第17話 阿久津
北田小学校の校庭は、もう避難所とは呼べない有様だった。
つい数時間前まで、人々が恐怖を抱えながらも何とか身を寄せ合っていた場所は、今や悲鳴と怒号とうめき声が幾重にも絡み合う地獄へ変わり果てている。
体育館で安置されていた遺体がリビングデッドとして次々に起き上がり、逃げ惑う避難民へ噛みつき、倒れた者がまた新たな死者として立ち上がっていく。
混乱は混乱を呼び、感染は感染を広げ、校庭全体が底の抜けた奈落みたいに崩れていく音が、由伸にははっきりと感じられた。
リビングデッドとて、無敵ではない。
弱点は頭部だ。
頭蓋を破壊すれば、活動を止められる。
それはUUOで何度も叩き込まれた知識だった。
けれど、知っていることと、実際にこの状況で実行できることはまるで違う。
校庭には避難民が多すぎた。
泣き叫びながら走る者、立ち尽くす者、倒れた家族を起こそうとする者。
そこへリビングデッドが雪崩れ込んでいる。
由伸が得物としている鎖は、本来なら間合いを支配できる強力な武器だ。
だが人が密集したこの場所では、その長所がそのまま危険にも変わる。
少し角度を誤れば、生きた人間の頭や肩を打ち砕きかねない。
フレンドリーファイア。
そんな単語が脳裏をよぎる。
プレイヤーの攻撃だから味方には当たらない――そんな都合のいい補正が、この現実に残っているとは思えなかった。
むしろ、この世界は嫌になるほど律儀に現実とゲームを混ぜ合わせている。
モンスターの攻撃は本物の痛みを伴い、噛まれた人間は感染し、死体はそのまま残る。
ならば、こちらの攻撃だって人に当たればただでは済まないはずだ。
腐ってもここは現実だ。
だからこそ由伸は、鎖を振るうたびに軌道を絞らなければならなかった。
広く薙ぎ払うことも、勢い任せに振り回すこともできない。
普段なら何でもないはずの一手一手に、余計な神経を使わされる。
敵だけを正確に撃ち抜くために、肩にも肘にも余計な力が入る。
目の前で一体のリビングデッドが、転倒した男に覆いかぶさろうとしていた。
由伸は地を蹴り、鎖の先端を最短距離で突き出す。
狙いは、こめかみの少し上だった。
鈍い破砕音。
頭部を打ち抜かれたリビングデッドは、そのまま粒子となって崩れた。
気づけば、さきほど噛まれた老夫婦が、新たなリビングデッドとして起き上がっていた。
変色した皮膚、焦点の合わない濁った目。
先ほどまで痛みに顔を歪めていた老人が、今では獣じみた執着で別の避難民に食らいついている。
妻だった女も同じだった。
腕を押さえて震えていたはずなのに、もうそこに理性の気配は残っていない。
ほんの数分前まで助けようとした相手が、今は別の誰かを噛みちぎっている。
その光景に、由伸は胃の奥がねじれるような感覚を覚えた。
助けられなかった。
いや、もっと言えば、助けられる見込みがほとんどないと知っていた。
噛まれた時点で手遅れに近い。
浄化薬がなければ止められない。
頭では理解していた。
理解していたはずなのに、現実に“変わってしまった”相手を見ると、その知識はひどく残酷に思えた。
老夫婦だけではない。
校庭のあちこちで、噛まれた者たちの顔色が変わり、動きがおかしくなり始めている。
恐怖に震えていた人間が、次の瞬間には加害者へ変わる。
悲鳴が連鎖し、混乱がさらに感染を広げていく。
それにしても――黒原はどこにいるのか。
不意に、その疑問が強く脳裏をよぎった。
あの男も既プレイヤーだ。
由伸ほどではないにせよ、UUOの知識がある。
ショップや安全地帯の仕様を把握していたくらいなのだから、リビングデッドの危険性に気づいていてもおかしくない。
こんな時こそ、あの男の知識と判断力が必要なはずだった。
なのに、姿が見えない。
体育館の中にいたのか、校舎側に回ったのか、あるいは別の避難民を誘導しているのか。
分からない。
見回す余裕もない。
ただ、この混乱の中で既プレイヤーが一人いるかいないかは、あまりにも大きい。
そうだ。
フレンドだ。
フレンド機能があるなら、相手の位置を確認できるかもしれない。
チャットでも通話でもいい。
居場所さえ分かれば合流できる。
少なくとも、今の場当たり的な対処よりはましになるはずだ。
由伸は鎖を握ったまま、意識をウィンドウへ向けようとした。
戦闘中に開くのは危険だが、立ち止まっているよりはいい。
その瞬間だった。
視界の隅に、一人の人物が映り込んだ。
阿久津。
由伸の呼吸が、一瞬止まった。
阿久津は校門の方へ向かっていた。
逃げるつもりなのだろう。
顔を引きつらせ、半狂乱の形相で門の外へ出ようとしている。
だが、その腕を一体のリビングデッドに掴まれていた。
噛みつかれそうになっているのを、必死に押さえている。
片手で相手の顎を押し返し、もう片方の腕で振り払おうとしているが、体勢が悪い。
このままでは長くもたない。
しかも、その背後から別の一体がゆっくりと迫っていた。
あれでは時間の問題だ。
数秒後には噛まれている。
そう断言できるほど、状況は明白だった。
ドクン、と由伸の心臓が大きく跳ねた。
周囲の喧騒が、急に遠のいた気がした。
悲鳴も、うめき声も、足音も、すべてが厚い膜の向こうへ押しやられたようにぼやける。
時間だけが、異様にゆっくり流れ始める。
助けようと思えば、助けられる。
距離はそこまで遠くない。
鎖の間合いに入るまで数歩。
今なら間に合う。
後ろから迫っている個体ごとまとめて頭を砕けば、阿久津だけは救えるかもしれない。
でも――。
胸の奥がずきりと痛んだ。
嫌でも思い出してしまう。
小学校の教室、笑い声、机を囲む視線。
自分の持ち物が投げられ、隠され、踏まれたあの日々。
何か言い返そうとしても言葉が喉で潰れ、代わりに笑われたこと。
助けを求めることすらできず、ただ自分が悪いのだと思い込んだ時間。
由伸が学校へ行けなくなった原因の、その中心にいた男。
五年。
いや、それ以上だ。
失った時間は、単なる年数では測れない。
何も変えられないままゲームへ逃げ込んだ夜。
自己嫌悪で息が詰まり、将来を考えるたびに目を逸らした日々。
もう戻ってこない。
青春だとか学校生活だとか、そんなきれいな言葉だけでは足りない。
自尊心も、時間も、人と関わる感覚も、少しずつ削られていった。
由伸の喉が、からからに乾いた。
あの時と似ている。
助けようと思えば、助けられる状況。
そして同時に、助けなくてもいい理由が、痛いほどある状況。
阿久津の顔が、苦痛と恐怖で歪んでいる。
その表情は、昔、教室で見せていた余裕たっぷりの笑みとは似ても似つかない。情けなく、必死で、みっともない。
見れば見るほど、ざまあみろと思ってしまう。
同時に、そんな感情を抱く自分自身にも嫌悪が湧く。
助けたいのか。
見捨てたいのか。
答えがぐちゃぐちゃに絡まって、由伸の足を縫い止めていた。




