第十九話 空欄の理由
九月の教室は、まだ夏の匂いがした。
冷房が効いているのに、窓際の席は日差しで暑い。新学期が始まって一週間、生徒たちはまだ夏休みの話をしている。
二時間目の終わり、担任の三浦が紙の束を持って入ってきた。
「進路希望調査、配るぞ」
教室が、少しだけ静かになった。
「二年の二学期だ。そろそろ本気で考えろ。第三希望まで書け。まだ決まってないなら、方向だけでいい」
紙が回ってきた。樹は自分の分を受け取って、机の上に置いた。
進学 就職 その他。
第一希望、第二希望、第三希望。
備考欄。
樹はそれを、しばらく眺めていた。
「相原くん、書いた?」
昼休み、早坂が聞いてきた。
「まだ」
「私も。てか、みんなまだじゃない?」
早坂は自分の紙をひらひらさせた。
「私、たぶん進学かな。何やるかは分かんないけど」
「そっか」
「相原くんは?」
「……分かんない」
樹は正直に答えた。
「分かんないっていうか、書くことがなくて」
「書くことがない?」
「うん」
樹は自分の紙を見た。空欄が三つ並んでいる。
「やりたいことがないんだよね」
早坂は少し考えてから、言った。
「それ、書いたら?」
「え?」
「備考欄に。やりたいことがありません、って」
「怒られるよ」
「怒られるかな」
早坂は笑った。
「でも、嘘書くよりよくない?」
その日の放課後、樹は白瀬の席の横を通った。
白瀬は自分の紙に、何か書いていた。長い時間をかけて、一文字ずつ。
「白瀬さん、もう書いてるんだ」
「はい」
「早いね」
「早くはありません。夏休みの間、ずっと考えていました」
白瀬は顔を上げた。
「相原くんは」
「まだ。何も」
「そうですか」
白瀬は特に驚かなかった。
「私も、去年は書けませんでした」
「去年?」
「一年生のときの調査です。白紙で出しました」
樹は少し意外だった。この人が白紙で出すところが想像できない。
「なんで書けなかったの」
「二千年あるからです」
白瀬はあっさり言った。
「何になってもいいと思っていました。何にでもなれますから。何百年か働いて、飽きたら別のことをすればいい。そう思うと、今決める理由がありませんでした」
「……うん」
「でも、それだと何も始まりません」
白瀬は紙に目を落とした。
「今年は書きました。合っているかどうかは分かりません。でも、書かないと、始まらないので」
「何て書いたの」
白瀬は少し迷ってから、紙をこちらに向けた。
第一希望の欄に、丁寧な字で書いてあった。
――図書館司書
「本、好きだから?」
「そうですね。あと、本は長く残りますから」
白瀬は紙を戻した。
「私が働ける時間と、釣り合う気がしました」
樹は、その考え方が少し羨ましかった。
自分の時間がどれくらいあるのか、樹には分からない。ハーフエルフの寿命を、誰も知らないからだ。
夜、店に出勤した。
夏の忙しさが終わって、九月の店は落ち着いている。夜の常連が数人と、丸テーブルに一組。千夏は仕込みを終えて、カウンターを拭いていた。
「おう。学校始まったか」
「はい」
「顔、暗いぞ」
「そうですか」
「そうだよ」
樹は水を注ぎながら、少し迷ってから言った。
「進路希望調査、配られました」
千夏の手が、一瞬止まった。
「……ああ」
それだけ言って、また拭き始めた。
「書けたか」
「いえ。空欄です」
「そうか」
千夏はそれ以上聞かなかった。
樹は、その反応が少しありがたかった。
閉店後、誠司が帳簿をつけている横で、樹はグラスを磨いていた。
「なあ樹」
「はい」
「お前、進路どうすんだ」
千夏が聞かなかったことを、この人はあっさり聞いてくる。
「決まってないです」
「そうか」
誠司は帳簿から顔を上げた。
「大学は」
「行くかもしれないし、行かないかもしれないです。父も母も、好きにしろって言うので」
「いい親だな」
「……はい」
樹は、グラスを布巾で拭き続けた。
「店長」
「ん」
「店長は、どうやって決めたんですか」
誠司のペンが止まった。
「何を」
「店です。脱サラして、ここの店長になったって聞きました」
樹は、聞いてから少し後悔した。
二月に、旅装の客が先代のことを口にしたとき、この人の声が硬くなったのを覚えている。踏み込みすぎたかもしれない。
「あー」
誠司は帳簿を閉じた。
「決めてないな、あれは」
「決めてない?」
「決めたって感じがしないんだよ。気づいたらここにいた」
誠司は椅子の背にもたれた。
「会社にいた頃な、毎週ここで飯食ってたんだよ。出張でこの町に来て、たまたま入って、それから毎週来るようになった」
「毎週ですか」
「片道二時間かけてな」
「二時間」
「暇だったんだよ、俺も」
誠司は笑った。
「で、ある日ここが閉まってた。張り紙も何もなくてな。次の週も閉まってた。その次も」
樹は、グラスを拭く手を止めた。
「三か月くらい閉まってた。俺は毎週来た。閉まってるのを見て、帰った」
「……なんでですか」
「分からん。習慣だったんだろうな」
誠司は天井を見た。
「四か月目に、開いてた。中に人がいて、掃除してた。俺が入ってったら、その人が言ったんだよ」
「なんて」
「『やる気はあるか』って」
樹は、返事ができなかった。
「そのときの俺は、たぶんひどい顔してた。会社もうまくいってなかったし、何がやりたいのかも分からんかった。それで毎週二時間かけて閉まった店を見に来てたんだから、相当だろ」
「……はい」
「で、俺は『あります』って言った」
誠司は肩をすくめた。
「何のやる気か聞かずにな。今考えると、意味が分からん」
樹は、その話をどう受け止めればいいのか分からなかった。
「それが、店長になった経緯ですか」
「そうだな。それだけだ」
誠司は帳簿を棚に戻した。
「だから、決めた覚えはないんだよ。聞かれて、返事しただけだ」
「その人は」
樹が聞くと、誠司は少し黙った。
「いないよ、もう」
それ以上は言わなかった。
樹も、それ以上は聞かなかった。
カウンターの奥から、千夏が顔を出した。
「店長、そんな話したことあったか」
「ないな」
「なんで今日したんだ」
「聞かれたからだよ」
誠司はあっさり言った。
「聞かれなきゃ言わん。別に隠してるわけでもないけどな」
千夏が「ふうん」と言って引っ込んだ。
樹はグラスを棚に並べながら、考えていた。
この人は、やりたいことがあってここに来たわけではない。何もない状態で毎週通って、聞かれて、返事をした。それだけだ。
それでも今、この店を回している。
「樹」
帰り際、千夏が声をかけてきた。
「はい」
「私も白紙で出したことあるぞ、それ」
樹は顔を上げた。
「進路調査ですか」
「三年の冬。何も書かずに出した」
「……理由、聞いていいですか」
「駄目」
あっさり断られた。
「言わねえよ、そんなもん」
「はい」
「ただな」
千夏は暖簾を外しながら続けた。
「書かなかったことは、後悔してねえ」
「そうですか」
「書けないときに無理に書いたら、たぶん嘘になる。嘘書いて、その通りにならなかったら、二回がっかりするだろ」
千夏は暖簾を畳んだ。
「一回で済ませとけ」
樹は、その言い方に少し笑った。
家に帰ると、居間の電気がついていた。
父が縁側で道具を磨いている。母は炬燵を出そうか迷っている様子で、押し入れの前に立っていた。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま。まだ九月だよ、それ」
「そうですねえ。でも、去年は九月に寒い日がありました」
母はあっさり押し入れを閉めた。
樹は鞄から紙を出して、テーブルの上に置いた。
「これ、学校で」
母が覗き込んだ。
「進路希望ですね」
「うん」
「書きました?」
「まだ」
「そうですか」
母はそれだけ言って、台所に行った。
しばらくして、麦茶を持って戻ってきた。
「樹くん」
「うん」
「書けないなら、書かなくていいですよ」
「怒られるよ、先生に」
「怒られたら、私が謝りに行きます」
母は座って、麦茶を一口飲んだ。
「私も、若い頃は何も決めていませんでした」
「え」
「二百年くらい、何もしていませんでした」
樹は麦茶を吹き出しそうになった。
「二百年」
「はい。森にいて、木を見ていました」
「何もせずに?」
「何もせずに」
母は平然としている。
「それで、あるとき町に出てきました。理由は忘れました。たぶん、なんとなくです」
「……なんとなく」
「はい」
母は湯呑みを両手で包んだ。
「そこでお父さんに会いました」
縁側の父の手が、一瞬止まったのが分かった。
「二百年何もしていなかったので、あの日に間に合いました」
樹は、母の顔を見た。
「……間に合った?」
「はい。もし私が何かをしていたら、あの日、あの穴の前を通っていません」
母は笑った。
「決めていなかったから、決まりました」
樹は、しばらく何も言えなかった。
部屋に戻って、樹は紙を机の上に広げた。
進学 就職 その他。
第一希望、第二希望、第三希望。
備考欄。
三十分ほど、鉛筆を持ったまま座っていた。
書けることは、何もなかった。将来なりたいものも、行きたい学校も、思いつかない。
樹は、備考欄に鉛筆を置いた。
早坂の言葉を思い出した。嘘書くよりよくない?
千夏の言葉も思い出した。一回で済ませとけ。
樹は書いた。
――まだ分かりません。
――でも、人の話を聞くのは苦にならないです。
二行目を書いてから、樹は自分でも驚いた。
書くつもりのなかった一行だった。
消そうかと思って、消しゴムを持った。
やめた。
嘘ではなかったからだ。
窓の外で、九月の虫が鳴いていた。夏はもう終わりかけている。
樹は紙を鞄にしまって、電気を消した。
【境見町 異文化生活マナー帳 第三十二条より】
エルフの生徒に「将来の夢は?」と聞くと、答えるまでに数日かかることがある。
せかさないこと。
今回もお読みいただきありがとうございます♪
進路希望調査。
第一希望から第三希望まで、全部空欄で提出した樹くん。
白瀬さんは「図書館司書」と書きました。
本は長く残るから。
……なるほど、確かに。
二千年の人が選ぶ理由としては、しっくりきますね。
千夏さんも、かつて白紙で出した人です。
でも、理由はまだ樹くんに言わないみたいです。
そして樹くんのお母様、相原アイリスさん。
二百年、森で木を見ていた?なんで?
何もしていなかったことにも成果があったんですね。
そして樹くん、備考欄に二行書きました。
一行目は本当のこと。
二行目は、書くつもりのなかったことでしたが、ふわっとしていても、自分のことを言語化できたようですね。
次回、秋です。




