第二十二話 肩書きの話
十月の中頃、店の掃除は年内最後の大掃除になる。
といっても年末ではない。誠司いわく「十二月は忙しいから、今のうちにやる」のだそうだ。理屈は通っている気もするし、通っていない気もする。
千夏は朝から換気扇を外していた。
「重い」
「そりゃ油だからな」
「油の重さじゃねえよ、これ」
「あー、五年くらい外してないかもしれん」
「五年」
千夏は換気扇を床に下ろして、誠司を見た。
「店長、それ、営業許可的に大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないかもな」
「大丈夫じゃないなら言うなよ」
樹は学校が休みの土曜で、朝から手伝いに来ている。カウンターの下から古い箱を引っ張り出しているところだった。
「千夏さん、これ何ですか」
箱の中には、紙の束が入っていた。
「なんだそれ」
「伝票みたいです。でも、日付が十年前です」
「捨てろ」
「捨てていいんですか」
「店長、十年前の伝票って要りますか」
「要らんな」
あっさりしたものだった。
昼前に、扉のベルが鳴った。
「休みだぞ」
千夏が振り返らずに言うと、返事があった。
「知ってる」
岩田豪太だった。作業着姿で、手に何か持っている。
「掃除だと聞いた」
「誰から」
「金物屋の親父」
千夏は換気扇を拭く手を止めた。
「で、何しに来たんだ」
「これ」
豪太が差し出したのは、細長い金属の棒だった。先が平らになっている。
「なんだこれ」
「窯の掃除用だ。灰をかき出すのに使う」
誠司が石窯の前から顔を出した。
「あ、それ助かります。前のが折れちゃって」
「知ってる」
「なんで知ってるんですか」
「金物屋の親父」
千夏は呆れた。
「あの親父、全部喋ってんな」
豪太は棒を誠司に渡すと、店の中を見回した。
「……ここか」
「なんだよ」
「初めて入った」
千夏は、しばらく言葉が出なかった。
「お前、七か月前から言ってたよな。うちで飯食えって話」
「言われた」
「一回も来てねえだろ」
「行くとは言ってない」
「屁理屈だな」
豪太は近くの椅子に座った。
「祭りで食った」
「あれは屋台だ。店じゃねえ」
「同じだろう」
「違うんだよ」
千夏は雑巾を置いて、厨房に入っていった。
三十分後、豪太の前にピザが置かれた。
「掃除中だろう」
「石窯は使える。掃除は換気扇だ」
千夏は自分の分も持ってきて、向かいに座った。樹と誠司も呼ばれて、四人で丸テーブルを囲む形になった。
「うまい」
豪太が言った。
「屋台のとは違うか」
「違う」
「そうだろ」
千夏は満足そうに頷いた。
「石窯とオーブンは別物なんだよ。焼き上がりが違う。生地の水分の飛び方が違うんだ」
豪太は、少しだけ驚いた顔をした。
「詳しいな」
「二年やってりゃな」
「鍛冶と同じだ」
豪太はピザを見ながら言った。
「火の当て方で変わる。同じ鉄でも」
「そうなのか」
「同じだ」
二人はしばらく黙って食べた。
「千夏」
食べ終わった頃、誠司が言った。
「そういえば、前の話、どうなった」
「前の話?」
「社員の話」
千夏の手が止まった。
七月の夜だった。時給を上げると言われて、その流れで社員にならないかと言われた。すぐ決めなくていいと言われて、そのままになっていた。
三か月経っている。
「……あー」
「忘れてたか」
「忘れてはねえ」
「なら、考えてはいたんだな」
「考えてはいた」
千夏は皿を見た。
「考えてはいたんだけどな」
樹が黙って水を注いだ。豪太は黙って座っている。誰も急かさなかった。
「店長」
「なんだ」
「社員になると、何が変わるんだ」
「んー」
誠司は腕を組んだ。
「保険とか、そういうのがちゃんとする」
「他は」
「あんまり変わらんな」
「変わらんのか」
「お前、今も仕込みも発注もやってるだろ。仕事は変わらん」
千夏は少し考えた。
「じゃあ、なんで社員にするんだ」
「責任の所在の話だな」
誠司は椅子の背にもたれた。
「バイトってのは、辞めても誰も困らんことになってる。建前上な。でもお前が明日辞めたら、うちは回らん」
「……」
「回らんのに、辞めても困らんことになってるのは、おかしいだろ」
千夏は、その説明を初めて聞いた。七月のときは「都合が悪い」としか言われなかった。
「あと、給料が上がる」
「そっち先に言えよ」
「言うと、金で釣ったみたいになるだろ」
誠司は真顔だった。
「一つ聞いていいか」
千夏はテーブルに肘をついた。
「社員になったら、辞めにくくなるか」
誠司は少し黙った。
「なるだろうな」
「正直だな」
「嘘ついてもしょうがない」
誠司は水を飲んだ。
「でも、辞めるときは辞めろ。うちは辞めさせない店じゃない」
「そうか」
「先代も、そうだった」
千夏は顔を上げた。
「え?」
「あ、いや」
誠司は言葉を切って、少し困った顔をした。
「なんでもない」
千夏はそれ以上聞かなかった。樹が水差しを持ったまま、少しだけ動きを止めたのが横目に見えた。
その夜、千夏は家に帰って、台所で麦茶を飲んでいた。
母が洗い物をしている。父はまだ帰っていない。夜勤だった。
「母さん」
「なに」
「店長に、社員にならないかって言われてる話」
「七月のね」
「まだ返事してねえ」
「知ってる」
志乃は手を止めずに答えた。
「三か月ね」
「長いか」
「短くはないわね」
千夏は麦茶を一口飲んだ。
「決められねえんだよ」
「そう」
「バイトのままなら、まだ何にでもなれる気がする。前もそう言った」
「言ってたわね」
「でも、それ、たぶん嘘だ」
志乃が、手を止めた。
「何にでもなれる気がしてるだけで、実際は何もしてねえ。ただ決めてないだけだ」
千夏はコップを両手で包んだ。
「決めてないのを、選択肢が多いって言い換えてただけだった」
志乃は布巾で手を拭いて、椅子に座った。
「それ、自分で気づいたの」
「今日、気づいた」
「へえ」
「店長がな、辞めにくくなるかって聞いたら、なるって言ったんだよ」
「正直ね」
「正直だろ。それ聞いて、逆に安心した」
千夏は少し笑った。
「辞めにくくなるって言われて安心するの、おかしいか」
「おかしくないわよ」
志乃はあっさり言った。
「行きたい場所があるなら、しがらみは邪魔でしょうね。でも、あんたはそうじゃないんでしょう」
「……そうだな」
「なら、繋がってた方がいいのよ」
千夏は麦茶を飲み干した。
「あのさ」
立ち上がりかけて、千夏は言った。
「父さんのことなんだけど」
「なに」
「五月に、勝ちに来ればいいって言われた」
「聞いてる」
「聞いてんのかよ」
「あの人、あれで喋るのよ」
志乃は笑った。
「で、行くの」
「行かねえ」
千夏は即答した。
「行かないの」
「行っても意味ねえなと思って」
千夏は椅子に座り直した。
「私、あの人に勝ちたくて拳法始めた。それは本当だ。でも今、勝って何が変わるんだって考えたら、何も思いつかなかった」
「そう」
「あの人、十七年知らんふりしてたんだぞ。それ聞いた時点で、もう負けてんだよ」
志乃は何も言わなかった。
「勝負したら、たぶん勝てる。今なら勝てると思う」
「そうでしょうね」
「でも、勝ったところで、十七年は取り返せねえだろ」
千夏はテーブルの木目を見た。
「だから、やめる。あの人には言わねえけど」
「言わないの」
「言ったら、寂しがるだろ」
志乃が、初めて少し驚いた顔をした。
「あんた、そんなこと言うようになったの」
「母さんが言ったんだろ、節分のとき」
「そうだったかしら」
志乃はとぼけたが、口元は緩んでいた。
翌日、千夏は店に出て、開店前の誠司に言った。
「店長」
「なんだ」
「社員、やります」
誠司は帳簿から顔を上げた。
「おう」
それだけだった。
「それだけかよ」
「じゃあ、書類作っとくわ」
「もうちょっとなんかあるだろ」
「なんかって何だ」
「知らねえけど」
誠司は笑って、また帳簿に戻った。
「まあ、よろしくな」
「はい」
千夏はエプロンをつけて、厨房に入った。
樹が仕込みの準備をしている。千夏を見て、少し首を傾げた。
「なんかありました?」
「社員になった」
「え」
樹が手を止めた。
「おめでとうございます」
「めでたいのか、これ」
「めでたいんじゃないですか」
樹はそう言って、また手を動かし始めた。
「じゃあ千夏さん、僕の先輩じゃなくて、上司ですね」
「やめろ、その言い方」
「すみません」
「絶対分かってて言ってるだろ」
樹が笑った。
石窯に火が入って、十月の店が今日も開く。
千夏は換気扇の掃除の続きに取りかかった。昨日の油が、まだ半分残っている。
【境見町 異文化生活マナー帳 第五十条より】
ハーフ&ハーフでバイトをしていると聞くと、町の大人は大体「じゃあ安心だ」と言う。
理由は誰も説明してくれない。
今回もお読みいただきありがとうございます(๑•̀ㅂ•́)و✧
社員登用のお話、三か月越しのにお返事しましたね。
「バイトのままなら、まだ何にでもなれる気がする」
七月に千夏さんが言ったことです。
今回、本人が「あれ嘘だった」と認めました。
……いや、きっと本人も当時は本心のつもりだったのでしょう。
それがなんだか違ったことに、本人も今気が付いた。
人の心っていうのは大体、曖昧なものです。
決めていないことを、選択肢が多いと言い換えていただけ。
こうしたことを言語化できるのもすごいことです。
千夏さん、どんどん大人になっている気がしますね。
そして岩田豪太、七か月かかって店に来ました。
「行くとは言ってない」だそうです。
お父さんとの手合わせは、なくなりました。
勝てるけど、勝っても十七年は取り返せないので。
これもひとつの決着の仕方なのでしょう。
──
【店長のうっかり】
誠司さん、今回ちょっと口を滑らせました。
「先代も、そうだった」
……そのあと、なんでもない、と言っていましたが。
ハーフ&ハーフにはなにやら歴代の謎がありそうですね。




