第二十九話 まだ書けない答え
二学期の最終日、樹は誰もいなくなった教室に一人残っていた。
窓の外はもう暗い。掃除当番も終わって、椅子は机の上に上げられている。蛍光灯が一本だけ点いていて、他の席には届かない薄暗さが残っていた。廊下からは、部活動の生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。それも、少しずつ遠ざかっていった。
樹は自分の机だけそのままにして、鞄の中から一枚の紙を出した。
進路希望調査、二回目の提出分だった。
九月に出したものと、内容はほとんど変わっていない。備考欄の二行も、そのままだ。
――まだ分かりません。でも、人の話を聞くのは苦にならないです。
あれから三か月経った。何かが変わった気もするし、何も変わっていない気もする。
窓の外を見ると、校庭の隅に植わった木が、葉をほとんど落としていた。夏に見上げたときとは、まるで別の木のようだった。同じ木なのに、季節が変わるだけで、こんなに違って見える。
樹は椅子を引いて座り直し、紙をもう一度眺めた。書き方が分からないのは、今日に始まったことではない。
「まだ帰らないのか」
声がして、樹は顔を上げた。三浦だった。教室の見回りに来たらしい。手には、他のクラスから集めたらしい落とし物の傘が数本、くくりつけて提げられている。
「あ、すみません、すぐ帰ります」
「いや、いい」
三浦は持っていた傘を教壇の脇に立てかけて、椅子を引いて座った。
「その紙、また見てるのか」
「はい」
「二回目も同じか」
「変えられなくて」
三浦は少し黙った。
「変える必要はない」
「そうですか」
「同じことを二回書けるのは、それだけ本当だってことだ」
樹は、その言葉を少し意外に思った。三浦はいつも簡潔で、説教めいたことを言う人ではない。
「先生」
「なんだ」
「僕、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「先生は、なんで先生になったんですか」
三浦は少し驚いた顔をした。それから、窓の外を見た。
「聞かれるとは思わなかったな」
「すみません、変なこと聞いて」
「いや」
三浦は少し考えた。
「特別な理由はない。教育学部に入って、教育実習をして、向いてる気がして、そのまま試験を受けた」
「向いてる気がした、って」
「生徒の話を聞くのが、苦にならなかった」
樹は、思わず顔を上げた。
「それだけだ。大した理由じゃない」
三浦はそう言って、少し照れたように咳払いをした。普段の生真面目な顔からは想像しにくい仕草だった。カウンターの右から三番目の席で一人ビールを飲んでいるときの三浦を、樹は少しだけ思い出した。ここにいる先生と、あそこにいる客と、同じ人なのに、少しだけ違って見える。
「先生も、そういう顔するんですね」
「どういう顔だ」
「いえ、なんでもないです」
三浦は不審そうな顔をしたが、それ以上は追及せずに立ち上がった。
「鍵を閉めようか。そろそろ片付けられるか」
「あ、はい」
樹は紙を鞄にしまった。教室を出るとき、三浦がぽつりと言った。
「相原」
「はい」
「その備考欄、先生はな、悪くないと思ってる」
それだけ言って、三浦は先に廊下を歩いていった。足音が、少しずつ遠くなっていく。
樹はしばらく、誰もいなくなった教室に立っていた。蛍光灯の光が、机の並びに長い影を落としている。誰かが忘れていったのか、窓際の席に体操服の袋がぽつんと残っていた。
樹はそれを見て、自分の鞄を持ち直した。今日はもう、誰もこの部屋には戻ってこない。
昇降口で靴を履き替えて外に出ると、冷たい風が頬に当たった。息が白くなる。
空は、もうすっかり暗い。校門を出る頃には、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
店に向かう道すがら、樹は今年一年のことを思い返していた。
一月、母が正月の丸のことを教えてくれた。父が何も言わずに休みを確保していたこと。
四月、新緑の日に山を歩いた。母の「今日は誰か笑ってくれた?」の理由を初めて聞いた。
十月、文化祭の看板作り。早坂に「名前で呼ばれたことがない」と言われて、自分が知っていることと、それを言葉にすることは別だと気づかされた。
十一月、白瀬。誤差だと思っていた三年が、誰かにとっては全部だったこと。
そして今日まで、旅装の客に何度か会った。聞かないでいることを、あの人は「向いてる」と言った。
誰かの行動や、誰かに言われた言葉が、少しずつ積み重なっている気がした。
まだ、それが何になるかは分からない。
商店街に入ると、電飾の光が路面に落ちて、いつもの通りが少しだけ違う場所に見えた。金物屋の店先では、豪太が看板を片付けているところだった。目が合うと、軽く顎を引くだけの会釈が返ってくる。それだけで十分だった。
樹はその前を通り過ぎて、店へ向かった。息を吐くたびに、白い塊が夜の中に消えていく。
店に着くと、千夏がカウンターで発注ノートをつけていた。
「おう、遅かったな」
「先生と少し話してました」
「三浦先生か」
「はい」
「珍しいな、お前が自分から話しかけるの」
樹はエプロンをつけながら答えた。
「今日は、聞きたいことがあったので」
「へえ」
千夏は特に詮索せず、ノートに戻った。
夜、客が少し落ち着いた頃、樹は棚から新しい帳面を出した。
最初の頁は、まだ真っ白なままだ。二頁目には、千夏の字で「真壁千夏、社員になりました」とだけ書いてある。
樹はしばらく、その先の白紙を見ていた。
「なあ樹」
千夏が横から覗き込んだ。
「何書くつもりだ」
「まだ決めてないです」
「決めなくていいんじゃねえの、そういうの」
「そうかもしれません」
千夏はそう言うと、それ以上は構わずに厨房へ戻っていった。カウンターには樹一人が残された。石窯の火が、ぱちりと小さく音を立てる。壁の古い写真が、橙色の光にゆっくりと照らされていた。
樹はペンを持って、少し迷った。
将来の夢は、まだ書けない。何になりたいかも分からない。それは今年一年、変わらなかった。
でも、書けることが一つだけあった。
樹はペンを紙に置いた。手が少しだけ震えている気がしたが、気のせいかもしれなかった。
――相原樹。
――今年、いろんな人の話を聞きました。まだ何も分かっていませんが、それが嫌じゃなかったです。
書き終えて、少し恥ずかしくなった。だが、消さなかった。インクが乾くまで、しばらくそのページを見つめていた。
「なんて書いたんだ」
千夏が聞いた。
「秘密です」
「見せろよ」
「嫌です」
樹は帳面を閉じて、棚に戻した。千夏は少し不満そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「ま、いっか」
千夏はそう言って軽く笑いながら、厨房に戻っていった。
閉店後、樹は一人で店の明かりを消していた。
窓の外、十二月の空に星が出ている。もうすぐ冬休みだ。実家の手伝いで店を三日休む。今年最後の登校日は今日で終わった。
進路希望調査は、また同じ二行のまま提出した。三浦は「悪くない」と言った。
急がなくていいことと、始めなくていいことは違う。三月にそう考えた。
今日、帳面に一行書いた。それは、始めたことになるのかもしれない。まだ小さすぎて、何かの形にはなっていない。それでも、白紙のままではなくなった。
樹は暖簾を下ろして、鍵をかけた。
外に出ると、商店街の電飾がまだ点いている。金物屋の店先に、来年の干支の張り紙が新しく貼られていた。誰かが今日、貼り替えたばかりらしい。
息を吐くと、白くなって、すぐに夜の中に溶けていった。
石窯の火はもう落ちている。それでも、扉一枚隔てた店の中には、まだ少しだけ温かさが残っている気がした。
今年もあと数日で終わる。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九十八条より】
境見町では「今日は誰と話した?」が、日常の挨拶がわりになることがある。
答えがなくても気にしない。
今回もお読みいただきありがとうございます(´ω`*)
進路希望調査、二回目も同じことを書きました。
三浦先生は「同じことを二回書けるのは、それだけ本当だってこと」と言ってくれましたね。
話のわかる先生でよかった。
そして先生自身の話。
「生徒の話を聞くのが、苦にならなかった」
それだけで先生になったそうです。
これは樹くんにとって何かヒントになったでしょうか。
そして樹くん、新しい帳面に初めて何か書きました。
内容は秘密だそうです。
千夏さんにも見せませんでした。
でもまぁ、お店のものなので、いつでも見られますね(笑)
今年一年、樹くんはいろんな言葉を受け取ってきました。
まだ答えは出ていません。
でも、白紙ではなくなりました。
これが大事。
次回もまた、年末のお話が続きます。




