第二十話 まだ緑の山
九月の下旬、境見町の山はまだ緑だった。
千夏がそれに気づいたのは、店の裏口でゴミを出しているときだった。北の山際が、夏とほとんど同じ色をしている。空気は涼しくなったのに、山だけが季節を無視していた。
「なんも変わってねえな」
独り言のつもりだったが、後ろから声が返ってきた。
「変わりますよ。あと一か月ほどで」
振り返ると、老エルフが立っていた。夏祭りの看板を書いた書道教室の主人だ。開店前だが、この人は時々こうしてふらりと来る。
「先生、まだ開いてないですよ」
「知っています。散歩の途中です」
老エルフは山の方を見上げた。
「もう色が動き始めています」
「緑にしか見えませんけど」
「上の方です。てっぺんから、少しずつ」
千夏は目を細めた。山頂のあたりが、言われてみればわずかに黄色い気がする。気のせいかもしれない。
「よく見えますね」
「毎年見ていますから」
老エルフはそう言って、また歩き出した。
「今年は、少し早いかもしれません」
その日の夜、店は静かだった。
九月下旬になると、夏の客足が引く。夜の常連が数人と、丸テーブルに一組だけ。千夏はカウンターを拭きながら、樹に昼間のことを話した。
「山、色が動いてるんだと」
「紅葉ですか」
「まだ緑だぞ」
「母も言ってました。そろそろだって」
樹は皿を並べながら答えた。
「うちの母、この時期になると毎週山を見に行くんです」
「毎週」
「新緑の日と同じです。日付が決まってないので、何回も見に行くことになります」
千夏は布巾を止めた。
「紅葉も日付ねえのか」
「ないです。というか、エルフの行事はだいたいそうみたいで」
「面倒くさい種族だな」
「そう思います」
樹があっさり同意したので、千夏は笑った。
カウンターの端で、涌井が焼き上がりを待っていた。
「その話、私も窓口でよく聞かれます」
役場帰りの背広のまま、麦茶を飲んでいる。
「紅葉狩りの日程を教えてくれって、毎年何人か来るんですよ」
「役場が決めるもんなのか、あれ」
「決められませんよ。エルフの方が決めるものなので」
涌井は苦笑した。
「人間の方は、日程が決まらないと予定が立てられません。エルフの方は、決めることの方が理解できません。それで揉めます」
「揉めるのかよ」
「毎年です」
涌井は麦茶を飲み干した。
「去年は、町内会の紅葉狩りが二回に分かれました」
「二回?」
「人間の方が『十月十日』と決めて、エルフの方が『まだです』と言って来なかったんです。それで人間だけで行きました」
「で?」
「二週間後に、エルフの方が『今日です』と言って、みんなに声をかけたそうです」
千夏は想像して、少し気の毒になった。
「誰も行けなかったんじゃねえの」
「行けませんでした。平日の午前中だったので」
樹が横で吹き出した。
「今年はどうすんだ」
「今年も同じだと思います」
涌井はあっさり言った。
「解決できないので」
「役場が音頭取ればいいだろ」
「取りました。三年前に」
「で?」
「エルフの方から苦情が来ました。『色が来ていないのに人を集めるのは、山に失礼です』と」
「……山に失礼」
「はい」
千夏は返事に困った。
「それ、条文にしねえのか」
「したいんですけどね」
涌井は鞄からノートを出した。あの編纂ノートではなく、普通の手帳だ。
「どう書けばいいのか、まだ分からないんですよ。『紅葉狩りの日程は決めないこと』と書くと、人間の方が困ります。『決めること』と書くと、エルフの方が怒ります」
「どっちも立てられねえのか」
「今のところは」
涌井は手帳を閉じた。
「なので、書いていません」
翌週の月曜、千夏は仕込みの買い出しで商店街を歩いていた。
金物屋の前を通ると、親父が店先で誰かと話し込んでいる。相手は花屋のエルフだった。夏祭りの実行委員で顔を合わせた二人だ。
「だから、いつなんだよ」
「まだです」
「先週もそう言ったろ」
「先週もまだでした」
「今週は」
「まだです」
千夏は足を止めた。会話が完全に止まっている。
「何やってんですか」
「おう千夏ちゃん。紅葉狩りの日だよ」
金物屋が振り返った。
「うちの女房が、今年こそ一緒に行きたいって言ってな。この人に聞いてんだけど」
「まだ、と」
「まだなんだよ」
花屋は困った顔もせず、平然としている。
「色が来ていませんから」
「見に行けば分かるだろ」
「行きました。まだでした」
「じゃあ来週か」
「分かりません」
金物屋が頭を抱えた。
千夏はしばらく二人を見ていた。それから、思いついて言った。
「先生、色が来たら分かるんですよね」
「分かります」
「何日前から分かります?」
花屋は少し考えた。
「三日ほど前には、だいたい」
千夏は金物屋の方を向いた。
「じゃあ、三日前に連絡もらえばいいんじゃないですか」
「三日前?」
「日にちは決めない。でも、来そうになったら教えてもらう。三日あれば、休みくらい取れるでしょ」
金物屋が口を開けた。
「……それでいいのか」
「よくないですか」
「いや、それでいい。それで十分だ」
千夏は花屋を見た。
「先生、それならできます?」
「できます」
花屋はあっさり頷いた。
「三日前に、皆さんにお知らせすればよいのですね」
「はい」
「なるほど。そういう頼み方なら、承知しました」
千夏は少し驚いた。
「今まで、誰も頼まなかったんですか」
「日にちを決めろ、とは何度も言われました」
花屋は静かに答えた。
「決められないので、断っていました」
その日の夜、千夏は店で涌井にその話をした。
涌井は麦茶を持ったまま、しばらく動かなくなった。
「……それ、条文になります」
「なるのか」
「なります」
涌井は鞄から手帳を出した。今度は勢いよく開いた。
「日程を決めるか決めないかで、ずっと揉めていたんです。決める側と決めない側で、正面からぶつかっていました」
「まあ、そうですね」
「でも、人間の方が本当に欲しかったのは日付ではありませんでした。休みを取るための猶予です」
涌井はペンを走らせた。
「エルフの方が譲れなかったのは、日付を決めることではありません。色が来ていないのに人を集めることです」
「はい」
「三日前の連絡なら、どちらも譲っていません」
千夏は、自分がそんな大層なことを言った覚えがなかった。
「私、そんな考えて言ったわけじゃねえぞ」
「知っています」
涌井は書きながら答えた。
「窓口で三年考えて、出なかった答えです。買い物の途中で出るんですよ、こういうのは」
樹がカウンターの向こうで笑った。
十月の第一週、花屋から連絡が回った。
「三日後です」
商店街の店に、そう伝わった。役場にも伝わり、掲示板にも貼られた。
三日後の日曜、町内会の紅葉狩りが行われた。人間もエルフもドワーフも、同じ日に山へ行った。金物屋の女房が念願だったらしく、朝から張り切っていたという。
千夏はその日、店に出ていたので行っていない。
「行かなくてよかったんですか」
樹が聞いた。
「祝日じゃねえんだから、店は開ける」
「そうですけど」
「私、紅葉見ても何も思わねえしな」
千夏は仕込みをしながら答えた。
「ドワーフは葉っぱより飯だ」
「身も蓋もない」
夕方、山から帰ってきた客が何組か店に来た。みんな少し日焼けして、機嫌がよかった。
「千夏ちゃん、綺麗だったよ」
「そりゃよかったです」
「来年は店休んで来なよ」
「考えときます」
閉店後、涌井が改訂の相談で立ち寄った。
「条文、これでどうでしょう」
手帳を見せられた。
――紅葉狩りの日程は決めない。ただし、色が来る三日前に知らせる。
――決めないことと、知らせないことは違う。
千夏はそれを読んで、少し黙った。
「二行目、要るのか」
「要ります」
涌井は即答した。
「一行目だけだと、また同じことが起きます。エルフの方は『決めない』を守って、連絡しないかもしれません。悪気なく」
「ああ」
「決めないのは構わないんです。でも、知らせないのは別の話です」
千夏は、その言い方をどこかで聞いた気がした。
――待つかどうかと、傘を持つかどうかは、別の話。
いつだったか、樹が誰かにそんなことを言っていた気がする。
「なあ涌井さん」
「はい」
「うちの店、たまにそういう話ばっかりしてねえか」
「そうですね」
涌井は手帳を閉じた。
「たぶん、この店がそういう場所なんだと思います」
千夏は返事をせずに、暖簾を下ろしに外へ出た。
九月の終わりの夜は、もう涼しい。
北の山を見上げると、暗くて色は分からなかった。それでも、上の方から少しずつ変わっているらしい。
毎年見ている人には、それが分かるのだという。
千夏は暖簾を畳んで、店に戻った。
【境見町 異文化生活マナー帳 第百三条より】※本話にて新規制定
紅葉狩りの日程は決めない。ただし、色が来る三日前に知らせる。
決めないことと、知らせないことは違う。
今回もお読みいただきありがとうございます(๑˘ω˘๑)
今回は紅葉狩りの日程問題でしたね。
人間は日付を決めたがります。
エルフは「色が来ていないのに人を集めるのは山に失礼です」と言います。
役場は三年悩んだんですね……。
千夏さんはその3年の悩みを買い物の途中で解決しました。
本人には大したことをしたという自覚はありません(笑)
そして第百三条が生まれましたね。
お話を通じて、どんどんお互いへの理解が言語化されていって、とても良いことです。




