第18話 在りし日の罪
阿久津と由伸は、同じ小学校の同じ教室にいながら、ほとんど関わりのない二人だった。
仲が悪かったわけではない。
そもそも、まともに言葉を交わした記憶すらほとんどない。
だが、互いのことはなんとなく意識していた。
教室の中心で大声を上げるわけでもなく、誰とでも打ち解けるわけでもない。
輪の外側に立ち、集団の空気にうまく馴染めず、周囲から薄く距離を置かれている――そんな似た匂いを、阿久津は由伸の中に感じ取っていた。
由伸はいつも俯きがちで、休み時間も机に向かったままか、一人でぼんやりしていることが多かった。
誰かと楽しげに話している姿を見たことはほとんどない。
話しかけられれば返事はするが、その声は小さく、反応も鈍い。
悪い奴ではないのだろうが、関わっていて面白い人間ではなかった。
一方の阿久津もまた、決してクラスで好かれている側ではなかった。
気に入らないことがあればすぐ顔に出るし、子どもらしい無邪気な馴れ合いが苦手だった。
露骨に嫌われているわけではない。
けれど、積極的に仲間へ入れようと思われるタイプでもなかった。
だから二人は、少しずつ同じ位置へ追いやられていった。
クラスの中心にいるような連中から見れば、由伸も阿久津も似たようなものだったのだろう。
大人しくて、反撃してこなさそうで、少しからかえば面白い反応をする。
そういう、“いじっても安全な相手”として。
最初は本当に軽いものだった。
すれ違いざまに小さく笑われる。
持ち物を勝手に覗かれる。
少し変わった受け答えを真似される。
名前ではなく、変な呼び方をされる。
そんな、よくある子どもじみたからかいが、少しずつ二人へ向けられるようになった。
きっかけは、たぶん誰かにとっては冗談ですらなかったのだと思う。
昼休み、教室の後ろで騒いでいたリーダー格の男子が、笑いながら言ったのだ。
「なあ、阿久津と田中、どっちがウザい?」
その一言に、周りがどっと笑った。
質問の形をしてはいたが、答えに意味はなかった。
誰かを笑いものにして、その場の空気を回すための、ただの遊びだったのだろう。
「どっちもウザいだろ」
「わかる」
「なんか同じ種類って感じ」
そんな言葉が飛び交うたび、教室に笑いが広がる。
由伸は自分の席で固まり、阿久津は睨み返したい衝動を飲み込んでいた。
ここで怒れば、余計に面白がられるだけだと分かっていたからだ。
だが、そういう“ちょっとしたいじり”は、一度始まると簡単には止まらない。
教科書に落書きされる。
筆箱を隠される。
掃除の班であからさまに邪魔者扱いされる。
何か失敗すれば笑われ、黙っていても話題の種にされる。
阿久津と由伸は、気づけば教室の中で都合よく笑いものにされる存在になっていた。
そんな日々の中で、阿久津はぼんやりと思っていた。
由伸も自分と同じなのだと。
あいつも怖いのだろう。
あいつも嫌なのだろう。
表に出さないだけで、教室の空気に怯えているのだろう。
別に仲間意識があったわけではない。
助け合おうと思っていたわけでもない。
それでも、少なくとも“同じ側の人間”ではあると、阿久津は勝手にそう思っていた。
だから、その認識が崩れた日のことを、阿久津は今でも忘れられない。
その日も、いつものように標的は阿久津だった。
机の中身を勝手に漁られ、ノートを取り上げられ、字が汚いだのと笑われる。
阿久津は机に手をつきながら、ただ耐えていた。
その時、リーダー格の男子がふと顔を上げ、由伸の方を見た。
「なあ田中、お前も思ってたろ?」
教室の空気が変わる。
さっきまで笑っていた連中が、一斉に由伸の方を向いた。
由伸の肩がびくりと揺れる。
逃げ場なんてない。
そんなことは、見ている阿久津にもすぐ分かった。
「阿久津って、キモいよな?」
笑いながら言う。
だが、その声音には明らかな圧があった。
ここでどう振る舞うかで、お前の立場を決めてやる。そういう意味が、子どもでも分かるほど露骨に含まれていた。
由伸はすぐには答えなかった。
口を開きかけて、閉じる。目が泳ぎ、呼吸が浅くなる。追い詰められているのが、遠目にもはっきり分かった。
周りが囃し立てる。
笑い声が重なり、教室全体が由伸の返答を待っていた。
阿久津は、その時まだ少しだけ期待していた。
何も言えなくてもいい。
せめて黙っていろ、と。
笑われることが怖くても、ここで自分を切り売りしなければ、それでいい。
そう思っていた。
だが、由伸は――笑った。
心からの笑みではなかった。
怯えをごまかすような、ひきつった愛想笑いだった。
今にも泣き出しそうな顔で、無理やり口元だけを歪めたような、弱々しい笑いだった。
それでも、阿久津には十分だった。
ああ、こいつはこっちを切るんだ、と。
その瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
「だよな? じゃあ証明しろよ」
リーダー格の男子は、阿久津の机からノートを取り上げ、そのまま由伸の前へ突きつけた。
「キモいと思うなら、これ破って捨てろよ。そしたらお前、もうこっち側でいいから」
教室の空気がざわつく。
それは命令であり、どちら側につくのかを試す行為だった。
由伸はノートを見つめたまま動けずにいた。
両手を出しかけて、止める。
唇が震え、顔は真っ青だった。
やれと言われている。
やらなければ次は自分が標的になる。
そんなことは、誰が見ても明らかだった。
阿久津は、その数秒を異様に長く感じていた。
けれど、由伸はノートを受け取った。
震える手で表紙を掴み、ぐしゃりと歪ませる。
そして、ゆっくりと、だが確かに、一枚ずつページを破っていった。
紙が裂ける音が、やけにはっきり耳に残った。
由伸の手は震えていた。
顔も引きつっていた。
やりたくてやっているわけではないことは見れば分かった。
それでも、止まらなかった。
最後には、ぐしゃぐしゃになったノートを窓から放り捨てた。
教室が爆笑に包まれる。
リーダー格の男子が由伸の肩を叩き、「やるじゃん」と笑った。
由伸は笑い返せてすらいなかった。
ただ、ひどく青い顔で立ち尽くしていた。
だが、そんなことは阿久津には関係なかった。
見捨てられた。
それが全てだった。
同じ側にいると思っていた人間が、自分だけ助かるためにこちらを差し出した。
ノートを破る手つきも、窓から投げ捨てる動きも、その時の教室の笑い声も、阿久津の中に焼きついた。
あの瞬間から、由伸は“同類”ではなくなった。
阿久津にとっては、自分を踏み台にして生き延びようとした裏切り者だった。
そこから、由伸へのいじりは目に見えて減った。
完全に消えたわけではない。
けれど少なくとも、クラス全体で一緒に笑われる立場ではなくなった。
その代わり、阿久津への悪意は一気に濃くなっていった。
持ち物を壊される。
給食に異物を混ぜられる。
トイレに閉じ込められる。
上履きを捨てられ、背中を蹴られ、陰で笑われる。
ほんの少し前まで“からかい”の範囲に収まっていたものが、あっという間に本物のいじめへ変わっていった。
いじめは、始まる時よりも深くなる時の方が早い。
誰か一人が踏み込めば、次の一人はもっと踏み込める。
反撃されないと分かれば、人は簡単に残酷になれる。
阿久津はその渦中で、一つのことに気づいた。
いじめられない方法がある。
我慢することでも、先生に頼ることでもない。
強くなることでも、優しくなることでもない。
もっと単純で、もっと醜く、そして圧倒的に有効な方法だ。
――いじめる側に回ればいい。
きっかけは、本当に限界だったのだと思う。
いつものようにリーダー格の男子が机を蹴り、笑いながら髪を掴んできたその瞬間、阿久津の中で何かが切れた。
立ち上がり、考えるより先に足が出た。
顔面への蹴りだった。
鈍い感触が足先に伝わる。
男子は何が起きたのか理解できないまま後ろへ倒れ、数秒遅れて鼻血を噴き出した。
教室が静まり返る。
阿久津は反撃を覚悟していた。
全員で押さえつけられるか、もっと酷いことになるか。
そういう展開を当然のように想像していた。
だが、誰も動かなかった。
みんな、怯えていた。
反撃されないと思っていた相手が、本気で殴り返してきた。
たったそれだけで、教室の力関係は拍子抜けするほど簡単に崩れた。
その時、阿久津は理解した。
こいつらは強いのではない。
ただ、反撃してこない相手を囲んでいただけだ、と。
安全圏にいると思い込んでいたから、好き放題できていただけなのだと。
そこから立場は、あっけないほど簡単に逆転した。
阿久津は容赦しなかった。
一度暴力を振るえば、相手は引く。
二度怒鳴れば、周囲は顔色を窺う。
三度徹底的に痛めつければ、もう誰も逆らわない。
恐怖は空気より早く広がる。
子どもの狭い教室では、それだけで十分だった。
昨日まで笑っていた連中が、今日は阿久津の機嫌を窺う。
かつてのリーダー格は、もはやリーダーではなくなった。
代わりに、その場所へ座ったのが阿久津だった。
それは、あまりにも脆い力関係の上に成り立った支配だった。
友情も尊敬もない。
あるのは、誰が一番怖いかだけ。
けれど、阿久津にとってはそれでよかった。
少なくとも、今度は自分が笑われる側ではないのだから。
そして、次に誰へ矛先を向けるかとなった時、迷う理由はなかった。
田中由伸。
あの日、自分を切り捨てた人間。
ノートを破り、窓から捨て、クラスの笑いを取った人間。
自分だけ助かるために、こちらを差し出した人間。
許せるわけがなかった。
阿久津は由伸を標的にした。
最初は肩をぶつける、持ち物を隠す、陰で笑うといった程度だった。
だが、それでは足りなかった。
あの日自分が味わった感情は、そんな生ぬるいもので釣り合うはずがない。
だから周囲も巻き込んだ。
恐怖で支配された集団は、阿久津に逆らわないためなら、次の標的をいくらでも叩く。
かつて阿久津へ向けられていた悪意が、今度はそっくりそのまま由伸へ流れていった。
由伸は抵抗しなかった。
いや、できなかったのだろう。
もともと気が弱く、強く言われるだけで萎縮するような人間だった。
笑われれば縮こまり、責められれば黙り込む。
そんな由伸を見ていると、阿久津の中の怒りは妙な形で膨らんでいった。
ざまあみろ、と思う。
その一方で、見ていると苛立ちもした。
こいつは一度、自分を見捨てた。
ならば今さら被害者面する資格なんてない。
そう自分に言い聞かせながら、阿久津は由伸をさらに追い詰めていった。
だが、本当のところ、それは復讐というよりも、八つ当たりに近かったのかもしれない。
裏切られた痛みも、弱かった自分への嫌悪も、全部まとめて由伸へぶつけていた。
由伸を痛めつけている間だけ、自分がかつて“捨てられた側”だったことを忘れられたからだ。
いじめは続いた。
教科書を隠し、ノートを破り、わざと恥をかかせ、クラス全体で無視する。
時には手も出た。
由伸は日に日に目を伏せるようになり、声を失い、教室の中でますます小さくなっていった。
やがて、由伸は学校へ来なくなった。
最初は数日だった。
そのうち一週間になり、二週間になり、やがてクラスの中でも話題にされなくなった。
子どもたちは残酷なほど切り替えが早い。
昨日までの標的が消えれば、次の空気へ簡単に移っていく。
けれど、阿久津だけは妙にその不在が気になった。
由伸はそのまま戻ってこなかった。
長く引きこもるようになったらしい、と後で人づてに聞いた。
学校にも来ず、人とも会わず、ずっと家にこもっているのだと。
何をしているのかと思えば、ゲームだのネットだの、そんなものに逃げ込んでいるらしい。
その時の阿久津は、鼻で笑った。
やっぱり弱い奴だ、と。
現実に向き合えず、仮想の世界へ逃げるしかない臆病者だと、そう思おうとした。
阿久津の記憶に残る由伸は、最後まで何も言い返せず、俯いたまま消えていった少年だった。
だからこそ、阿久津は内心で強く動揺したのだ。
あの時、田中由伸が、別の形で生き延びていたことに。
そして、自分の知らない場所で、自分とは違う種類の強さを手にしていたことに。




