第二十四話 数字の話
十一月に入って、山の葉が落ち始めた。
紅葉が終わると、境見町は一気に冬支度になる。商店街のシャッターに貼られた祭りのポスターが剥がされ、代わりに年末の福引きの告知が出た。
千夏はその朝、店の裏で段ボールを潰していた。
「千夏、ちょっといいか」
誠司が裏口から顔を出した。手に紙の束を持っている。
「なんですか」
「発注な。来月から、お前が全部やってくれ」
千夏は手を止めた。
「全部?」
「全部」
誠司はあっさり言った。
「今までは俺が最終確認してたけどな。もう要らんだろ」
「要ります」
「要らん」
千夏は段ボールを置いて、紙を受け取った。仕入れ先の一覧と、月ごとの発注量が書かれている。
「これ、前に見せてもらったやつより細かいですね」
「そりゃ、今までは見せてただけだからな」
誠司は肩をすくめた。
「今度は、決める側だ」
その日から、千夏の朝が少し変わった。
開店前に、冷蔵庫と倉庫の在庫を数える。前から数えてはいたが、数えて誠司に報告するのと、数えて自分で決めるのとでは、頭の使い方が違う。
「小麦粉、あと三袋」
樹が倉庫から出てきて言った。放課後に来て、そのまま手伝っている。
「三袋か」
千夏はメモに書き込んだ。
「先週、五袋あったよな」
「そうですね」
「一週間で二袋。今月は」
千夏は指を折った。
「四週で八袋。でも十二月は忙しいから、もっと要る」
「どれくらいですか」
「知らん」
千夏は正直に言った。
「去年の十二月がどうだったか、私は数えてねえ」
樹は少し考えてから言った。
「帳簿、見ればいいんじゃないですか」
「あー」
千夏は自分の額を叩いた。
「そうだな。あるわ、帳簿」
閉店後、千夏は誠司の帳簿を借りた。
カウンターに広げて、去年の十二月の頁を探す。誠司の字は、驚くほど雑だった。
「読めねえ」
「読めませんね」
樹が横から覗き込む。
「これ、数字ですか」
「たぶん数字だな」
「6と0の区別がつかないです」
「あいつの字は昔からこうなんだよ」
千夏はページをめくった。
「あ、待て。ここ」
十二月の欄に、小麦粉の仕入れ量が書いてあった。
「十四袋」
「多いですね」
「倍以上か」
千夏は数字を書き写した。それから、他の月も見ていった。
一月は九袋。二月は七袋。三月は八袋。
夏になると増えて、七月は十二袋、八月は十五袋。
「祭りの月が一番多いんだな」
「屋台やりますからね」
「そうか。屋台の分も入ってるのか」
千夏はメモを取りながら、少し面白くなってきた。
数字を並べると、店の一年が見えてくる。忙しい月と暇な月、客が増える時期と減る時期。二年働いていて、体感では分かっていたことが、数字になって並んでいる。
「面白いですね、これ」
「思ったより面白いな」
千夏は帳簿をめくった。
「あ」
手が止まった。
「どうしました」
「いや」
千夏は、あるページを見ていた。
三年前の四月の欄に、赤い字で何か書いてある。誠司の字ではない。もっと丁寧な、細い字だった。
――値上げ交渉、断られる。仕方なし。
「これ、誰の字だ」
樹が覗き込んだ。
「店長の字じゃないですね」
「だよな」
千夏はページをめくった。同じ字が、他にもいくつかある。全部、短い書き込みだった。
――粉屋、代替わり。挨拶に行くこと。
――冬の客足、去年より少ない。理由不明。
――窯の煙突、要点検。
「几帳面な人ですね」
「店長と正反対だな」
千夏は最後の書き込みを探した。三年前の六月で、途切れていた。
それ以降は、全部誠司の雑な字になっている。
「……三年前か」
千夏は帳簿を閉じた。
翌日、千夏は誠司に聞いた。
「店長、帳簿の赤い字、誰のですか」
誠司は仕込みの手を止めた。
「見たか」
「見ました。すいません」
「いや、いいけど」
誠司は少し考えてから答えた。
「経理の人だよ。週に一回来てもらってた」
「そんな人いたんですか」
「三年前までな。歳でな、辞めた」
「じゃあ今は」
「俺がやってる」
誠司は自分の字を見て、苦笑した。
「だから、こんなことになってる」
千夏は帳簿を見た。
「読めないんですけど」
「読めるだろ」
「読めません」
「読めるって」
千夏は6と0の並んだところを指さした。
「これ、どっちですか」
誠司は覗き込んで、しばらく黙った。
「……6だな」
「今考えたでしょ」
「考えてない」
「考えてた」
その夜、千夏は自分用のノートを買ってきた。
商店街の文房具屋で買った、いちばん安い大学ノートだ。表紙に「発注」とだけ書いた。
最初のページに、仕入れ先を書き出す。粉屋、青果、精肉、酒屋、乳製品。それぞれの担当者の名前と、電話番号。
「千夏さん、きれいな字ですね」
「そりゃ書くからな」
「店長より読みやすいです」
「あの人より読みにくい字の方が難しいだろ」
千夏はページをめくって、次に月ごとの必要量を書いた。帳簿から拾った数字を、月別に並べる。
「これ、来年も使えますね」
「そのつもりだ」
千夏はペンを止めた。
「来年、か」
「はい」
「来年もいるんだよな、私」
樹が顔を上げた。
「いないんですか」
「いるよ。社員だからな」
千夏は少し笑って、また書き始めた。
数日後、粉屋から電話がかかってきた。
千夏が取った。今までは誠司が取っていた電話だ。
「はい、ハーフ&ハーフです」
『あ、真壁さん? 粉屋の田代だけど』
「はい」
『十二月の分なんだけどね、ちょっと値上げさせてもらいたくて』
千夏の背筋が伸びた。
「値上げ、ですか」
『小麦の相場がね。二割ほど』
「二割」
千夏は手元のノートを開いた。十二月は十四袋。二割上がると、いくらになるか。
電卓を叩いた。
「……けっこう来ますね」
『そうなんだよ。申し訳ないんだけど』
千夏は少し考えた。
三年前の赤い字を思い出した。値上げ交渉、断られる。仕方なし。
「田代さん」
『うん』
「値上げは、分かりました。相場なら仕方ないです」
『助かるよ』
「その代わり、一つ相談していいですか」
『なに』
「十二月、十四袋頼みます。でも、納品を二回に分けてもらえませんか」
電話の向こうで、少し間があった。
『二回に?』
「うち、倉庫が狭いんです。十四袋いっぺんに来ると、置く場所がなくて床に積むんですよ。そうすると湿気を吸います」
『あー』
「湿気吸った粉って、生地の水加減が変わるんです。毎年、十二月だけちょっと調子が悪くて。理由が分からなかったんですけど、たぶんこれです」
千夏はノートを見ながら続けた。
「二回に分けてもらえたら、うちは助かります。田代さんも、一回に運ぶ量が減ります」
『……なるほどね』
「無理ならいいです」
『いや、できるよ。うちも一回で運ぶの大変だったから』
電話が終わって、千夏は受話器を置いた。
振り返ると、誠司が立っていた。
「聞いてました?」
「聞いてた」
「勝手に決めてすいません」
「いや」
誠司は首を振った。
「よくやった」
「値上げは飲みましたけど」
「飲むしかないだろ、相場なら」
誠司はカウンターに座った。
「それより、二回に分けるってやつな。あれ、俺は思いつかなかった」
「そうですか」
「毎年十二月の生地がおかしいのは、知ってた。でも理由は分からんかった」
誠司は自分の帳簿を見た。
「数えてなかったからな」
千夏は自分のノートを閉じた。
「私も、数えるまで分からなかったです」
その夜、千夏は家に帰って、母に報告した。
「粉屋と交渉した」
「へえ」
志乃は洗い物をしながら答えた。
「勝ったの」
「勝ってねえよ。値上げは飲んだ」
「じゃあ負けたの」
「負けてもねえ」
千夏は麦茶を注いだ。
「両方が得する話にした」
「あら」
志乃が振り返った。
「あんた、そんなことできるようになったの」
「できるようになったんじゃねえよ」
千夏は麦茶を飲んだ。
「数えたら、分かっただけだ」
「数えた?」
「小麦粉の袋を、毎週数えた。それだけだ」
志乃は少し笑って、また洗い物に戻った。
「地味ね」
「地味だよ」
千夏はコップを置いた。
「でも、地味なことしか役に立たねえんだな、あれ」
志乃は何も言わなかった。ただ、洗い物の音が少し優しくなった気がした。
翌朝、千夏は開店前に倉庫の在庫を数えた。
小麦粉、三袋。チーズ、六箱。トマト缶、二十四。
ノートに書き込んで、電卓を叩く。十二月までに、あと何をどれだけ頼むか。
誠司が石窯に火を入れる音がした。樹はまだ来ていない。学校がある日は夕方からだ。
千夏はノートを閉じて、エプロンの紐を締め直した。
十一月の朝は冷える。今日も店が開く。
【境見町 異文化生活マナー帳 第四十五条より】
ドワーフの職場では、道具を雑に扱う人間が一番嫌われる。
仕事の腕より先に、そこを見られる。
今回もお読みいただきありがとうございます( ・ㅂ・)و
千夏さん、発注担当になりましたね、
小麦粉の袋を毎週数えるだけの話、とても地味でした。
でも、数えたら、十二月の生地がおかしい理由が分かりました。
粉屋さんの値上げは飲みました。
その代わり、納品を二回に分けてもらいました。
千夏さん、案外器用なことができる子でしたね。
見直しました。




