか」
「故郷にそんな習慣はなかった」
「へぇ。そんなこともあるんだな。んじゃ店長から」
千夏がそう言い出して、誠司が「俺からか」と苦笑した。
「去年一番の失敗は、掃除しなかった換気扇だな」
「五年放置してましたけど、それって去年の失敗ですか」
「そうだ。それでいいだろ」
次は樹の番になった。
「僕は、進路希望調査を白紙で出しかけたことです」
「出さなかったのか」
「二行だけ書きました」
「じゃあ半分成功じゃねえか」
千夏が笑った。
「私は、封筒を三年間見なかったふりしてたことだな」
「それ、成功でも失敗でもねえだろ」
最後に、豪太が短く言った。
「客を呼び込む声を、出せなかったこと」
「祭りの屋台か」
「そうだ」
店内が、小さく笑いに包まれた。豪太自身も、少しだけ口の端を上げていた。
新年最初の一枚は、誠司が焼いた。
「はい、できたぞ」
湯気の立つピザが、カウンターに置かれた。誰からともなく手が伸びる。最後の一切れが残ったとき、千夏がそれを見て言った。
「これ、誰が食う?」
テーブルには、ハーフエルフ、ハーフドワーフ、ドワーフ、人間。
「私が食う」
豪太が先に手を伸ばした。
「お前、ドワーフだからってすぐ言うよな」
「今日はドワーフの理屈で通す」
「屁理屈だ」
それでも、誰も本気で止めなかった。豪太は最後の一切れを、ゆっくりと食べた。
午前一時前、涌井と豪太が相次いで帰っていった。
「また来年」
「ああ」
豪太はそれだけ言って、コートの襟を立てて出ていった。
店に残ったのは、誠司と千夏と樹の三人だけになった。
「さて」
誠司が伸びをした。
「今年も終わったな」
「そうですね」
千夏が暖簾を下ろしに外へ出た。
樹は棚に寄せ書きの帳面を戻した。三頁目が、四人の字で埋まっている。まだ、その先には大きな余白が続いていた。
窓の外は、もう新しい年の夜だった。石窯の余熱だけが、店の中にわずかに残っている。
【境見町 異文化生活マナー帳 第八十二条より】
ドワーフの新年会は、乾杯の前に必ず去年の失敗談を一つ言う。反省ではなく、笑い話として。
今回もお読みいただきありがとうございます(⁎˃ᴗ˂⁎)
大晤日、豪太が本当に来ました。
土産の鉄飾りは、不器用にみえる形だったみたいですね。
でも職人である豪太のこと。
何か意味があるに違いありません。
年越しの瞬間、四人で失敗談を言い合いました。
ドワーフの新年会のやり方ですが、豪太は初めて聞いたそうです。
故郷が違うと文化にも差が生まれる。
これは人間も同じですね。
最後の一切れ、豪太が「今日はドワーフの理屈で通す」と言って食べました。
誰も止めませんでした。
寄せ書きの三頁目、四人の字で埋まりました。
まだ、先には大きな余白が続いています。
次回からは新しい1年の話が進んでいきます。




