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第二十六話 新しい帳面

十一月の下旬、樹は放課後に商店街の文房具屋に寄った。


 注文していた帳面が入荷したという連絡が、店に来ていたからだ。


「はい、これね」


 店主が差し出したのは、深い茶色の布張りの帳面だった。紙は厚く、表紙には何も印刷されていない。


「安いのでいいって言われたんですけど、これで合ってますか」


「合ってると思います」


 樹は代金を払って、鞄に入れた。重みが、いつもの教科書とは違う種類のものだった。



 店に着くと、千夏がカウンターで発注ノートをつけていた。


「お、来たか」


「はい」


 樹は帳面を渡した。千夏はそれを受け取って、しげしげと眺めた。


「地味だな」


「そう言われて選びました」


「誰に」


「あの人にです」


 千夏は少し黙った。


「……そうか」


 千夏は帳面をカウンターに置いて、古い帳面の棚を見た。


「もう一冊、終わったのか」


「あと三枚くらいです」


「早いな」


「二月からだから、九か月です」


 千夏は指を折った。


「一年もたなかったのか」


「前のがそうだったかは分かりません」


 樹はそう言って、古い帳面を棚から出した。残りのページを数える。あと二枚だった。



 その日の夜、涌井が店に来た。


 カウンターに座って、いつものマルゲリータを頼む。樹が水を運ぶと、涌井は鞄から手帳を出した。


「相原くん、ちょうどいいところに」


「はい」


「六月に話した件、覚えてますか」


 樹は少し考えた。


「エルフの女性の話ですか」


「そうです」


 涌井は手帳を開いた。


「あれから、ずっと考えていたんですが」


 厨房から千夏が出てきた。


「あの話、条文になったのか」


「まだです」


 涌井は少し困った顔をした。


「一度しかない家のことを、どう書けばいいのか。二度来る家の条文がある以上、一度しかない家のことも書くべきだと思うんですが」


「難しいのか」


「難しいです」


 涌井は手帳のページをめくった。


「二度来る家の条文は、面倒だけどうまいものが二度食えるって書きました。前向きな言葉で書けたんです」


「ああ」


「でも、一度しかない家のことを、同じ調子では書けません。うまいものが一度しか食えない、と書くと、何かを失っているように読めてしまいます」


 樹は、その悩みを聞きながら、少し考えた。


「涌井さん」


「はい」


「その人、なんて言ってたんですか。私の家には一年の始まりが一度しか来ません、の後」


 涌井は手帳を見た。


「『でも、その一度を、三十年やってきました』と」


 樹は、それを聞いて、少し胸が動いた。


「それ、そのまま書けばいいんじゃないですか」


「そのまま?」


「一度しかないことを、悪いことみたいに書かないで。三十年やってきた、って事実だけ書くんです」


 涌井は手帳を見つめた。


「……それだけでいいんでしょうか」


「たぶん、その人が言われたかったのは、慰めじゃないと思います」


 樹は水差しを持ったまま言った。


「一度しかない家にも、ちゃんと歴史があるってことを、誰かに知っててほしかったんじゃないですか」


 涌井は、しばらく黙っていた。それから、ペンを取った。



「――第百四条」


 涌井は書きながら読み上げた。


「ハーフの家には、一年の始まりが一度しか来ないこともある。それは、二度来る家より欠けているという意味ではない。その一度を、何十年と重ねてきた家もある」


「いいですね、それ」


 千夏が横から覗き込んだ。


「百二条とちゃんと並ぶな」


「並べるために、五か月かかりました」


 涌井はペンを置いて、少し疲れたように笑った。


「窓口だけじゃ、答えが出ませんでした」



 条文が決まった余韻の中、誠司が石窯の掃除をしながら口を挟んだ。


「なあ、涌井さん」


「はい」


「うちの店の創業年、役場に記録あります?」


 涌井は驚いた顔をした。


「珍しいですね、店長がその話をするの」


「いや、なんとなく気になって」


 涌井は少し考えた。


「ないですね。境見町ができる前からあった、という言い伝えしかありません」


「そうですか」


「なぜです?」


 誠司は少し黙ってから、答えた。


「新しい帳面を出したから、区切りみたいなもんかなと」


 樹は、その答えに引っかかった。区切り、という言い方が、いつもの誠司らしくなかった。


「店長」


「ん?」


「以前、聞いた話なんですけど」


 樹は少し迷ってから、続けた。


「店長がこの店を継ぐきっかけになった人のこと、覚えてますか」


 誠司の手が止まった。


「毎週通ってたら、四か月閉まってて、開いたら『やる気はあるか』って聞かれたって話です」


「ああ……覚えてるよ」


「その人、今もういないって言ってましたよね」


「言ったな」


「先代、なんですか」


 店内が、少し静かになった。


 誠司は石窯の掃除の手を止めて、しばらく黙っていた。


「――分からん」


 樹は、その答えに驚いた。今までは、はぐらかされるか、話をそらされるかだった。今回は違った。


「分からないんですか」


「分からないんだよ、本当に」


 誠司は椅子に座った。


「先代がどういう人だったか、俺は知らない。会ったこともない。店を継いだとき、もう誰もいなかった」


「じゃあ、あの人は」


「あの人が先代だったのか、先代の知り合いだったのか、たまたま店に思い入れのある誰かだったのか。俺には分からん」


 誠司は自分の手を見た。


「聞けばよかったんだろうけどな。あのときの俺は、それどころじゃなかった」


 千夏が静かに言った。


「後悔してるのか」


「してねえよ」


 誠司はあっさり首を振った。


「聞かなかったから、今も気になってる。気になってるから、たまにこうやって思い出す。それでいいんだよ」


 誠司は立ち上がって、また石窯に向かった。


「分からないことを、分からないままにしておくのも、悪くない」



 閉店後、樹は新しい帳面を棚に置いた。


 最初の頁を開く。何も書かれていない、真っ白な紙だった。


 ――最初の頁は、空けておけ。


 あの人の言葉を思い出しながら、樹はその頁をそのまま閉じた。何も書かなかった。


「なあ樹」


 千夏が古い帳面を持ってきた。残り二枚のうちの一枚を開いて、ペンを取る。


「私、もう一回書いていい?」


「いいと思います」


 千夏は少し考えてから、書いた。


 ――真壁千夏、社員になりました。


「これだけでいいんですか」


「これだけでいい。あの人が言ってただろ、名前と日付が一番残るって」


 樹はその文字を見て、少し笑った。


 新しい帳面と、古い帳面が、並んで棚に置かれた。

 どちらも、まだ空白の方が多い。




【境見町 異文化生活マナー帳 第百四条より】※本話にて新規制定

ハーフの家には、一年の始まりが一度しか来ないこともある。

それは、二度来る家より欠けているという意味ではない。

その一度を、何十年と重ねてきた家もある。





今回もお読みいただきありがとうございます( ˘ᵕ˘ )


第百四条、ようやく生まれました。

五か月かかりました。


樹くんが涌井さんに言った一言がきっかけです。

「一度しかない家にも、ちゃんと歴史がある」


そして誠司さん、今回初めて「分からん」とはっきり言いました。

今までは、そらしていただけだったのかもしれません。


「分からないことを、分からないままにしておくのも、悪くない」


新しい帳面が棚に並びました。

まだ、ほとんど白紙です。

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