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現実世界がVRMMOの世界と融合して、ぐっちゃぐちゃになった。  作者: 猫


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第19話 踏破と衝撃

 視界の端に、一人の男の姿が飛び込んできた。


 阿久津だった。


 由伸の呼吸がそこで止まる。

 時間の流れだけが不自然に引き延ばされ、周囲の悲鳴も足音も、何もかもが一枚膜の向こうへ遠ざかっていく。


 脳裏へ流れ込んできたのは、忌まわしい記憶だった。

 ずっと後悔している記憶。

 何度も夢に見た記憶。

 教室の空気、笑い声、逃げ場のない視線、自分の喉が締まり、何も言えなくなっていく感覚。


 あの日、阿久津が標的にされ、由伸もまた教室中の視線へ晒され、そこで由伸は逆の行動を取った。


 助ける側に立たなかった。

 黙って庇うことも、せめて拒絶することもできなかった。

 怖かったからだ。

 自分が次の標的になるのが怖くて、自分だけ助かりたくて、震える手で阿久津のノートを破り、窓から捨てた。


 あれは弱さだった。

 事情があったから仕方ないなどと、由伸は一度も思えたことがない。

 ただ、ひたすらにみじめで、醜くて、思い出すたび胸の奥が焼ける記憶だった。


 そして今、阿久津は由伸に気づいた。

 恐怖で引きつった顔のまま、由伸へ視線を向ける。


 あの時の目だ、と由伸は思った。

 助けを求める目。

 見捨てられたくないと無言で訴える目。


 あの時、自分はその視線を受けながら逆のことをした。

 助けるのではなく、切り捨てた。

 あの時からずっと、由伸は心のどこかで止まったままだった。


 ゲームの中でどれだけ強くなっても、どれだけランキング一位になっても、あの教室でノートを破った自分だけは、ずっと足元へしがみついてきた。


 また同じことをするのか。

 また、後になって何年も自分を責め続ける選択をするのか。


 由伸の胸の内側で、暗い感情と、か細い良心がぶつかり合う。

 ざまあみろ、と一瞬でも思ってしまう自分がいる。

 そう思うこと自体が間違いだとは言い切れないほど、阿久津に奪われたものは大きかった。


 学校へ通えなくなった時間、自尊心、人と関わる感覚。

 何もかも壊された。

 だから見捨ててもいい理由は、痛いほどあった。


 けれど、だからこそ由伸は理解してしまう。

 ここで見捨てたら、自分は一生、あの時の自分から抜け出せない。

 阿久津を救うかどうか以前に、これは由伸自身が過去の自分とどう向き合うかの問題だった。


 もう嫌だった。

 弱さに屈して誰かを差し出した自分を、何年も胸の底へ飼い続けるのは。

 トラウマに首を絞められたまま生きるのは。

 あの時と同じ人間だと、自分で自分へ証明し続けるのは。


 由伸は唇を噛み、鎖を強く握り込む。

 喉の奥で引っかかっていた何かを無理やり飲み下すみたいに息を吸い込み、次の瞬間には地を蹴っていた。


 使うのは、『チェーンストライク』。

 本来ならまだ正式に取得していないスキルだった。


 だが、UUOで嫌というほど見てきた。

 発動時の理屈も、身体の使い方も、間合いも、由伸の中には染みついている。

 鎖の遠心力を一点へ収束させ、先端へ貫通力を集中し、投擲と刺突を融合させる中距離技。


 スキル欄にはない。

 システムアシストもない。


 今のこれは、長年積み上げた知識と感覚だけで模倣する無茶だった。

 それでも、由伸は躊躇しなかった。

 肩、肘、手首を一直線に連動させ、振るうのではなく撃ち出す。

 頭の中で何千回も描いた軌道を、今度は現実の肉体でなぞる。


 鎖の先端が空気を裂いた。

 鋭い金属音とともに一直線へ伸びた一撃は、阿久津へ噛みつこうとしていたリビングデッドのこめかみを貫き、その勢いのまま背後から迫っていたもう一体の額までも撃ち抜く。


 二つの頭蓋がほぼ同時に砕け、腐った身体は青い粒子となって崩れ落ちた。


 鎖が震え、遅れて由伸の手へ重みが戻る。

 成功した、と思うより先に、全身の力が一気に抜けそうになる。

 技そのものより、この一撃に込めた意味の方が、由伸にはずっと重かった。


 阿久津は尻もちをついたまま、呆然と由伸を見上げていた。

 驚愕に見開かれた目が、由伸から離れない。

 由伸もまた肩で息をしながら立ち尽くす。


 心臓がうるさく、喉は焼けるように熱い。

 それでも、今ここで言わなければならないことだけははっきりしていた。


 ずっと胸の奥で淀み続けていた言葉を、今ここで口にしなければ、一生言えない気がした。


 由伸は荒い呼吸のまま阿久津を見る。

 声は少し震えた。

 それでも目を逸らさなかった。


「あの時……見捨てて、ごめん」


 阿久津はすぐには答えなかった。

 助かった安堵も、怒りも、困惑も、何もかもが中途半端に混ざった顔で由伸を見返し、やがて口元を歪める。


「……今さら何だよ。ヒーロー気取りかよ」


 鋭い言葉だった。

 けれど由伸は、その痛みを拒めなかった。

 拒める立場じゃないことを知っていたからだ。


 あの時の自分がやったことは、それだけの言葉を返されて当然のことだった。

 由伸は低く首を振る。

 呼吸はまだ乱れているのに、言葉だけは驚くほど素直に出てきた。


「許してくれなんて言わない。そんなこと、言える立場じゃないし……たぶん、一生許されなくても仕方ないって思ってる」


 阿久津の眉がぴくりと動く。

 由伸は続けた。

 ここで止まれば、また逃げることになる気がした。


「でも、もう嫌なんだ。怖くて、自分が傷つきたくなくて、誰かを差し出して、自分だけ助かろうとする……あの時の俺のままでいるのが、もう嫌なんだ」


 言葉にすると、胸の奥にこびりついていた泥を少しずつ掻き出されるような痛みがあった。

 楽になるわけではない。

 むしろ、あまりにも生々しくて、由伸自身が自分の過去を改めて突きつけられる感覚だった。


「謝ったからって、何も無かったことにならないのは分かってる。でも……それでも、あの時の俺と決別したいんだ」


 阿久津の喉がわずかに鳴る。

 怒っているのか、笑いたいのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない顔をしていた。


「勝手なこと言ってんじゃねえよ……」


 掠れた声だった。

 棘は残っている。

 けれど、その奥には混乱と疲労も滲んでいた。


「分かってる」


 由伸は即座に答えた。


「勝手だってことも、都合がいいってことも、全部分かってる。でも……今度は、見捨てたくなかった」


 その一言を口にした瞬間、由伸の胸は鋭く痛んだ。

 赦されたわけじゃない。

 過去が消えたわけでもない。


 これで全部が清算されるはずもない。

 それでも、あの時とは違う選択をしたという事実だけが、由伸をかろうじて立たせていた。


 そんな時だった。


「あぁ……ぁぁあ……」


 背後から、湿った呻き声が這うように聞こえた。

 妙に耳に残る声だった。

 ただのモンスターの唸りとは違う。


 低く濁っているのに、どこか引っかかるものがある。

 由伸は反射的に振り向く。

 そして、その姿を見た瞬間、思考が完全に止まった。


 服装に見覚えがあった。

 髪にも、体格にも、立ち方にも覚えがある。

 けれど脳が理解を拒んでくる。


 違う。

 そうであるはずがない。

 そうであってほしくない。


 ずっと探していた。

 スーパーにもいなかった。

 避難所の中も探した。

 どこかで無事に生きていると、そう信じたかった。


「え……」


 喉から漏れた声は、ほとんど空気の震えでしかなかった。


 腐敗しかけた顔。

 濁った目。

 崩れた口元。


 なのに、分かってしまう。

 分かってしまうからこそ、脳が真っ白になる。


 運命というものがあるなら、どうしてここまで容赦がないのか。

 どうして、次から次へと、心を壊すものばかり差し出してくるのか。


 そのリビングデッドは口を震わせた。

 濁った喉の奥から、掠れた音が漏れる。


「ヨ、シ…………」


 由伸の全身から血の気が引いた。

 呼ばれている。

 名前を。


「ヨシ……ノ、ブ……」


「う、嘘だ……」


 ずっと探していた人だった。

 怖くて、会いたくて、無事でいてほしくて、それでも最悪の想像だけはずっと頭の外へ追いやっていた相手だった。


 それは、由伸の母親、田中恵子だった。

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