第二十五話 待っている人
十一月の中旬、日が落ちるのがずいぶん早くなった。
樹が学校を出る頃には、もう空が薄暗い。昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がかかった。
「相原くん」
白瀬だった。マフラーを巻いている。
「白瀬さん、こんな時間まで?」
「図書委員の当番です。今日は長引きました」
白瀬はいつも通り、落ち着いた声だった。だが樹は、その様子にわずかな違いに気づいた。マフラーの巻き方が、いつもより丁寧だった。
「今日、誰か来るんですか」
樹が何気なく聞くと、白瀬は少しだけ目を見開いた。
「なぜ分かるんですか」
「マフラー」
「……マフラーで分かるんですか」
「なんとなく」
樹自身、うまく説明できなかった。ただ、いつもと違う、というだけだ。
白瀬はしばらく黙ってから、答えた。
「柏木さんが、帰ってきています。今日から日曜まで」
「大学の帰省ですか」
「そうです」
白瀬は鞄の持ち手を握り直した。
「駅で会う約束をしています」
「そうですか」
「相原くんは、店ですか」
「はい。今日からです」
二人は昇降口を出て、途中まで同じ道を歩いた。駅の方向が同じだったからだ。
店に着くと、千夏が仕込みをしていた。
「おう、遅かったな」
「白瀬さんと少し話してました」
「へえ」
千夏は特に興味を示さず、生地を伸ばし続けた。樹はエプロンをつけて、開店の準備に入った。
夜になって、客が入り始めた。常連の蜂谷、涌井、商店街の面々。いつも通りの店の顔ぶれだ。
八時を過ぎた頃、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
樹が顔を上げると、見覚えのある顔があった。白瀬だ。隣に、知らない男がいる。
人間の若い男だった。大学生らしい、少しラフな格好。柔らかい雰囲気で、白瀬の緊張した様子とは対照的だった。
「あ、相原くん」
白瀬が気づいて、小さく会釈した。
「二人ですか」
「はい」
樹は丸テーブルに案内した。男が椅子を引いて、白瀬に座らせる。自然な仕草だった。
注文を取りに行くと、男の方が先に口を開いた。
「初めまして。柏木です」
「相原です。ハーフ&ハーフでバイトしてます」
「聞いてます。白瀬さんの同級生ですよね」
「はい」
柏木は気さくに笑った。人当たりのいい笑い方だった。
「メニュー、何がおすすめですか」
「マルゲリータが一番人気です」
「じゃあそれで。白瀬さんは」
「同じもので大丈夫です」
白瀬が答えると、柏木は少し意外そうな顔をした。
「毎回同じの頼むね」
「好きなので」
「そういうとこ、変わらないな」
柏木がそう言うと、白瀬はわずかに視線を落とした。何かを噛みしめているような顔だった。
注文を通して厨房に戻ると、千夏が小声で聞いてきた。
「あれが、あの話の男か」
「たぶん」
「たぶんって」
「聞いたことないので、確信はないです」
千夏はチーズを削りながら、テーブルの方をちらりと見た。
「普通の兄ちゃんだな」
「そうですね」
「エルフが三年悩んだ相手にしちゃ、拍子抜けだな」
樹は少し笑った。
「悩んだのは、種族の問題じゃなくて、時間の感覚の問題だったので」
「ああ、そうだったな」
ピザが焼き上がって、樹が運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
柏木が礼を言って、切り分けを始めた。
「白瀬さん、こっちの生活はどう?」
「変わりません。図書委員の仕事が増えました」
「そっちは?」
「同じです。忙しいですけど、悪くないです」
会話は、特別なことは何もなかった。近況を報告し合っているだけだ。だが樹には、その平坦さが、むしろ二人の関係を物語っているように見えた。
柏木が、ふと話題を変えた。
「白瀬さん、返事、まだいい?」
白瀬の手が止まった。
「まだ、です」
「そっか」
柏木は特に気にした様子もなく、ピザを一切れ取った。
「急いでないよ。前も言ったけど」
「知っています」
「でも、聞くのはやめないから」
「はい」
白瀬は少し困ったような、それでいて嬉しそうな顔をした。
樹は厨房に戻りながら、その会話を反芻していた。
柏木は、急かしていない。それでいて、聞くのはやめない。矛盾しているようで、矛盾していない。
――待つことと、聞き続けることは、別なんだ。
カウンターの端で、千夏が肘をついていた。
「あの兄ちゃん、いいな」
「そうですか」
「急かさないのに、諦めもしない」
千夏はグラスを磨きながら続けた。
「難しいんだよ、それ。放っておくのは簡単だし、追い詰めるのも簡単だ。その間を保つのが、一番難しい」
樹は、その言葉を聞きながら、白瀬の方を見た。
白瀬は、二千年の速度で考えている。柏木は、人間の速度で待っている。どちらも自分を変えず、それでも同じテーブルについている。
食事を終えて、二人は帰り支度を始めた。
「ごちそうさまでした」
「またどうぞ」
樹が見送りに出ると、店の前で柏木が白瀬に何か言っているのが見えた。声は聞こえなかったが、白瀬が小さく頷いていた。
柏木が先に歩き出し、白瀬が少し遅れてついていく。その距離感が、樹には印象的だった。
急いでいない。でも、離れてもいない。
「なあ樹」
閉店後、千夏が声をかけてきた。
「はい」
「お前、進路の話、あれからどうなった」
樹は少し驚いた。
「まだ、備考欄の二行のままです」
「三浦先生、なんか言ってきたか」
「判を押して返しただけでした」
「そうか」
千夏は暖簾を畳みながら言った。
「急かさないタイプなんだな、あの先生も」
「そうかもしれません」
樹は窓の外を見た。十一月の夜は、もう冬の匂いがする。
柏木は急かさず、聞き続けている。
三浦は何も言わず、判を押しただけだった。
千夏は「一回で済ませとけ」と言った。
急かさない人が、こんなに周りにいる。
樹は、それを少しありがたく思った。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十五条より】
エルフの親は交際に反対しない。
その代わり、何年経っても「本気ですか」と静かに聞いてくる。
今回もお読みいただきありがとうございます(*´ω`*)
柏木先輩、ついに本人登場です。
普通の、気さくな大学生でした。
「返事、まだいい?」
「まだ、です」
「そっか。急いでないよ」
「でも、聞くのはやめないから」
急かさないのに、諦めない人でした。
千夏さん曰く「一番難しいやつ」だそうです。
樹くんの進路希望調査、まだ二行のままです。
三浦先生は、何も言わずに判を押しただけでした。




