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第二十三話 早坂さんの名前

 文化祭の準備期間は、教室が散らかる。


 十月下旬、樹のクラスは喫茶店をやることになっていた。机を並べ替えて、段ボールで壁を作って、看板を描く。放課後になると、教室は工作室になる。


「相原くん、こっち持って」


「はい」


 樹は段ボールの端を支えた。反対側を持っているのが早坂だ。


「もうちょい上」


「これくらい?」


「いや、もうちょい」


 二人で壁を立てて、テープで留める。地味な作業だが、誰かがやらないと進まない。

 クラスの中心にいる連中は、メニューの相談で盛り上がっている。樹たちは端の方で、黙々と壁を作っていた。


「相原くんって、こういうの慣れてるよね」


「そうかな」


「手際いいもん」


「バイトで、椅子とか机とか動かすので」


「あー、ピザ屋さんだっけ」


「うん」


 早坂はテープを切りながら言った。


「いいなあ、バイト」


「やらないの?」


「うち、禁止されてる」


「学校が?」


「親が」


 早坂は少し笑った。


「勉強しろって。まあ、してないんだけど」



 休憩時間、二人は廊下の窓際に座っていた。


 教室からは、まだ賑やかな声がしている。誰かがメニューの名前で揉めているらしい。


「白瀬さん、今日いないね」


 樹が言うと、早坂は頷いた。


「図書委員の仕事だって。文化祭で古本市やるらしいよ」


「そっちに行ってるんだ」


「うん。あの人、こういう騒ぎ苦手そうだしね」


 早坂はペットボトルの蓋を開けた。


「あ、そうだ。相原くん、うちのクラスの出し物さ」


「うん」


「メニューにピザ入れようって話が出てるんだけど」


 樹は少し身構えた。


「調理、たぶん許可下りないよ。火使うから」


「だよね。私もそう言ったんだけど」


 早坂は肩をすくめた。


「それより、あの人たちが言ってたのがさ」


 少し声が小さくなった。


「相原くんに聞けばいいじゃんって」


「僕に?」


「ハーフだから、って」


 樹は、しばらく黙った。


「……なんでハーフだと、ピザに詳しいことになるの」


「知らない」


 早坂は正直に言った。


「たぶん、あの人たち、何も考えてない」


「そうだね」


「ごめん、言わない方がよかったかな」


「ううん」


 樹は首を振った。


「言ってくれてよかった」


 本当だった。知らないところで前提にされている方が、たぶん困る。



 その日の夜、店で千夏に話した。


「なんだそりゃ」


「たぶん、深い意味はないと思うんですけど」


「深い意味がねえのが問題なんだよ」


 千夏は皿を拭きながら言った。


「マナー帳の三十八条な。文化祭でハーフの生徒にどっちの出し物やるのって聞くのは無神経、ってやつ」


「それです」


「役場も分かってて書いてんだよな、あれ」


「はい」


「で、お前どうすんだ」


「どうもしないです」


 樹は椅子を並べながら答えた。


「言われてないので」


「は?」


「僕、直接は言われてないんです。早坂さんが聞いただけで」


 千夏は布巾を止めた。


「じゃあ、その早坂って子が、お前に言うか迷ったってことか」


「たぶん」


「で、言ったのか」


「言ってくれました」


 千夏は少し考えて、それから頷いた。


「いい子だな、そいつ」


「そうですね」



 翌日、樹は早坂に一つ頼んだ。


「あのさ、看板なんだけど」


「うん」


「僕、描いていい?」


 早坂は目を丸くした。


「相原くんが? 絵描けるの?」


「絵は描けない。字だけ」


「字」


「うちの店の常連さんに、書道やってる人がいるんだけど」


 樹は鞄からメモを出した。


「その人に、コツだけ聞いてきた」


 メモには、筆の持ち方と、太い線の引き方が書いてあった。老エルフが昨日、店に来たときに教えてくれたものだ。三百年書いている人の教え方は、驚くほど簡潔だった。

 ――急ぐと下手になります。ゆっくり引きなさい。それだけです。


「なにこれ、すごい」


「すごくはないよ。ゆっくり引けって書いてあるだけ」


「でもさ」


 早坂はメモを見ながら言った。


「わざわざ聞いてきたんだ」


「うん」


「なんで」


 樹は少し考えた。


「ピザのことは聞かれても答えられないけど」


「うん」


「看板なら、できるかなと思って」


 早坂は、しばらくメモを見ていた。それから、少し笑った。


「相原くん、それ、答えになってるようでなってないよ」


「そう?」


「うん。でも、なんか分かる」



 看板は、放課後二日かけて描いた。


 模造紙に、太い墨で「二年三組 喫茶」とだけ書いた。老エルフの教えの通り、ゆっくり引いた。

 うまくはなかった。線がところどころ震えている。それでも、読めた。


「地味だね」


「読めればいいって」


「誰が言ったの」


「書道の先生」


「ふうん」


 早坂は看板を持ち上げて、少し離れて眺めた。


「まあ、読めるね」


「うん」


「あ、でもさ」


 早坂が振り返った。


「もう一枚描いてよ」


「もう一枚?」


「うん。『中にも席あります』って」


 樹は吹き出した。


「それ、夏祭りのやつじゃない?」


「知ってる。あれ面白かったから」


 早坂は笑った。


「うちのクラス、入口が狭いから奥まで見えないんだよね。だから要ると思う」


「本気で言ってる?」


「本気」


 樹は結局、二枚目を描いた。



 文化祭当日、その看板は入口に立った。


 「二年三組 喫茶」と「中にも席あります」。

 通りかかる生徒が、二枚目を見て笑っていく。夏祭りに来ていた生徒は、元ネタに気づいて余計に笑った。


「効いてるね」


「効いてますね」


 樹と早坂は、受付の椅子に並んで座っていた。二人とも接客係だが、客が途切れるとやることがない。


「相原くん」


「うん」


「私、名前で呼ばれたことないんだよね」


 唐突だった。


「え」


「学校で。ずっと早坂さんとか、早坂って呼ばれてる」


 早坂は膝の上で手を組んだ。


「別に、嫌じゃないんだけど」


「うん」


「なんか、言ってみたくなった」


 樹は、少し考えた。

 名前を知らないわけではない。出席簿にも名簿にも載っている。ただ、呼んだことがなかった。


「早坂……ひなたさん、だっけ」


「うん」


「合ってる?」


「合ってる」


 早坂陽向は、少し笑った。


「ちゃんと覚えてたんだ」


「覚えてはいたよ」


「呼んだことなかったのに」


「呼ぶ機会がなかっただけで」


 樹は正直に言った。


「知ってることと、言うことは、別だと思ってたから」


 早坂は、その言い方をしばらく考えているようだった。


「それ、相原くんっぽいね」


「そう?」


「うん」


 彼女は前を向いた。


「でも、たまには言った方がいいと思うよ」


「……そうかもしれない」


 樹はそう答えた。



 文化祭が終わって、片付けが始まった。


 段ボールの壁を崩して、机を元の位置に戻す。看板は捨てることになった。


「もったいないね」


「うん」


「持って帰る?」


「置く場所ないよ」


 結局、二枚とも折り畳んで、ゴミ袋に入れた。


「あ、写真撮っとけばよかった」


 早坂が言った。


「今から出す?」


「いい。畳んだやつ見ても意味ないし」


 二人でゴミ袋を運んだ。



 その夜、店で千夏に報告した。


「看板、好評でした」


「そりゃよかったな」


「『中にも席あります』の方が受けました」


「パクリだろ、それ」


「早坂さんの発案です」


 千夏はカウンターを拭きながら笑った。


「その子、面白いな」


「そうですね」


 樹は皿を並べながら、少し考えた。


「あの、千夏さん」


「なんだ」


「僕、人の名前を呼ばないって、変ですか」


 千夏は手を止めた。


「なんだ急に」


「今日、言われたんです。名前で呼ばれたことがないって」


「その子にか」


「はい」


 千夏はしばらく考えて、それから言った。


「変ではねえよ」


「そうですか」


「ただな」


 千夏は布巾を絞った。


「呼ばれる方は、たまに寂しいかもしれん」


 樹は、その言い方に少し驚いた。


「千夏さんも、そう思ったことありますか」


「私はねえよ。私は呼ぶ方だからな」


 千夏はあっさり言った。


「でも、うちの親父、人の名前あんまり呼ばねえんだよ」


「そうなんですか」


「私のことも、千夏って呼ぶのは用があるときだけだ。普段は『おい』とか『お前』とか」


 千夏は換気扇の方を見上げた。


「別に嫌じゃねえけどな。ただ、たまに名前で呼ばれると、なんかあったのかって身構える」


 樹は、それを聞いて少し笑った。


「じゃあ、呼びすぎるのもよくないんですね」


「バランスだろ、そんなもん」


 千夏はそう言って、掃除の続きに戻った。


 十月の終わり、店の窓から見える山は、麓まで色が下りていた。

 あと少しで、葉が落ち始める。



【境見町 異文化生活マナー帳 第三十八条より】

学校の文化祭で、ハーフの生徒に「どっちの出し物をやるの?」と聞くのは無神経。

好きな方を選ばせること。





今回もお読みいただきありがとうございます(´꒳`)


早坂さんの下の名前が判明しました。

早坂陽向ひなたさんです。


「私、名前で呼ばれたことないんだよね」

「別に、嫌じゃないんだけど」

「なんか、言ってみたくなった」


樹くんは名前を知っていました。

流石ですね。

筆者は親友のことを苗字で呼び続けた結果、名前を忘れたことがあるというのに。


「知ってることと、言うことは、別だと思ってたから」

……樹くん、そういうところがあります。


そして文化祭の看板。

「二年三組 喫茶」

「中にも席あります」


夏祭りで似たような看板がありました。

早坂さん、パクリ(天丼)でウケを狙いましたね。


──

【マナー帳のはなし】

ハーフは極稀な存在なので、まだまだ街全体としても理解を深めている最中なのです。

本人もよく分かっていないので、なおさら難しいですね。

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