第10話 スーパー
由伸と佐奈は、危険に満ちた住宅街を慎重に進んでいた。
「……浅田さん、大丈夫?」
歩きながら、由伸は隣の佐奈を気にかけた。
佐奈の足音が、ときおりわずかに乱れる。
慣れない緊張と恐怖が、足取りを不安定にしているのだろう。
「……うん。ちょっと、心臓がバクバクしてるだけ。大丈夫、ついていける」
返ってきた声は少し震えていた。
それでも、足手まといにはなりたくないという意志がはっきり滲んでいる。
佐奈なりに、この悪夢のような現実に必死についていこうとしていた。
角を曲がったところで、由伸はぴたりと足を止めた。
五十メートルほど先の住宅の庭で、黒い影が蠢いている。
すぐに手で制止の合図を送り、建物の陰へ身を寄せる。
佐奈も動きを察し、無言のまま壁際へ寄った。
影の正体を確かめるため、由伸は慎重に覗き込んだ。
予想どおり、モンスターだった。
ビッグピッグらしき生物が、庭の芝生を嗅ぎ回っている。
ワイルドピッグよりひと回り大きい。
レベルはおそらく5から7。
今の由伸なら、十分に倒せる相手だ。
だが、わざわざ危険を冒して戦う場面でもなかった。
「迂回して行こう」
小声でそう告げ、別のルートを取る。
マップの案内もそれに応じて再設定された。
迂回すれば時間はかかる。だが、今は速さより安全が優先だ。
その後も、モンスターを見つけるたびに道を変えたり、通り過ぎるのを待ったりしながら進んでいく。
二人は足音を殺し、住宅街の裏道を縫うように歩いた。
そうして十分ほど遠回りした末、ようやくスーパーの建物が見えてきた。
だが、目に飛び込んできた光景は予想をはるかに超えていた。
「す、すごい人の数だ……」
スーパーの駐車場は、人で埋め尽くされていた。
数百人はいるだろうか。
老若男女を問わず、大勢の人々が避難してきている。
「……みんなここに避難してたんだね」
住宅街で見かけなかった人々は、ほとんどここへ集まっていたらしい。
駐車場には、軽自動車からワンボックスカー、高級セダンまで、あらゆる種類の車がひしめき合っている。
人々の表情もさまざまだった。
不安そうに空を見上げる老人。泣く子どもを必死にあやす母親。スマートフォンを握りしめたまま通信の復旧を待つサラリーマン。
誰もが困惑し、この異常事態にどう対処すべきか分からないまま立ち尽くしていた。
由伸たちは人の波をかき分けるように進んだ。
通り過ぎるたび、切迫した声があちこちから耳に入ってきた。
「政府は何をしてるんだ!」
「自衛隊はまだかよ!」
「会社に行った夫と連絡が取れないの……」
恐怖と怒りが充満し、駐車場全体が今にも爆発しそうな火薬庫のようだった。
誰もが答えのない疑問を抱えたまま、ただ時間だけが過ぎるのを待っているようだった。
由伸たちがスーパーの入り口へ近づくと、自動ドアが滑らかに開く。
駆動音とともに冷気が漏れ出し、肌を撫でた。
中へ入った瞬間、外の混乱が嘘のように空気が落ち着いている。
だが、その静けさがかえって不気味だった。
その時、視界の右上にデジタル時計のような表示が現れた。
『59:58』
数字が無機質にカウントダウンを刻んでいく。
59分57秒、59分56秒――。
由伸は眉をひそめた。
(なんだ、これ……?)
ゲーム内でもタイマー表示は珍しくない。
だが、何を示しているのかは状況によって異なる。
制限時間か、それとも何かのイベントか。
考えはするものの、今はそれより母親の方が先だった。
店内を見回すと、外の混雑が嘘のように客はまばらだった。
十人ほどの買い物客が、それぞれの用事を済ませている。
まずはレジ周辺を確認する。
だが、カウンターに立っていたのは明らかに異物だった。
スーパーの制服ではない。
現代日本の店内にいるはずのない服装。
茶色のローブをまとい、革のベルトへ小さな袋をいくつも下げた男。
まるで中世ヨーロッパの行商人だ。
「こ、これは……NPCか……?」
強い既視感が脳裏を走る。
UUOで何度も見た、モブ商人のデザインそのものだった。
整った顔立ちはどこか作り物じみていて、瞬きの頻度も、口角の上がり方も、すべてが均一すぎる。
「やあ、いらっしゃい。なにかお探し物でも?」
男が声をかけてきた。
抑揚の薄い親しげな口調。
テンプレートどおりに組まれた接客台詞そのものだった。
佐奈が由伸の袖をきゅっと掴み、怯えたように囁く。
「ねえ、あの店員さん……なんか変じゃない?」
直感は正しかった。
普通の人間なら、この異常事態の中でもう少し不安や動揺を顔に出すはずだ。
だが、目の前の男は世界が変わったことなど最初からなかったかのように平然としている。
由伸は声を落として佐奈へ説明した。
「たぶん、NPCだよ。ゲームの中にいる、プログラムされたキャラクター。人間じゃない」
「……人間じゃ、ないの?」
「うん。コンピューターが動かしてる人形みたいなものだ。見た目は人間でも、決められた役割しかこなさない」
説明を聞いても、佐奈はまだ困惑している。
無理もない。
常識が次々と塗り替えられていく今の状況に、頭が追いついていないのだ。
由伸は店内を隈なく見て回った。
だが、母親らしき姿は見当たらない。
それどころか、従来の店員は一人もいなかった。
なら、バックヤードはどうか。
休憩室や事務所ならいるかもしれない。
そう考えて従業員専用エリアのドアへ近づいた瞬間、視界に警告メッセージが浮かび上がる。
『立ち入り禁止エリアです』
赤い文字で表示されたそれは、明らかにゲームシステムの警告だった。
プレイヤーの侵入を禁じるエリアという扱いなのだろう。
由伸は試しにドアノブへ手をかけてみたが、透明な壁があるように先へ進めない。
「駄目だ……」
物理的な鍵がかかっているわけではない。
システムそのものが進入を拒んでいる。
「由伸くんのお母さん、スーパーには居ないのかな」
「ここにはいないみたいだ。避難所か、それとも別の場所にいるのかもしれない」
努めて冷静に答えながら、由伸は意識を切り替えた。
今は最悪の想像に飲まれている場合ではない。
「せっかくここまで来たんだし……ちょっと飲み物でも買っていこうかな」
「うん、いいね」
気分転換も兼ねて、何か口にしたかった。
戦闘の疲れで喉もからからだ。
飲料コーナーへ向かうと、冷蔵ケースには見慣れた商品が並んでいた。
コーラ、オレンジジュース、お茶、コーヒー。
普段と何ひとつ変わらない顔ぶれだ。
由伸はリンゴジュースのペットボトルを手に取った。
すると、商品の情報を示すウィンドウが視界へ浮かび上がる。
『リンゴジュース 100ゴールド or 100円』
『効果:HP50回復』
「……な、なんだこれ」
商品の横に、ステータスウィンドウが表示されていた。
ただのジュースが、回復アイテムとして機能している。
しかも支払いには円だけでなくゴールドも使えるらしい。
興味を引かれ、由伸は他の商品にも手を伸ばした。
コーラには『HP+MP30回復』。
緑茶には『HP+25』『一定時間 INT+5』。
エナジードリンクに至っては『すべてのステータスが一定時間+15』。
どの商品にも、それぞれ別のゲーム的効果が設定されている。
普通のスーパーが、完全にアイテムショップへ変わっていた。
「すごいな……スーパーの商品がアイテムショップになってる」
さらに見て回ると、肉類には『STR+5』、野菜には『DEF+3』、パンや米のような炭水化物には『HP自然回復』の効果がついていた。
生活に必要な品物のすべてが、ゲームアイテムとして再定義されている。
「……由伸くん、これってどういうこと?」
「……たぶん、食べ物や飲み物が薬みたいな効果を持つようになったんだ。食べたり飲んだりするだけで傷を治したり、体力を回復したりできる」
佐奈は、まだ半信半疑といった表情で聞いていた。
由伸は自分の所持金を確認する。
表示は『217ゴールド』。
ワイルドピッグとコボルト二体を倒した時の報酬だ。
それほど多くはないが、飲み物を二本買う程度なら問題ない。
自分の分と佐奈の分、二本のリンゴジュースを手に取る。
「浅田さんの分も買うから、一緒に飲もう」
「えっ、でもお金は……」
「大丈夫だよ。100円くらいだし」
遠慮する佐奈を制して、由伸はレジへ向かった。
NPCの店員が、相変わらず機械的な笑顔で迎える。
「リンゴジュース二点ですね。合計200ゴールドになります」
会計処理も完全にゲームシステムだった。
現金の受け渡しではなく、所持ゴールドから自動で減算される。
支払いを終えると、『217ゴールド』は『17ゴールド』へ変わっていた。
二人はスーパーの外へ出た。
その瞬間、視界の上に出ていた謎の数字が『44:38』で止まる。
理由は分からなかったが、今は考えるのを後回しにした。
由伸たちは駐車場の端、人の少ない場所へ移動する。
車の陰に並んで腰を下ろし、そこでジュースを飲むことにした。
ペットボトルの蓋を開けると、甘いリンゴの香りが広がった。
見た目は、どこにでもある普通のリンゴジュースと変わらない。
恐る恐るひと口飲んでみる。
口の中に広がったのは、いつもの甘酸っぱい味だった。
HPゲージが減っていないので数値としては分からない。
それでも、喉が潤うのと一緒に疲労感が少し和らぎ、張り詰めていた筋肉がほぐれていく感覚がある。
ゲームの法則が現実へ染み込み、日常のあらゆるものがファンタジーの理屈で動き始めている。
母親の手がかりは掴めなかった。
それでも、生き残るためのルールの一端には触れられた気がした。
佐奈と並んで座ったまま、由伸はこれから先の行動について静かに考えを巡らせていた。




