第二十一話 書く日
十月に入って、境見町の山は上から色を変え始めた。
花屋の見立て通りだった。紅葉狩りが終わってから一週間、色は山の中腹まで下りてきている。あと十日もすれば、麓まで届くだろう。
樹は学校帰りに、その山を見上げながら歩いていた。
鞄の中に、返却された進路希望調査が入っている。
備考欄に二行書いて出した紙だ。今日、三浦から返された。何も言われなかった。ただ「受け取った」とだけ言われて、判が押されて戻ってきた。
樹はそれを、まだ誰にも見せていない。
その日の店は、夜になって急に静かになった。
七時を過ぎた頃、丸テーブルの客が帰って、カウンターの常連も帰った。十月の平日は、こういう日がある。
「暇だな」
千夏がカウンターに肘をついた。
「まだ八時ですよ」
「八時で客がいねえのが暇なんだよ」
誠司は石窯の前で薪の位置を直している。この人は暇になると、必ず火をいじる。
扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
樹は顔を上げて、そのまま少し止まった。
旅装の男だった。四か月ぶりだ。
「……お久しぶりです」
「ああ」
男はいつもの席に座った。カウンターの一番端だ。
「同じのを」
「マルゲリータですね」
樹は注文を通した。千夏が「よお」と声をかけると、男は軽く頷いた。
ピザが焼き上がるまでの間、店内は静かだった。
誠司が窯の前にいて、千夏が洗い物をしている。樹はカウンターの内側で、グラスを磨いていた。
男は水を飲みながら、壁の写真を見ていた。
「兄ちゃん」
「はい」
「顔つきが変わったな」
樹は手を止めた。
「そうですか」
「前は、聞きたいことを飲み込む顔をしていた」
男はこちらを見ずに言った。
「今は、飲み込んでない顔だ」
樹は何と答えていいか分からなかった。
自分では、何も変わっていないつもりだった。
ピザを運ぶと、男は「どうも」と言って食べ始めた。
樹はカウンターの内側に戻って、また磨き始めた。
しばらくして、男が言った。
「あの帳面、まだあるか」
「あります」
「そうか」
「見ますか」
六月にも同じことを聞いた。あのときは「見ない方がいい」と言われた。
「いや」
同じ答えだった。
「でも」
男は水を飲んだ。
「一冊、新しいのを出しておけ」
樹は顔を上げた。
「新しいの、ですか」
「もう書くところがないだろう、あれ」
樹は記憶をたどった。
棚から出した六冊のうち、いちばん新しい一冊は、確かに残りの頁が少なかった。二月に千夏が名前を書いたとき、残りは十数枚だったはずだ。
「……ありますけど、あと少しです」
「なら、そろそろだ」
男はそう言って、食べ終わった皿を少し押した。
「帳面が終わるときには、次を用意する。そういう店だ」
樹は、その言い方に引っかかった。
この人は、そういう店だ、と言った。この店の作法を知っている人の言い方だった。
千夏が洗い場から出てきた。
「なあ、あんた」
「なんだ」
「前に言ってたよな。書くと話がややこしくなるって」
「言った」
「今も書かねえのか」
男はしばらく黙っていた。
「……書かないな」
「なんでだよ」
「言っただろう」
「ややこしくなるからか」
「そうだ」
千夏は、腕を組んだ。
「私、あれ書いたぞ。二月に」
「知ってる」
「見たのか」
「見た」
千夏は少し驚いた顔をした。あの日、この男は帳面を見ようとしなかったはずだ。
「なんて書いてあった」
「真壁千夏、と」
男は水を飲んだ。
「日付と、名前だけだった」
「そうだよ。他に書くことねえもん」
「それでいい」
男はあっさり言った。
「名前と日付だけでいい。それがいちばん残る」
誠司が石窯の前から振り返った。
「お客さん」
「なんだ」
「うち、来年で何年になるんですかね」
樹は、その質問に驚いた。
誠司が店の歴史について何か言うのは、初めてだった。
男は答えなかった。しばらく水のグラスを見ていた。
「……分からんよ」
「そうですか」
「あんたは、何年やってる」
「俺ですか。十二年です」
「十二年か」
男は、少しだけ間を置いた。
「十分だ」
「十分って、何がですか」
「店を続けるのに要るのは、年数じゃない」
男は立ち上がって、財布を出した。
「毎日開けることだ。それだけだ」
誠司は何も言わなかった。ただ、石窯の火を見ていた。
会計を済ませて、男は扉に向かった。
「あの」
樹が呼び止めた。男が振り返る。
「新しい帳面、どんなのがいいですか」
男は少し目を見開いた。それから、口の端を上げた。
「聞くようになったな」
「あ」
樹は自分で気づいて、少し慌てた。
「すみません、余計なことを」
「いや」
男は首を振った。
「いいことだ」
少し考えるように、天井を見た。
「布張りがいい。紙は厚い方がいい。安いのでいい」
「安いのでいいんですか」
「高いと、みんな書かなくなる」
樹は、その理由に納得した。
「あと」
男は扉に手をかけた。
「最初の頁は、空けておけ」
樹の背筋が、少しだけ冷えた。
「……なんでですか」
「昔から、そうしてる」
それだけ言って、男は出ていった。
扉が閉まって、店が静かになった。
「なんだったんだ、今の」
千夏が眉をひそめた。
「最初の頁を空けろって、どういう意味だ」
「分かりません」
樹は答えたが、頭の中では別のことを考えていた。
一番古い帳面の、最初の数頁は、切り取られている。
丁寧に、真っ直ぐに。
空けておけと言われた頁と、切り取られた頁。
それが同じものなのかどうか、樹には分からなかった。
「店長」
樹は石窯の方を向いた。
「はい」
「新しい帳面、買ってきていいですか」
誠司は少し驚いた顔をした。
「あー、そうだな。もう古いのいっぱいか」
「あと十枚くらいです」
「じゃあ買ってこい。金は出す」
「布張りで、紙が厚くて、安いのにします」
「なんだそりゃ。注文多いな」
誠司が笑った。
樹は笑わなかった。
閉店後、樹は棚から一番古い帳面を出した。
表紙を開く。切り取られた縁が、背に貼りついたまま残っている。二枚か三枚。
樹はそれを、しばらく見ていた。
最初の頁は空けておけ、とあの人は言った。
空けておいたのなら、そこには何も書かれていなかったはずだ。何も書かれていない頁を、誰かが切り取ったことになる。
――それとも。
樹は帳面を閉じた。
考えても分からない。分からないことを考え続けるのは、自分の仕事ではない気がした。
「樹、帰るぞ」
「はい」
樹は帳面を棚に戻した。
鞄の中には、進路希望調査が入っている。備考欄に二行だけ書いた紙だ。
まだ分かりません。
でも、人の話を聞くのは苦にならないです。
あの人は、顔つきが変わったと言った。
樹には、その自覚がない。ただ、聞きたいことを聞いた。それだけだ。
店の明かりが落ちて、外に出ると、十月の夜は冷たかった。
北の山は暗くて、色は分からなかった。
【境見町 異文化生活マナー帳 第九十九条より】
ハーフ&ハーフに来れば、誰かしら知り合いに会える。
それが安心材料であり、時に面倒の種でもある。
今回もお読みいただきありがとうございます(`・ω・´)
旅装のお客さん、作中では四か月ぶりの登場でした。
寄せ書きの帳面が、そろそろ終わります。
「新しいのを出しておけ」と言われました。
布張りで、紙が厚くて、安いのがいいそうです。
高いと、みんな書かなくなるからだそうです。
そして最後に一言。
「最初の頁は、空けておけ」
「昔から、そうしてる」
……一番古い帳面の最初の頁は、切り取られています。
空けておいたのなら、そこには何も書かれていなかったはずですよね。
なぜなのでしょう?
樹くん、今回は聞きました。
「聞くようになったな」と言われました。
本人に自覚はありません。
次回、お店の話です。




