第11話 フレンド
駐車場の片隅で、由伸と佐奈は肩を並べてリンゴジュースを飲んでいた。
手のひらに伝わるボトルの心地よい冷たさ。
喉を通り抜ける甘酸っぱい味が、乾ききった口内と疲れた身体に染み渡っていく。
隣では、佐奈が両手でペットボトルを包み込むように持ち、こくりと喉を鳴らした。
「体が……少し楽になったような」
佐奈の頬にはわずかに血色が戻り、さっきまで張り詰めていた表情も少し和らいでいる。
システム的にHPが回復しただけでなく、心の疲弊もいくらか和らいでいるようだった。
「よかった」
短く返しながら、由伸は駐車場全体へ目を向けた。
数百人はいる避難民たちが、それぞれ思い思いの場所で不安を抱えながら身を寄せていた。
車にもたれかかって座り込む者。
家族で身を寄せ合う者。
スマートフォンを何度も見ては絶望したように首を振る者。
子どもの泣き声が断続的に響き、大人たちが押し殺した不安の声が幾重にも重なり合って、重苦しいざわめきになっていた。
「こんにちは、ちょっといいかな」
不意に、頭上から明るい声が降ってきた。
由伸と佐奈は反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
最初は逆光で輪郭しか見えなかったが、相手が少し身をずらしたことで、爽やかな笑顔がはっきり浮かび上がる。
年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。
ワイシャツの袖を肘まで捲り上げている。
清潔感のある外見で、この異常事態の中にあっても身だしなみは妙に整っていた。
口元には微笑みを浮かべている。
だが、どこか人工的な印象もあった。
営業スマイルを完璧に身につけた、プロのビジネスマンのような顔だ。
「こ、こんにちは」
由伸と佐奈は慌てて立ち上がりながら、ぎこちなく挨拶を返した。
由伸の声は緊張で少し震えてしまう。
突然話しかけられ、心の準備がまるでできていなかった。
佐奈も戸惑っているらしく、ペットボトルを握る手にわずかに力がこもっていた。
男はその様子に気づいたのか、両手を軽く上げて無害さを示す。
「ああ、いきなり話しかけてごめん」
丁寧に頭を下げてから、人懐っこい笑顔を見せた。
「ぼくは黒原啓二。どこにでもいる普通の営業マンなんだけど……外回りの最中に世界がこんなふうに変わっちゃってね」
黒原と名乗った男は、苦笑しながら肩をすくめる。
「仕事がなくなったのはラッキーだけど、こんな理由じゃ困ったもんだよ」
親しみやすさを前面に出した話し方だった。
だがそれと同時に、相手を警戒させないよう言葉を慎重に選んでいる感じもあった。
「……俺は、田中由伸です。こっちは浅田佐奈さん」
由伸がそう紹介すると、佐奈は小さく会釈した。
「二人ともよろしく。にしても、すごいよね。このスーパー。本当にゲームになったみたいでさ」
「そう……ですね」
佐奈が遠慮がちに答える。
まだ完全には警戒を解いていない。
少し後ろに下がるような位置取りにも、それが表れていた。
黒原は空気を読んだのか、さらに柔らかい笑みを浮かべた。
「なんだか君たち、他の人と違って落ち着いてるなって思って声をかけたんだけど……迷惑だったかな?」
「い、いや、そんなことないです」
慌てて否定すると、黒原はほっとしたように眉を下げる。
「ならよかった」
そう言ってから、駐車場全体へちらりと目をやった。
「周りを見てみなよ。みんな焦ってる。顔に出てる。でも、由伸君は少し違った。もちろん緊張はしてるんだろうけど、それでも状況を見て考えてる感じがした。少なくとも、落ち着いて話せる相手かなって思ってね」
その言葉に、胸の奥がすっと冷えた。
観察されている。
しかも、かなり正確に。
たしかに由伸は、ほかの避難民ほど取り乱してはいない。
ゲーム知識があるからだ。
UUOのシステムを知っているぶん、恐怖の正体をある程度言葉にできる。
だが、それをこの短時間で見抜くのか。
思わず黙り込んだ由伸に、黒原は少しだけ声を潜めた。
「それに、声をかけた理由はもう一つある。レベルだよ」
「……レベル?」
「うん。君、レベル5だろ?」
心臓が跳ねた。
「失礼だけど、勝手にステータスを見させてもらった。他の人はだいたいみんなレベル1だ。なのに君だけ5。つまり、モンスターを何匹か倒してるってことだよね?」
見抜かれていた。
どう返すべきか、一瞬わからなくなった。
レベルが高いことを隠しても遅い。
だが、正直に戦闘経験を明かしすぎるのも危険だった。
この世界では、情報そのものが武器になる。
「……たまたまです」
結局、そんな曖昧な返答しかできなかった。
黒原は一瞬だけ、訝しむように目を細めた。
だが、すぐにいつもの営業スマイルへ戻る。
「まあ、たまたまでもモンスターを倒せるのはすごいよ。普通の人にはなかなかできない」
穏やかな口調だった。
だが、完全には信じていないことも分かる。
当然だ。
大半がレベル1の中で、レベル5まで上がっている人間が「たまたま」で済むはずがない。
それでも無理に追及してこないところは助かった。
黒原は少し距離を詰めると、さらに声を落とした。
「ところで、頭の上に出た数字には気づいた?」
「スーパーに入った時に表示された数字のことですよね?」
そう返すと、黒原は満足そうに頷いた。
「そう。それ、どうやらこのスーパーの滞在可能時間らしい。長くても一時間ってところかな」
「滞在可能時間……?」
佐奈が不安げに聞き返す。
黒原は駐車場の避難民たちを顎で示した。
「この時間がゼロになると、店から強制的に締め出される。ここにいる人たちは、みんな一度スーパーから出された人たちなんだよ」
由伸と佐奈は、改めて周囲を見渡した。
たしかに、みんなどこか諦めたような顔をしている。
安全だった店内から追い出され、いつ危険が降ってくるか分からない駐車場で時間を潰すしかないのだ。
「それって……」
佐奈が不安そうに口を開く。
「一度締め出されたら、もう二度と入れないんでしょうか……?」
「いや、そこまではないと思う」
黒原は首を横に振った。
「ただ、少なくとも今日中は無理だろうね。たぶん日付が変われば、また入れるようになる」
その推測は、由伸が考えていた内容とも一致していた。
「おそらく、店の中はモンスターに襲われない安全地帯なんでしょうね」
由伸が言うと、黒原は「その通り」とでも言いたげに頷いた。
「だからこそ長居はさせない。一日に一時間だけ安全を与えて、それ以外は危険地帯で生活させる。なかなか趣味が悪いシステムだよ」
趣味が悪い。
まさにその通りだった。
連中の目的は、人類の行動パターンを観察することだ。
安全地帯へ永続的に逃げ込まれたら、多くの人間がそこへ籠もってしまう。
観察対象としては価値が下がる。
だから時間制限を設け、人間を強制的に危険な場所へ押し出す。
檻から実験動物を出し、どう動くか眺めるために。
由伸が嫌悪感に眉をひそめていると、黒原が軽く手を叩いた。
「ちなみに、現実のお金をゴールドに換えることもできるみたいだよ。ぼくもさっき、手持ちの現金でいろいろ試してみた」
「現金を……?」
「うん。なんでそんなに詳しいんだって顔してるね」
黒原はくすりと笑う。
「実は僕、UUOの既プレイヤーなんだ。休日によく遊んでてね」
「そ、そうなんですか」
思わず声が漏れた。
既プレイヤー。
その一言だけで、警戒と同時に、ほんのわずかな安心感も生まれる。
この狂った世界のルールを、少なくとも一部は共有できる相手だからだ。
黒原はその反応を見て、少しだけ表情を和らげた。
「少しは安心してもらえたかな?」
「……はい。少しだけ」
本音だった。
ただし、全面的に信用したわけではない。
ゲーム知識があるからこそ分かる。
情報を持つ人間ほど、この世界では危険にもなり得る。
黒原はその温度差も察しているのか、踏み込みすぎずに話を続けた。
「僕が知ってる情報は、まだある。どうやら世界規模で電波障害が起きてるみたいでね。電話もLINEも使えない」
その言葉に、佐奈の顔色が曇る。
「そんな……」
「そして多分、もう復旧しないと思う」
さらりと口にした内容は、あまりにも重かった。
だが、由伸も同意見だった。
これは一時的な通信障害ではない。
インフラそのものが、ゲームシステムへ置き換えられている。
「代わりに、システムウィンドウを使えってことなんだろうね」
「システムウィンドウ……どういうことですか?」
佐奈が首を傾げる。
黒原は慣れた口調で説明した。
「ステータスを開いてみて。声に出してもいいし、心の中で念じてもいい。目の前にウィンドウが出るはずだよ。他人には見えないから安心して」
佐奈は言われた通りに少し目を伏せ、すぐに「あっ」と小さく声を上げた。
「で、出ました……! すごい……」
「その中に、フレンド欄とかパーティ欄とかギルド欄があるはず。そこを使えばメッセージのやり取りができる。通話も可能だよ」
その説明を聞いて、由伸は内心で小さく呻いた。
ああ、そうだ。
そんな機能もあった。
長年ソロプレイヤーを続けていたせいで、完全に頭から抜け落ちていた。
チャットも通話も、由伸にとってはほとんど縁のないシステムだったからだ。
「ここで提案なんだけど」
黒原は、由伸と佐奈を順に見た。
「フレンドにならないか? こんな世界で少人数、しかもその場限りの関係で動くのは危険だ。連絡手段は多いに越したことがないし、協力できる相手は一人でも多いほうがいい」
佐奈がちらりと由伸を見る。
判断を委ねているのが分かった。
由伸は少し考える。
黒原は胡散臭さがまったくないわけではない。
むしろ、愛想が良すぎるぶん逆に怪しい。
だが、既プレイヤーであること、システム理解が早いこと、そして今この場で敵意を見せていないことを考えれば、フレンド登録くらいは受ける価値がある。
少なくとも、情報源は一つ増える。
「……分かりました」
由伸が頷くと、佐奈もそれに合わせて小さく頷いた。
直後、視界の端へ通知が浮かぶ。
『黒原啓二 からフレンド申請が届いています』
佐奈のところにも同じものが届いたらしい。
少し驚いたように目を丸くしていた。
由伸は承諾ボタンを押した。
「これでいつでも連絡できる」
黒原がにこやかに言う。
「これからは遠慮なく頼ってくれ。もうフレンドなんだからさ」
いかにも人当たりのいい言い回しだった。
だが、こういう時には、その軽やかさが案外ありがたい。
重苦しい空気の中で、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「……ありがとうございます」
由伸がそう言うと、黒原は「どういたしまして」と軽く手を振った。
由伸はここで、自分たちの今後について口にすることにした。
「俺たち、これから避難所に行こうと思ってるんです。母を探していて」
「お母さんを?」
「はい。スーパーにいるかと思って来たんですけど、見つからなくて」
黒原は「ああ」と納得したように頷く。
「それなら、近くの学校に避難してる可能性が高いね。北田小学校が災害用の避難所になってるらしい。みんなそこを目指して動いてるって話を聞いたよ」
北田小学校。
この辺りでは一番大きい避難所だ。
母親が無事なら、そこへ向かっていてもおかしくない。
「スーパーより安全なんですか?」
佐奈が尋ねると、黒原はすぐに答えた。
「少なくとも、この駐車場よりはね。ここは全然安全じゃない。店内なら一時間だけは安全だけど、外に出たらただのむき出しの空間だ。バリケードもないし、モンスターが来たらひとたまりもない」
もっともな指摘だった。
店内は安全地帯。
だが、それは制限時間つきの仮初めの保護にすぎない。
ずっと居続けられない以上、最終的には外で拠点を確保するしかない。
そして、この駐車場は拠点にはなり得ない。
「なら、早めに動いたほうがよさそうですね」
由伸が言うと、黒原は満足そうに頷いた。
「うん。そうと決まれば、さっそくパーティを組もうか。ゲーム内と同じ仕様なら、経験値の分配や位置把握なんかでいろいろ得があるはずだ」
再び通知が浮かぶ。
『黒原啓二 からパーティ申請が届いています』
由伸と佐奈はそれを承諾した。
直後、ウィンドウの表示が切り替わり、パーティ欄に三人の名前が並ぶ。
田中由伸
浅田佐奈
黒原啓二
それだけのことなのに、不思議と一人ではないという実感が湧いた。
「これは、ちょっとしたお近づきの印」
そう言って、黒原が操作するような仕草を見せる。
次の瞬間、また別の通知が現れた。
『黒原啓二 からアイテムが送られてきました』
由伸は受け取りを選択する。
アイテムは光の粒子となってインベントリへ収まった。
表示された詳細を見て、思わず目を瞬かせる。
『癒しのあんぱん(つぶあん)
効果:HP小回復+精神状態安定(恐怖・混乱耐性)
優しい甘さがメンタルに効く』
……なんだそれ。
あまりにもゲームじみた説明文に、こんな状況なのに少しだけ力が抜けた。
隣で佐奈も同じものを受け取ったらしく、目をぱちぱちさせている。
「非常食兼、気休めってところかな」
黒原が肩をすくめる。
「精神状態安定って効果、地味に大事だと思うんだ。この世界、たぶん心が折れた人から死ぬから」
軽い調子で口にされた一言は、妙に重かった。
由伸はインベントリ内のあんぱんを見つめる。
たしかにその通りだ。
レベルや装備だけではない。
この世界では、恐怖や混乱に飲まれないこと自体が生存条件になる。
「ありがとうございます」
今度の礼は、さっきより少し素直に口をついて出た。
「いいってこと。先行投資みたいなもんだから」
黒原は冗談めかして笑う。
こうして由伸たちは、既プレイヤーである黒原啓二を加え、三人でパーティを組むことになった。
母を探すために。
そして、この狂った世界を生き残るために。
頼れる仲間を得た安心感と、得体の知れない相手をパーティへ入れてしまった不安。
その両方を胸に抱えたまま、由伸は表示されたパーティ欄を静かに見つめていた。




