19. 逃げるは恥じゃない
もう辺りがすっかり暗くなった頃、ファンニはようやく下校し始めた。
無断行動の罰として、学園中を掃除させられていたのだ。
「ハァ……」
思わずため息がこぼれてしまう。
田舎にいる両親は、借金をしてまで自分を学園に送り出してくれた。
その期待に応え、将来は親孝行をするためにも、どんなに辛い境遇でも耐え続けなければならない。そう自分に言い聞かせてずっと過ごしてきたが、張り詰めた糸はいつ切れてもおかしくない状態だ。
「ファンニ、ちょっと今いいかい?」
「え?」
こんな人通りのない夜道で自分に声をかけてくるなんて、どうせまた陰湿な嫌がらせの類だろう。
そう思ったが、聞こえた声はいつもファンニをいじめる連中のものではない。
「誰……ですか?」
恐る恐る誰何してみると、物陰から人が姿を現した。
「あ……」
出てきたのは、今日自分を凶悪な魔物から身を張って守ってくれた上に、大きな怪我まで治してくれた少年だった。
人目をはばかって自分に会いに来たということは、昼間の同伴者に隠れて自分から怪我の治療費を要求されるのではないのか。
そのような疑念がファンニの頭をよぎり、身を固くしてしまう。
ただでさえ少ない仕送りでやりくりし、さらに同級生から所持金を勝手に取られてしまうことも少なくない。教員の目の前でカツアゲが起ころうが、被害者が自分で、相手が貴族の御曹司だとみるや、何事もなかったかのごとく素通りしてしまうのだ。
「…………ボクに、何か用ですか?」
「そう怯えなくてもいいよ。俺は学園の連中みたいに、君に危害を加えるつもりはないから」
「…………」
そんなことを言われても信用できない。
甘言に誘われて痛い目に遭うことだって、以前はよくあった。今はわざわざ誘われることなく強制連行されるが。
「ちょっと疑問に思ったんだよね。何であんな境遇にいるのに、耐え続けられるのか。もしかして、ファンニってドM?」
「ち、違います!」
突拍子もない事を言われ、思わず大きな声が出た。
(しまった。殴られる……!)
ファンニはハッとして身構える。
ところが、少年は手を上げてこない。それどころか、なぜは不思議そうな顔をしている。
「いや、ゴメンゴメン。軽い冗談だよ。……そうか。それなら他に何か、学園に留まるべき理由があるのか」
「…………っ!?」
「図星か。まあいいや、詳しく聞き出そうという気はないよ。……それでファンニ、君はずっとこのままでりつもり?」
何を言いたいのかと、ファンニは少年を見た。
だが、すぐに目を伏せ、細い声で呟いた。
「で、でも、逃げるなんてこと……」
「逃げるのは悪いことじゃないさ」
「…………え?」
きょとんとするファンニを見て、少年は続ける。
「別に逃げること自体は悪いことじゃない。自分が変われとか、環境を変えろとか、そんなのは虐げる側の妄言でしかないんだから。ウサギがオオカミの前から逃げ出したって、誰も文句言ったりしないでしょ」
「…………」
ただ、辛い環境を逃げ口上にして、その他諸々まで放棄して怠惰に走るのはどうかと思う。
「俺は学校が嫌だったから逃げ出したんだ。君も辛いなら、ずっと我慢してないで出ていけばいいじゃん」
「でも…………。でも、お父さんとお母さんたちのためにも、ここで頑張らなきゃ……!」
ファンニの小さな双肩には、家族の期待と未来がのしかかっているのだ。
背負うものがなかった少年とは違う。
「ファンニ、学園でいじめられてると君の両親が知ったら、それでも学園に残るように言うと思うかい?」
そんなことはないだろう。
自分が家を発つ時、母は「辛くなったらいつでも帰っておいで」と言って送り出してくれた。
だが、遠く離れた場所にいる母を心配させるようなことは、自分にはできない。自分さえ我慢していれば、全部丸く収まるんだ。
「なぁ、ファンニ。君は何のために学園に来たの?」
「…………それは、偉くなって、お父さんとお母さんに楽してもらうためです」
「うん、それは間違ってはない。息子として大切なことだよ」
(息子……?)
勘当されたドラ息子には不可能なことだがな。
だが、少年は我が意を得たりとばかりに、瞳を光らせた。
「じゃあさ、どうしたら家族に楽させることができる?」
「それは、ボクが偉くなって……」
「そうじゃない、もっと直接的なことを俺は聞いてるんだ」
「すみません」
ファンニが反射的に謝ったことで、少年はどこは不快な色を浮かべた。
だが、ファンニはその理由が分からず、相手を怒らせてしまったのではとオロオロする。
「さて、もう一度質問。世の中で成功者と言われる人はどんな人?」
「えっと、大きな功績を上げた人……?」
「功績を上げた! そして何を手に入れた?」
「……………………お金?」
本当は栄光と言おうとしたのだが、ファンニは今の自分がもっとも必要としている物を答えていた。
「そう、その通り! お金だよ。彼らは大金を手にしたんだ」
だが、それはまさしく少年が求めていた答えだった。
「本当に強いのは、お金がある者だ。お金が無ければ今日を生きるのにも苦労する。世間にはお金欲しさに犯罪に手を染めたり、体を売る人だっているくらいだ。旦那がリストラされた途端、妻が愛想を尽かして出ていくなんて珍しい話じゃない。それほどお金の力は大きいんだよ。
強者が弱者から搾取しているのが、人の世の縮図だ。だが裏を返すと、お金を稼げる立場になれば、それは強くなったと言えるんじゃない?」
少年の演説を、ファンニは真剣な面持ちで聞いていた。
こういう子って詐欺にかかりやすそうだな。まあ、キリルは見るからにお金を持っていなさそうなファンニをターゲットにすることはない。
「ファンニも稼げる側に来ない? お金があれば、家族も悠々自適な生活をすることができるんだよ。それに、君をいじめた連中に目に物を見せてやりたいじゃん」
「…………」
少年の言葉に、ファンニは静かに、だが力強く頷いた。
「まあ、見てろって。俺が上手くやってやるから」
♦
それからしばらく、【マショディック】にある『満腹の美学』という宿の一室で過酷な労働現場が繰り広げられていた。
労働に従事している少年少女とおっさんがひたすら紙にペンを走らせ、一番背の低い子が文字で埋め尽くされた紙に穴を空けてヒモでまとめていく。
「キリル~。もう手が痛いよ~」
「〈ヒーリング〉」
俺はペンを持った手を動かしたまま、もう一方の手でラウラに回復魔法をかけた。
「…………」
「ラウラ、もう大丈夫だろ。ボーっとしてないで手を動かしてよ。そんなんじゃ終わらない」
「おいキリル。体は元気になっても、これはかなり精神的にくるぞ。少し休んだ方がいいんじゃねーのか」
ギルド職員のメドベさんや、学園に通っているファンニ、日本の中学生だった俺はともかく、ラウラは元から字があまり書けなかった。
それを半日ばかりで必要な分を覚えこませ、今の作業をやらせている。
綴じる係は日替わりだ。
「別にいいですよ。ただ、今回の報酬は各自が作り上げた分に応じて分けるということをお忘れなく。それに、休めば休んだ分だけ利益は減るんですよ」
「……それなら、私が不利じゃない」
「だから必要経費は俺が全て負担してるじゃん」
ただ1人、口と同時に手も動かしている俺を見て、メドベさんは作業を再開した。
主宰者である俺が一番働いているんだ。年長者のアンタが負けてどうする。
「メドベさん、字が乱れてきてるんで、もう少し丁寧に書いてください」
「…………お前、鬼だな」
この世界の人々は経理の仕事にでも就かない限り、字を書く機会そのものが少ない。
夏休みの中学生みたいに、同じ英単語をひたすら書き続けていく作業をする機会もないのだ。
「何も考えなくていい分、楽だと思いますよ」
「何も考えなくていいなら、俺はオーガの角になりたい」
そこはせめて貝か尿結石と言ってほしかった。
忍耐強そうなメドベさんが愚痴をこぼしたことで、ラウラがギブアップ宣言。
「あーもう、今日は終わっていい?」
「アイツらに目に物見せてやるって息巻いてたのはどこの誰だったかな」
「そうだったわ! やってやろうじゃないの!」
だけど、それを俺が許すはずもない。気が滅入って判断力が欠如しているのか、ラウラは容易に乗せられた。
このまま上手くいけば、予定より多く完成しそうだな……。そう思いつつ、俺は感覚がなくなり始めた自分の手に回復魔法をかけた。
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